私は次年度代表選挙に立候補する事を発表致します
葛飾区 小枝 尚
本会が発足以来6年に入ろうとしています。ご承知の如く本会は「平成維新の会」が解散した後
其の理念を受け継ぎ「より良い国家、社会」を作る事を目的とした市民集団であります。
その一つの手段として前々会の統一地方選挙では会員の中から13名の区議会議員を当選させました。
その後も選挙の度に推薦候補を選び幸いにして会員のなかより5名の衆・参議員・都議会議員擁立する事
ができました。
しかしながらこの為、本会が選挙目的の、或いは、或特定政党の支援団体で有るかの如きの印象を多く
の会員に抱かせる結果を招き、市民団体本来の政策「是々非々」の姿勢が薄れてしまったと受け止め
られる状態になってしまいました。
幸い本年の「総選挙」が終わりますと暫くは選挙の空白時機が到来いたします。この時機を期して
本会の目的とする「政策提言型市民運動団体」の姿に立ち戻る必要を強く感じる次第であります。
そのためにはこまめに「シンポジュウム」「講演会」「議会報告会」等を開き、社会に広く本会の
存在をアッピールする事こそ肝要であります。最近の本会の活動を見ますと、市民評論家集団の態に
なりつつあります。之を深く反省し(私を含め)行動する市民団体に蘇生さる必要を強く
感じて居ります。
古人の曰く「学びて識らざれば、学ばざるに同じ。識りて行なはざるは識らざるに同じ。」とか。
学識・社会経験豊富な会員皆様の意識を結集して有意義な組織に再生させるため、非学浅才の身では
在りますが精一杯頑張ってみたいと思います。
日本の近代歴史学の基礎と問題点
大田区 大谷和夫
日本の歴史教育は昔から少しおかしいのではないかと感じていたので、どのようにして日本の
近代歴史学が始まったかを調べてみた。その結果次のような事実が分かり、「蛸壺的歴史学」と
酷評する人がいるのも成る程と思った。
1887年( 明治20年) 帝国大学( 今の東大) に史学科を設置したのが日本の近代歴史学の始まりである。
当時「世界史概観−近世史の諸時代」を著して世界的に有名なドイツの歴史家であるランケの弟子で
あるルードヴィッヒ・リースが招かれて15年間世界史を講じた。名目は世界史であるが、ヨーロッパ人
のみた世界史は西洋中心であり、日本など殆ど無視されており、従って日本人からみると
西洋史であった。
そこで1889年(明治22年)日本史を専門に扱う国史学科が設置され、しばらく史学科との二本立て
の時代が続いた。しかし日本では江戸時代にも宋時代以前の漢籍が寺小屋でも教えられており、
主として漢籍を扱う分野を1910年(明治43年)になって東洋史学科として設置した。 ここに国史、
東洋史、西洋史の3本立て体制ができ、これが戦後まで続いた。
私が小学校、中学校で教わったのも勿論この3本立ての歴史であり、当然それで世界をカバーするもの
と思いこんでいた。更に中学校時代には主要科目は「英数国漢」と称されたように漢文が必須で、
論語とか十八史略といった古い漢籍を習った。句読点や返り点なしの漢字だけを筆で白文帳に書いて
きて、授業時間には白文帳だけで読まされたことを記憶している。
今から思い起こしてみると、東洋史で一体何を習ったのか殆ど記憶が定かではないが、どうも春秋戦国
の時代から秦、漢、三国時代、五胡十六国を経て、随、唐、宋の時代位までで、現在の中国からみると、
支那大陸のほんの一部の、しかも昔の歴史に過ぎず、とても広大な東洋の歴史といえるようなものでは
なかったように思う。
更に致命的なことは、中近東、西アジア、南アジア、中央アジアから現在の中国の西域に至る部分の
歴史が殆ど欠如していたことで、勿論ギリシャ、ローマから今のヨーロッパを学術的につなぐイスラム
の歴史は完全に抜けていた。従ってシュメール、エジプトから始まる文明の世界史的流れについては
殆ど触れられてなかったように思う。又日本自体も神話からすぐ大和朝に入ってしまい、
研究が遅れていたせいもあるが、日本人の特殊性を形作ったと思われる縄文時代について
語られることがあまりなかった。ということは、致し方ない面があったとしても大変歪んだ歴史教育
であったと言わざるを得ない。
次に戦後の歴史教育というか歴史教科書がかなり左翼偏向していたり、いわゆる自虐的歴史観に
汚染されているようであるが、その根本原因は何であるか探ってみた。そもそもマルクス主義とは
何ぞやというとドイツ哲学、フランス政治思想、イギリス経済史のミックスしたようなもので、
それまでの唯心論に対して唯物論を唱え、唯物史観とは古代奴隷制→中世封建制→近代ブルジョワ
資本主義→社会主義→共産主義という進歩史観である。これはそれまでの西洋を中心とする近代文明や
資本主義をトータルに批判したものと見られる。
一方幕末時代の日本では、西洋列強からの開国の脅迫に対して、尊皇攘夷派と開国派が相争ったが、
西洋対抗意識と言う面で共通しそのような点から同じ西洋文明を批判した唯物史観と共振する面が
あったといわれている。私としてはむしろ、日本は世界一根の古い国で、弥生時代の前の縄文時代は
1万年位続いた戦争のない豊かな自然と共生した原始共産制のような部族社会であった。そのような
文化的遺伝子から無意識に共産制に対する甘い親近感があったのではないかと思う。
その流れが地下水脈のように継続し、敗戦のショックでアメリカに対する反感というかコンプレックス
から再びアメリカ批判勢力としてマルクス主義が歴史学会や教育学会に浸透したものと思われる。
戦後しばらくしての教育学会の会長の書で、ソ連の初等教育を理想視して礼賛しているのを見ると、
どうやら本気でそう思っていたらしい。
敗戦直後、徳田球一などを先頭に共産党の火炎瓶闘争などが行われ、労働組合の再開と共に
共産党細胞が各所で猛威を振るった時期があるが、市場経済に身をおく民間企業労組などでは肌合い
が合わず徐々に姿を消し、競争社会と無縁な官公労とか教員組合、或いは学者、進歩的文化人と称する
人などにその影響は後々まで尾を引く結果となったように思う。
しかし1990年代を迎えて冷戦世界を二分する一方の雄で共産主義の本家であるソ連が崩壊し、
唯物史観をベースとする共産主義というか社会主義は実質的に破産し、20世紀の壮大な実験も無残な
失敗に終わった。にも拘わらず、タイムラグというか日本の教科書にまだその残滓が見られる。
これを一掃するには新しい歴史観の提示が必要であろう。
次回は新しい世界史モデルとしての新文明史観について紹介する。
参考図書「文明の海洋史観」川勝平太著 中公叢書
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