生活者主権の会生活者通信1999年06月号/06頁..........作成:1999年06月07日

日本は国民主権の法治国である

大田区  大谷和夫(FAX 03-3721-4065, QZI04657@nifty.ne.jp)

  (はじめに)

  生活者通信5月号に、大山悦男氏が「日本を国民主権の法治国にするために」を発表されているが、 日本国憲法を誤解し、一部憲法違反を主張しているので、「良い國を作る」ことを目的とする当会の会報 としては甚だ品位を損なうものと思い、反論を提出する次第である。
  最初に、日本国憲法(以下昭和憲法と略称)は、連合軍の占領下GHQの速成原案と圧力のもとに、 帝国憲法(以下明治憲法と略称)の改正という形で出来たものである。この点をとらえ、 一部の憲法学者が昭和憲法無効論を唱えているが、これは天皇主権の明治憲法への復帰を策動する 復古主義者の主張ではないかと思われる。
  国民主権、平和主義、基本的人権の尊重をうたった点は昭和憲法の功績であるが、 反面個人のエゴが民主主義のあかしのような概念や絶対非武装が平和主義であるというような幻想を 与えてきたという問題もある。元来憲法は常々改正されるべきもので、半世紀以上も改正を発議して いないのは国民の代表者であるべき国会議員とそれを監視すべき国民の怠慢である。ようやく国会でも 憲法調査委員会が出来ようとしているが、この設置を妨害する動きは反憲法的行動である。 しかし、現在の日本は、グレードは別として、形の上では一応国民主権の法治国となっているので、 以下大山説の誤謬について項目別に指摘を加える。

1.昭和憲法冒頭の詔勅の意義

  大山氏はこの詔勅を「その制定の正当性を支配者たる天皇の神性に基づく権力に拠るとしている」と 主張されているが、これは完全な邪推であって、単に忠実に明治憲法の改正手続きに従っただけである。

2.天皇に国民主権を超越する大権があるのか?

  「現在の憲法に制定されている国民主権も基本的人権も法の下の平等も全て天皇の許可に置いて取り敢えず認められているに過ぎず、気が変われば何時でも国民から取り上げることが可能となっているのです。」という大山説は、一体昭和憲法を読んだことがあるのか疑いたくなるほど出鱈目である。天皇は第一条で日本国及び日本国民統合の象徴となり、第四条でこの憲法の定める国事に関する行為のみ行い、国政に関する権能を有しない、と明記されており、第九九条で天皇はこの憲法を尊重し擁護する義務を負う、とされている。従って、天皇が国民主権を否定するなど憲法を勝手に変更することは出来ない仕組みになっており、万一そのようなことを行おうとすれば、明らかに憲法違反に問われることになる。

3.役人が法律を自由に解釈運用できる非法治国か?

  これは表現が誇張されており、第九八条で憲法の条規に反する法律や国務行為は無効であるとされている。それと余り注目されていないが、第一五条に「公務員を選定し、これを罷免することは、国民固有の権利である。」とあり、不届きな役人がいたら罷免すればよいことになっている。従って、日本を「無責任な人治国家である。」と決めつけるのは不適当である。

4.国民主権とは何か?

  大山氏は国民主権を個々の国民が万能であると誤解している。国民主権とは国民が代表者を選び、国民の信託のもとに代表者が国政の権力を行使し、国民がその福利を享受することであり、それが人類普遍の原理であると前文に明記されている。従って憲法の改正手続き( 第九六条) に拠らずして、一部の国民が勝手に新憲法を制定しようという主張は明らかに憲法違反であり、これを国民主権の名のもとに正当化することは法治国を否定する自己矛盾に陥る。

 (おわりに)

  そもそも憲法は人間の作ったものであり、何時の時代でも完全なものはなく、従って適時改正されるべきものである。その為に昭和憲法にも第九六条で改正の条項を設けているのである。現在の憲法には、修辞上訂正すべき点、解釈に無理がある点、国民的議論を要する点、時勢の変化に伴い新たに考慮すべき点など多くの問題を抱えている。憲法論議をするなら、どこをどのように改正すべきかについて議論するのが建設的であると思うのが現代の常識ではなかろうか。   これらの問題点については、機会をあらためて、投稿し、会員の皆様のご意見を伺いたいと思っている。

生活者主権の会生活者通信1999年06月号/06頁