1942年・東チモールの難民 (1)角幡春雄(治田桂四郎の友人)*** 友人のカルロス・バイヴァの住まいは、メトロをアロイオスでおりて、レアン(獅子)広場から技術 高等研究所の方にのぼる坂道の途中のアパートにあった。 ふたブロックか三ブロックいくと、角に、照明を溢れさせた店が一軒あった。大概が墓石のように くすんで、それでいておっとりした古雅な趣をたたえたリスボンの家並みのなかでは珍しいことである。 夜にはそこだけ別の世界もように輝いていた。シャンデリアや、様ざまな姿態をもつスタンド、 花のようにひらいたブラケット灯や野外でつかう投光器などが、天井から床までギッシリ隙間もなく 埋めていて、そのひとつひとつが精いっぱいに光を撒散らしているのだが、妙なことに、この店はいつ 覗いてみても全くの無人であった。 この照明器具屋が私の目印だった。そこからふたつめの、沈みこんだような顔付きの建物が目的の アパートである。 折りたたみのきく鉄扉のついた昇降機で六階にあがると、私の訪ねる日には、いつもドアを半開きに して待っていてくれた。私にたいする心づかいであり、病気がちな彼の母親や、彼の幼児から同居して いる女中の手をわずらわさないためでもあった。 カルロス・バイヴァは、九州大学に留学したこともある建築家で、肩書きを重んずるこのくにでは、 手紙の宛名のあたまには必ずArq(アルキトゥ、建築家の略)という文字がつらねられていた。 そのころ、彼は私のポルトガル語の教師兼リスボン生活の指南者であり、かわりに私は、彼に日本語を 教え、しばしば、彼の不得意な日本語の手紙を作成した。私たちはそれをポルトガル語では「リサン」、 日本語では「授業」とよんでいた。 彼の家で、謎めいた一枚の写真を発見したのは、そんな授業のある日であった。 四月二十五日革命発起の合図として、ラジオ・ルナサンサから全国に渡されたジョゼ・アフォンソの ながく国禁だった歌「グランドラ」の話になり、もしかしたらそのテープが見つかるかもしれないと いって、彼の母の部屋にふたりで入っていったときである。 カルロスの母の寝台のあたまのところに、幾つもの写真立てがならべられていた。このくにでは珍しい ことではない。家族の忘れ難い古い記念の写真で、全部がモノクロの影像であった。 私が目にとめたのは、軍服姿の男達五人がならんで、そのまんなかの男の腕のなかに抱かれた赤ん坊の 姿であった。白い柔らかい帽子のしたにふたつの眼が、おどろいたように見開かれていた。その黒い 眼は、五十歳に近いカルロスのなにか問いかけるような眼とあまりにも似ていた。 「これは…?」 私は勝手にその写真立てを手にとって、カルロスのまえにつきだした。するとカルロスはいきなり 写真立てを私からとりあげて、まずいものが見つかったというふうな、困却した表情をうかべた。 私は無遠慮に、 「眼がそっくりだ。それはカルロスさんだね。」そしてつづけてたずねた。「お父さんは軍人だったの? どこで?」 しばらく、カルロスは口をつぐんだまま写真の表面を指さきで拭う仕草をしていたが、心を決めたように 大きく息をつき、それから小声で呟いた。 「日本の友人には誰にも話したことがない。父は日本軍に殺された。この写真のときにはもう殺されて いた」 「えっ?」思いがけない彼の言葉に私は息をのんだ。 「……向うにいって話をすることにしよう。ほら、日本にも諺があったね、途中で話を中断するのは 礼儀ではないという……」 そんな諺があったかどうか、私には思いあたらなかった。彼は自分で自分の機嫌をとりなすようにして 私を促して「授業」のための彼の部屋に入っていった。授業のための椅子にもどらないで、彼は、本や レコードやクッションに埋まった小さなソファの隙間に腰を落ちつけた。 「この軍人達はオーストラリアの兵隊です。ぼくはチモール生まれ。1942年に、ぼくは赤ん坊だったが、 難民でした。ナンミンといいましたね、たしか? レフジアード、レフュージー」 彼は日本語もイタリー語も話すが、いっとう無難な共通語は英語だったから、まちがいをおそれるとき には英語をもちだすのが癖であった。戦争の避難民という意味はわかったが、次つぎにとびだす彼の言葉 には、私の方の感覚が追いつくのに時間がかかった。 「ちょっと待ってください。……チモールって、ポルトガルの植民地だった東チモールのこと? そして戦争って、第二次大戦のことですね?」 私はいちいち念を押してみなければならなかった。 「そう」カルロスがこたえる。 「お父さんが殺されたというのは、東チモールで?」 「チモールの、ディリの近く」 「ディリ?」 はじめてきく地名であった。そこにポルトガル政庁があったのだという。政庁の官吏であった彼の父は、 リスボンで彼の母親と結婚して赴任さきにもどり、カルロスが誕生して一年もたたない四十二年に日本軍 の侵入に遭遇して、彼にもどんな経緯があったのか詳らかでないが、日本軍の犠牲になったのだという。 「とうとう話してしまった。日本人には誰にも話すまいと心に決めていたのに…」自分できめたタブー を破ったことを悔いるのか、彼はそれ以上は父親の死を語ろうとはしなかった。「このー」と彼は膝の 上においた写真に目をやって「軍人たちはオーストラリアの兵隊です。難民収容者の人達です」と つけ加えただけだった。 第二次大戦中、日本は世界の五十一の国に敵対し二千万以上の人命を奪った。アジアでもヨーロッパ でも、日本人が、戦争という原罪の負い目を覚えないですむ国は殆どないにひとしい。世界のどこでも、 客として日本人を迎える温顔の底に、どんな怨恨や非難の感情がしまいこまれているか、思い知らされた 経験は、私にもひとつやふたつではなかった。 ポルトガルの居心地よさの理由のひとつは、このことに関わっていた。ポルトガルは戦中、最後まで 枢軸側にも連合国側にも加担しないで、中立を守った数少ない国のひとつであった。あたまの底のところ に戦争の問題があって、いつもそこから離れられない私にとって、ポルトガルは、まず第一に、 そういう国だった。日本が悪いことをしかけたことのない国だったー。それは、知らなかっただけの、 独りよがりであったのか。私はなにか水のなかに沈められたような思いで、カルロスがむしろたのしそう につづける言葉と、私の心のなかにおこる言葉の両方を耳にきいていた。 「この写真はね、ポルトガルの新聞に載ったことがあるそうだ。伯母のはなしです。オーストラリア からリスボンに送られて、ここの新聞に、日本軍の東チモール侵略を非難する記事と一緒にならべられて いた。もちろんぼくは知らないし、みたこともない。調べればわかるだろうが、その気にはならない」 (つづく) |