生活者主権の会生活者通信2000年02月号/06頁..........作成:2000年02月21日/杉原健児

推薦した人にカンパをしましょう!!

〜カンパの状況他と更なるお願い〜

選挙対策特別委員会委員長 江頭清昌

 1月の運営会議にてほぼ全会一致で片山光代氏の推薦方向がが決定し、推薦人の募集を 1月生活者通信の返信ハガキを入れて御願い致しました。1月10日現在で65名の推薦人が 確立しています。276 名の3分の1が必要ですので、92人まで27人が必要です。 推薦のハガキを返信してない方は、至急投函をお願いいたします。
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 又、推薦した人に激励金を用意したいので、選挙カンパをお願いしています。その状況は、 次のとおりです。未だの方は、早めお願いいたします。
 1月6日渋谷区の大崎百合子さん 3,000円、神奈川県相模原市の佐伯雅啓さん 3,000円、 千葉県柏市の治田桂四郎さん30,000円、1月11日中野区の宮川勲さん 5,000円、 1月13日小平市の小俣一郎さん30,000円で、合計71,000円が「主権協賛」の口座に 「選挙カンパ」として振り込まれています。
 尚、前回の原稿で、集金目標を 100口(10万円)と書きましたが、出来れば、 10倍の1000口(100万円)集まればすごいなと思っています。皆様の更なる協力をお願いいたします。
 振込先は郵便口座名「主権協賛」で郵便口座番号は「00100-4-108845」です。期間は、 始めを2000年1月1日と致しますが、終わりは、告示日前日までとします。なお、振込用紙のメモ欄に 選挙カンパと御記入ください。又、カンパ頂いた方は、姓名と居住地域と口数を後日、 掲載する予定です。掲載不可の方は、その旨を振込用紙のメモ欄にお書きください。
 集まりましたお金は、推薦者の数で割り、均等なものをお届けします。推薦者は現在二人ですが、 あと一名片山光代氏を追加の予定です。
 なお、主権協賛は代表の治田さんが委員長をしている活動費募集特別委員会の口座です。又、治田さんは、当委員会の副委員長(連絡係り)です。

1942年・東チモールの難民 (3)

北区 角幡春雄(治田桂四郎の友人)

 いま私の机の上に「チモールの悲劇についての簡単な報告」という、日本文、ポルトガル文のビラがある。日付はないが、たしか1992年、東京東チモール協会から「東チモールに自由を!日本連絡会」名で発行された訴えである。おおよそ紹介するとつぎのような文章である。  「東チモールは、国土はクエートよりも広く、レバノンよりはるかに大きいくにです。コーヒー、大理石、そして石油などの産物に恵まれています。  1512年からポルトガルの植民地になり、インドネシアやオーストラリアとはまったく異なった文化を 発展させてきました。チモール人はポルトガルと闘い、第二次大戦中はオーストラリアや日本軍に 侵略されました。
 インドネシアは1975年12月7日、米国政府の承認のもと、突如、東チモールに侵攻しま した。ポルトガルは東チモールを支持していましたが、流血の事態を避けるため撤退を決めました。
 1991年11月12日、かれらは東チモール独立、インドネシア反対を叫んでデモ行進していた二百人の チモール人学生を殺害する命令を下しました。かれらは殺害した学生をあちこちに埋めましたが、 その一部はかれらが祈っていたサンタ・クルス墓地に埋められました。世界は驚愕しました。 しかし、インドネシアの将軍たちはなんとも思いませんでした。かれらは、東チモールをインドネシア領 として確保するために必要ならば、東チモール人皆殺しにさえするだろう、と明言しています。 実際、東チモール人口六十五万人の三分の一にあたる二十万人が、すでに殺されており、 これは人口比でいうと、カンボジア内戦の死者より多い割合になります。
 インドネシアには東チモールを占領する正当な理由など一つもなく、インドネシア軍が東チモールに 駐留するのは、チモールのコーヒーや石油の略奪者を守るためにすぎません。東チモールは独立の 権利を100 %持っています。かれらが独立のために昔も今も闘うのは、独立こそかれらの人権を 保証する唯一のものだからです。十一月の虐殺を逃れた東チモール人学生たちは、いま、 弁護士をつけることも認められないまま、インドネシアの法廷で裁かれています。独立を望んだ、 というただそれだけの理由で。チモールで闘っている抵抗軍、そしてチモール国外で平和的行動を 繰り広げる同志と共に、私たちは東チモールに独立をもたらしましょう」
 世界の眼から遠いところでおこったこの弾圧を、はじめに報告して告発したのは、日本在住の イエズス会士達であった。私はこのビラを上智大学に奉職するその会の神父からもらった。
 インドネシアが東チモールを併合したのは、1976年である。ポルトガルが四月二十五日革命を経て、 ギニア・ビサウ、モサンビーク、カボ・ヴェルデ、アンゴラなどにたいする植民地支配を清算した 時期である。
 チモール人の独立のための運動は、日本の敗戦とほとんど同時におこっている。ポルトガル復帰に 対するゲリラ的な反乱にはじまって、次第に東チモール独立革命戦線(通称フレテリン)に結集して、 1975年には東チモール民主共和国として独立を宣言した。十六世紀、目的であった香木の白檀を きりつくしたあと、いかほどの物産もないと思われたこの島を見限るようにしていた宗主国ポルトガルは、 そのときにはもう、地球の裏側まで手がまわらなかった。独立を黙認というか、放棄の態度をとる。 ところがそこへ、旬日も経ずに、インドネシア軍が全面侵攻してたちまちディリを占領し、 あくる年には併合を発表するという経過をたどった。
 東チモールは、それからはインドネシアの二十六番目の州であり、ポルトガルの植民地であり、 また、独立した東チモール民主共和国であるという、奇妙な国際法上の存在になった。
 インドネシア軍の、併合の事実固めのためにおこなう、独立勢力への弾圧は、とんでもない量の流血 を伴って、こんにちまでつづいている。東チモールの人口の三分の一、二十万人がすでに失われたのは 事実だろう。これは、かつてスカルノ政権を倒した九・三○事件のあと、共産党を覆滅するとして、 国ぢゅうに、目をおおうような人狩り・流血をつづけたーその延長をおもわせる。 十一月十二日におこった事件も、たまたま発生した事態ではあり得ない。
 そしてさらに遡ると、このビラが訴える事件は、世界最後の植民地帝国といわれたポルトガルの、 四百八十年間の支配と、日本の侵略の後遺症のうえに、軍人国家インドネシアの強権体質が重なって おこったものである。     (つづく)

生活者主権の会生活者通信2000年02月号/06頁