現 在 の 危 機 (2)練馬区 小 野 寺 光 (FAX 03-3976-5437)私達が、その自己中心的な行動について少しでも考えてみたとき、私達はそれを修正しようします。 また、私達がその自己中心的な行動を自覚したときは、その行動の方向を変えようとします。 しかし、根源的な深いところでは、いかなる変革も起こっていないし、この自己中心的な行動の根は絶たれていないように思われます。 そして、私達は、大抵、自己中心的な行動は、むしろ自然なものであり、避けがたいものである―そこから出てくる行為は、時と場所に応じて修正し、変形させ、時には抑制することが出来るものに過ぎないのだ、と決め込んでいるのではないでしょうか。 しかし、今こそ、私達が真面目に真剣に、この途方もない自己中心的な行動の全体の過程を認識することができれば、そのときこそ、この問題を乗り越える可能性が発見できるということに本気で気づかなくてはならないと思います。 過去の歴史を通じていろいろな時代に、社会的、民族的、政治的な様々なタイプの危機があり、また去っていきました。 例えば、経済的な景気の後退や不景気が生まれると、それに修正が加えられ、また別の形で持続してきました。 私達はそれを良く知っていますし、そのプロセスも熟知しています。世界の哲人や科学者は、現在の危機は前例のないものだと指摘していますが、明らかに、現在世界中で見られる危機は指摘の通りであり、私も少なくとも30年前と比較して様相がかなり変化しているように感じます。 その1つに、私達は、金銭とか実体的なものにとらわれるのではなく、観念にとらわれているという理由で様相が異なっていると考えます。 即ち、この危機が例外的であるというのは、危機が観念の領域において生じていると思うからであります。 私達は、様々な観念に難くせをつけて、殺人すら正当化していることがあります。 テレビ、新聞等の報道でもご承知のとおり、世界中いたるところで、正当な目的に対する手段として、殺人が正当化されております。 このような事態そのものが前例のないことではないでしょうか。 以前は、悪は悪として、殺人は、殺人として認識されていたように思います。 しかし、現在は、殺人は崇高な目的を達成するための手段になっているのではないかと思うことが多くあります。 その場合、個人と集団とを問わず、殺人は観念によりそれぞれ正当化されてていると考えざるを得ません。 なぜなら殺人者、あるいはその殺人者が代表する集団が、「人間に利益をもたらすと決め付けた結論を達成する手段として、殺人を正当化している場合」が多くあるからであります。 つまり、その場合、私達は、未来のために現在を犠牲にしているわけであります。その上、私達の宣言した目的が将来人間に利益を生むであろうと思われるかぎり、私達がどのような手段を用いるかは問題ではなくなりがちとなります。 これを裏返して言えば、誤った手段は、正しい結果を生むであろうという途方もない期待をいだき、そして遂に私達は、観念によって誤った手段すら正当化してしまいがちだということではないでしょうか。 以前に起こった様々な危機の場合、問題は物質や人間の利己的開発や搾取でありました。 ところが現在の問題は、観念の利己的利用となっている点において、以前とは異なっているのではないかと存じます。これは前者に比べてはるかに有害であり危険であります。 つまり、観念の利己的利用は非常に荒廃的で、破壊的な傾向を示しがちであります。 私達は、宣伝・布教(プロパガンダ)の威力を知っております。 しかも、これは不幸の中でも最大の不幸の一つであると言えます。 即ちそれは、人間を変える手段として観念を用いることを意味します。 現在の世界で起こっていることはまさにこういうことなのではないでしょうか。このことは、人間が重要なのではなく、今や方式や観念が重要になっているように思えてなりません。 このような状況下では人間は、もはや何の意味も持たないかも知れません。 私達がある結果を生み出し、その結果が観念によって正当化されるかぎり、私達は何百万人の人間を原水爆等を使用し、あっという間に殺すことすら出来ると存じます。 恐ろしいことに、「私達は悪を正当化するために、潜在的に壮大な観念の体系を持っている」と言えるのではないでしょうか。 近年、これが表面に出つつあり、このことは確かに前代未聞です。 しかし、悪は悪なのです。