生活者主権の会生活者通信2000年03月号/10頁..........作成:2000年03月11日/杉原健児

カンボジア・川口昌宏小学校視察

品川区 土屋道子

 1993年8月、船橋グランドホテルに於いて、川口昌宏先生を囲む会【生前葬】が催されました。
 川口先生は 300人程の私達の前で、静かにそして淡々と御自身の病気の経過をはなされました。
「いわゆる告知を受けたわけですが、普通に毎日を送っており、充実と感謝に満ちております…。」 と。骨髄の造血機能がおかされる一種の血液のがんが再発してから一ヵ月後のことでした。 込み上げる涙を押さえることが出来ませんでした。
 しかしながら、モンキーダンスを所狭しと踊られ、誤診ではないかと思われる程お元気でした。 精一杯生きていることをアピールしたかったのかもしれません。
 川口先生は、交通土木の専門家で、海外に日本人ボランティアを派遣する日本国際ボランティア センター【JVC】の初代会長でもありました。1978年から二年間、タイ・アジア工科大学院准教授 として勤務、内戦激化でタイに避難した難民を通じてカンボジアの劣悪な状況を知らされました。 そして御自身も国境まで視察に行き、現場はまるで地獄をみるようだったそうです。
 帰国後はカンボジア難民の里子を育て、難民の子供たちに母国文化を伝えるキャンプを開催され ました。そうした過去、教育状況も最悪であることを知り、「選挙に参加出来るだけの読み書きを 学ばせて平和な国を」の願いでカンボジアの小学校建設を思い立たれました。
 しかしながら志半ばにして、病魔は容赦なく襲ってきました。夫の夢をかなえてやりたいと奥様の 川口和子さんは、先生が里子として引取り育てたヒイ・ブンターさんの故郷である、首都プノンペン から北西へ25kmのプニャール村に小学校を建設されました。
 開校は1994年12月17日。
 今回、某ボランティアクラブの創立40周年記念の一環として40万円を同校に寄付しました。 これを機に私達夫婦は、現地に視察に行くことにしました。新婚旅行以来31年ぶりのカンボジア 行きとなりました。2000年1月26日AM10:00 バンコック乗り継ぎにて PM21:00プノンペン着。
 翌1月27日AM8:00、川口和子さんと、通訳とドライバーをかねてヒイ・ブンターさんが迎えに来て くださって、川口昌宏小学校へ向かいました。
 小学校に着いて大変な歓迎をうけました。校門から 150mくらい先の校長室まで 900人以上の 生徒さん達が二列縱列にアーチをつくり、その門を私達は、手を振ったり、カンボジア流の顔の前で 両手をあわせる作法で通り抜けて行きました。「まるで雅子皇太子妃殿下になったような気分」と 申しましたら、夫からコツン。得難い感動が今鮮明によみがえります。
 27日は木曜日、毎週木曜日は休校日だそうですが、私達のために登校して下さったそうです。 遠く5km位先からも、オート三輪車に台座だけを取り付けたものに一台20人程の生徒達が腰掛けて の通学です。道はデコボコ、大小の過積載のトラック、3人も4人も相乗りしたオートバイに自転車、 歩行者、時には牛、犬、よくも事故が起きないものだと感心させられました。
 小学校はコンクリート・ブロック製で5教室あり、校庭にはブランコ、シーソー、すべり台もあり、 文部大臣の許可を得て「川口昌宏小学校」と名づけられ、校門には、日本語と、カンボジアの公用語 クメール語、英語の三ケ国語で川口昌宏先生の功績をたたえた銅板が埋め込まれていました。 カンボジアでは、日本人の名前のついた小学校は、唯一ここだけ。
 約1000人の生徒が午前と午後の二部制で通学しているそうです。通学出来る子供達は恵まれている 方です。これから行くアンコールの遺跡群の行く先々では、子供達が私達日本人観光客にまつわり ついて、チップ、チップとせがんだり、絵ハガキ、本、竹細工、スカーフ等の物売りで、学校どころ ではないのが現状です。
 物価は、日本の10分の1倍程度ですが、通学している子供達の家庭でも貧しいのです。文具等充分 にそろっていないといいます。
 小学校のほうも、去年11月にめったに来襲しない大型の台風が直撃し、校庭はプールと化し、 また校舎にも浸水し大変な被害を受けたそうです。
 短い日時でしたが、懐かしいカンボジア、復興にはまだまだ時間がかかるでしょう。「そのために 私達がなすべきことは…」などなどが脳裏を去来するなか、一日も早い復興を祈りながら帰路に つきました。

会報「生活者通信」へ「投稿」下さい!

「会報」は、会員の皆さんの間を結ぶ情報ネットワークです。情報の一方通行ではなく、相互交流の会員のメディアです。多くの皆さんの投稿をお待ちしております。(会報担当・杉原健児)
生活者主権の会生活者通信2000年03月号/10頁