生活者主権の会生活者通信2000年03月号/04頁..........作成:2000年03月09日/杉原健児

1942年・東チモールの難民 (4)

北区 角幡春雄(治田桂四郎の友人)

 この事件を知ってから、私は何度か、カルロスに手紙のなかで、東チモールの事態を告げる試みをした。 しかしその都度うまく語ることができないまま、三年経った。事件にふれると、歴史の部分が次つぎ 長くのびていって、私のポルトガル語が息切れしてしまうし、短くかいつまんでかくことは、 もっと難しかった。それに、理由は、それだけではなかった。
 カルロスは東チモールに特別なつながりをもつ。手紙をかいていると自然、彼の母親の物静かな挙措 があたまに浮かんできた。彼女の方がもっと深刻な因縁を東チコールにもっているからである。
 彼女はオーストラリアから引揚げたあと、幼いカルロスを抱えて、ながくリスボンで地図局で働いたが、 十数年まえに退職した。貴婦人然とした気品を備え、しかもあくまで穏やかな人柄で、異国でひとり暮し をしていた私にずいぶん気をつかってくれた。「ご不自由しょう。勉強もいいけど、たのしみを忘れては いけませんよ。」といって、私を劇場のオペラに誘ったり、自宅の食事に、二度、三度と招いてくれた。
 日本のことが話題になって、八十年代にいちど訪ねたことがあるというので、その印象を訊ねたことが ある。
 「そうですね……」彼女は目を閉じるようにして「東京も博多も、ひとが一斉に速く歩くので、 自分の好きな歩きかたで散歩するのが難しかったのが残念です」といった。
 「日本では女のひとがみんなきれいですね。若い女性はそのうえに、目立とう目立とうとおしゃれを するのに、男のかたは反対に、人目に立つまいと服装に気をつけているようでした」
 怖ろしい皮肉ともとれる言葉を口にしながら、静かな微笑みを絶やさないでいるひとだった。
 私には、彼女が「アンチガメント(昔はね)」といって話しだす、ポルトガルの風俗や歴史上の エピソードのほうが、もっと面白かった。
 六月はリスボンで祭りの多い月である。このころ、街の広場に屋台をおいて、アセチレン灯に水玉を 光らせて売られる、臭いのきつい、掌にのるほどの鉢植えの花が、マンジェリコとよぶのも、 彼女の会話から知った。
 「アンチガメント、マンジェリコに紙片をはさんで、意中のひとに贈ったものです。ええ、 男からでも女からでも。それをするときっと想いがかなうと信じられていました」
 こういうときの彼女のアンチガメントという発音には、金属の玉を水底でころがすような魅力 があった。
 東京で戦中の東チモールのことを調べて帰ってまもなく、私はカルロスに、チモール時代の話を 詳しくききたいが、お母さんに機会をつくってもらえないかともちかけた。
 「だめですよ」カルロスは私の頼みはなんでもきいてくれたが、そのときだけは、言下に断った。 彼は気弱な声でこうつづけた。「母は一日のうち半分はベッドにいなければならない病身です。 若いときに父を死なせて、母は充分に不幸だった。それを、もういちど思いださせとは、 ぼくにはいえないよ」
 私はそのとき、さらにねばってみた。日本ではいま自分史をつくることが流行っている。 多くが自己満足みたいなものだとしても、私は必ずしもそうと思わない。微視的な個人史の積重ねが、 歴史というものの実質に厚みを加えて、どれほど歴史のほんとうの認識に役立つか、 ――そういうものだと思うと、強引に説得した。
 友人は、私の話をだまってきいていた。やがて彼はなにかをなげだすように両手をひろげてみせた。 そして両手を力なく脇にたらしたあと、いった。
 「……ぼくは日本に留学したし、日本人が好きですよ。でもほんとうのところ、母が日本をどう 思っているのか、ぼくは知らないんだ」
 彼はすっかり落着きを失っていた。しきりに眼をあちらにやりこちらにやりしていた。 口にしなでせませたかったのに、とうとういわされてしまった、という悔いが彼の心を苛んでいるのは 明かだった。私は、狼狽した。そして大急ぎで話題を転じようとして、あれこれつまらないことを口に しつづけた。
 ――カルロスへの手紙で、東チモールのことにふれようとするたびに、そのときのカルロスの表情と、 私のあわてぶりが心に蘇ってくる。いまだに、私は、事件の報告をどのようにしたものか、 心を決めかねている。     (完)
生活者主権の会生活者通信2000年03月号/04頁