悪から善を生むことは出来ないと存じます。 戦争は平和の手段ではないことも明かであります。 しかし、戦争は平和をもたらす手段であることを、頭の中で知的に正当化することはできます。 他にも前例のない危機の兆候を示している例の原因がいくつかあります。 そのうちの一つは、感覚的な価値・財産・名前・階級・国家、私達が身につけている特殊なレッテルなどに対して、私達が途方もない重要性を与えていることがあげられると思います。 このようなものが、あまりに重要になってしまった結果、今度はその物のために私達はお互いに殺し、破壊し、虐殺し、抹殺していることが多く見受けられます。 このことは、「感覚的な価値や、精神や手によって作り出された物質の価値に、人間が因えられている」ということではないでしょうか。 全ての行為が、私達をそこへ導いているようにさえ感じます。 全ての政治的、経済的、宗教的な行為は、私達を否応なしに断崖絶壁へ運んでいき、この混沌とした深淵に引きずり込もうとしているように思えてなりません。 そのような意味においても、現在の危機は先例がないのではないでしょうか。 それゆえに、この危機は同じように先例のない行為を要求しているように思えます。 我々が、この危機から抜け出すには、観念や方式あるいは特殊なレッテルに基づかない行為が必要なのではないでしょうか。 なぜかと言えば、観念や方式あるいは特殊なレッテルに基づくいかなる行為も、必ず挫折に終わってしまうと考えざるを得ないからであります。 重要なことは、危機が前例のないものであれば、それに対処するには私達の思考に革命を起こさざるを得ない、ということではないだろうかと存じます。 しかも、この革命は、全ての政治や宗教等の指導者や組織、あるいは書物によって起こすことは難しいのではないでしょうか。 つまり、「私達一人一人を通して革命が起こらなければならない」と考えます。 そのときにのみ、私達は日毎に蓄積されていく未曾有の破壊力から離れて、新しい社会を創造できると確信するのです。 そして、個人としての私達が、全ての思考、行為、感情を通して、私達自身を注意深く洞察し始めたときに、この革命が起こると確信して止みません。 最後に「カラマーゾフの兄弟」の中から次の一文を引用します。 「今、全ての人はできるだけ自分を切り離そうと努め、自分自身の中に生の充実を味わおうと欲しています。ところで、彼らのあらゆる努力の結果はどうかというと、生の充実どころか、まるで自殺に等しい状態がおそってくるのです。 なぜかというに、彼らは自分の本質を極めようとして、かえって極度な孤独におちいっているからです。 現代の人は、全て個々の分子に分かれてしまって、だれもかれも、お互いに遠く隔たって、姿を隠しあっています。 そして、結局自分を自分から他人を切り離すのがおちです。 一人ひそかに富をたくわえながら、俺はこんなに強くなった、こんなに物質上の保証を得たなどと考えていますが、富をたくわえればたくわえるほど、自殺的無力に沈んでゆくことには、愚かにも気づかないでいるのです。 なぜかというに、我一人を頼むことに慣れて、一個の分子として全てを離れ、他の扶助も人間も人類もなにもかも信じないように、己の心に教え込んで、ただただ己の金や己の獲得した権利を失いはせぬかと、戦々恐々としているからです。 真の生活の保証は決して個々の人間の努力にではなく、人類全体の結合に存するものですが、今どこの国でも人間の理性はこの事実を一笑に付して、理解しまいとする傾向を示しています。 しかし、この恐ろしい孤独もそのうち終わりを告げ、全ての人が互いに求離するということが、いかに不自然であるかと理解する、そういった時期が必ず到来するに相違ありません。 そういった時代風潮が生じて、人々はいかに長いあいだ闇の中に座ったまま、光を見ずにいたかを思って一驚を喫するに相違ありません。 そのときにこそ、人の子の旗が、天高くかかげられるのです………。 しかし、なんといっても、それまではその旗を大切に守らねばならぬ。 そうして、まだまだと思っているうちに、たとい唯一人であろうとも、ユロージヴィ(宗教的奇人)のそしりを受けようとも、自ら進んで範を示し、人間の霊魂を孤独の中から相互的結合の努力の道へ導いてゆくものが出現すべきです。 それは偉大なる思想をほろぼさないために必要なのです。」 <完> 会 費 の 徴 収 に つ い て副代表 澤 井 正 治 |