生活者主権の会生活者通信2000年12月号/07頁..........作成:2000年11月26日/杉原健児


野中自民党幹事長いいかげんにしろ!

東久留米市市議会議員 池田はるお

  川田選挙が共産党「丸抱え」などとよくもデマを
流すか。取材の記者も知っているとおり。共産党が
組織的に選挙事務所で手伝ってくれたことは全く無
い。個人的に公選はがきに協力してくれた人はいた
し、そのことに感謝しているが事務所のほとんどの
ボランティアが既成政党に失望した政治に関心をも

つ無党派。協力してくれた市議や区議も無所属議員
の寄せ集め?  幸か不幸か共産党の組織にかかわっ
た人は一人もいない。こんなうそをつかなければな
らない自民党も情けない。                      
◎川田えつこ   51008票  当選。                
      ……声をつぶしてがんばりました。        
○加藤  積一   48883票                        
      ……7万の基礎票という自公最期まで脅威。
○長島  昭久   25843票                        
      ……最終日の組合動員すごかったです。    
○工藤ていこ   13627票                        
      ……社民党の宣伝カー一番電話かけ妨害。  

映画『17才』原案 (1)

ポリインフォ・プロダクション 秋沢秀人・宮本修伍・清郷伸人

【1.主題】

1999年から2000年にかけて日本社会は未体験の衝 撃に包まれた。17才の少年による単独凶悪犯罪の頻 発である。それは3年前の14才の少年の計画殺人を 淵源としている。この映画の主題はこのような17才 の少年の行動の動機に迫ることで日本社会が抱える 病根を抉ることである。敗戦後50年を経て吹き出し たウミ情曹サれはまだ始まりに過ぎない。体内の腐 肉を除去しない限り17才という最も敏感な細胞によ る復讐は終わらない。

【2.背景と大要】

a)現象の深奥に潜む本質を凝視すれば、今回の17才 の犯罪の背景は昭和の初めに遡る。日本人は急激 な近代化すなわち西欧化の成功に酔い痴れた。小 人のような江戸期を脱し、俄か大人が無理な背伸 びで周囲を睥睨した明治末期に日本人の変質は始 まった。そして昭和に入ると裸の王様になって玩 具のような世界観で暴力(戦争)に突っ走った。 b)その過程で極めて異様なシステムが出来上がった。 究極的な無責任体制である。帷幄奏上権を核とす る統帥権が近代の責任システムである三権分立を 超越してこれを蹂躙していく。そしてこの統帥権 の頂点には天皇がいるのだが、立憲君主制を掲げ る明治憲法では天皇は内閣補弼という無責任に等 しい立場なのである。このカラクリ情綜相も大 臣も軍部も「天皇」の名のもとに独裁を進めなが ら最後はだれも責任を取らない体制が完成した。 そしてこれは敗戦後もある意図のもと受け継がれ ていった。 c)日本統治の全実権を握った占領軍のマッカーサー 将軍は独特の日本人観に基づいて占領政策を実施 した。情早u精神年齢12才」(マッカーサー)の 国民の親である天皇は処刑せず人形的存在にして おき、子供は二度と危ない玩具は持てないよう縛 る。これが平和憲法である。軍隊という大人の道 具はアメリカが担い、子供の保護はアメリカが受 け持つ。子供達はひたすら生活再建と民主化に邁 進する。情曹オかしそれは子供の世界では拝金の 跳梁と弱者のルサンチマンへと変質した。こうし て戦後も保護区・日本では無責任体制は温存され た。責任を担おうとしない人間を「子供」と呼ぶ。 d)教育変革こそ占領軍が最も心血を注いだ政策であ った。欧米で数百年の試練に耐えた近代的民主化 教育を母系社会の封建的土壌にいきなり植え付け たのである。たちまち戦前の価値観、教育システ ムは崩壊した。しかしこの劇薬は効きすぎた。学 童たちは無責任な国と親に不信感を抱いて育ち、 自由と責任、権利と義務は自覚されないまま都合 よく解釈されて時は経過した。そしてその学童た ちの子や孫が現在の17才を形成している。 e)自由と権利をはきちがえ、学歴競争に明け暮れた 戦後の学童は高度成長経済を担う戦士となったが、 かれらは物質信仰を拠り所に子供を育てた。そし て学校では義務教育というのは競って勉強するこ とではなく、全員平等に進級することが不抜の原 理となった。優れた者に向かうのではなく、劣っ た者に合わせるのである。学校の実権はPTAの Pが握った。Pとは母親のことであり父親はいな い。母親の王様は子供である。こうして教育は家 庭でも学校でも放棄された。 f)父親がいない教育現場というのは母親もいないと いうことである。母はいる。しかし母親はいない のである。現在子供を育てることのみで充足して いる母親は極めて少ない。自己実現と社会参加と 経済力情装黷スちが獲得した果実の影で子供は代 償を払わされている。今や育児は”お仕事“なの である。もしかすると”重荷“かもしれない。そ こにしか母親は生きる場がなかった時代もあった。 しかし今はそんなものは否定されるだけでその深 い意味をだれも尋ねない。こうして日本では父も 母も子供の訓育を放棄している。訓育されない子 供というのははたして人間になるのだろうか。 g)こうして訓育されなかった17才の主張する犯罪は 無数の予備軍を持つ。これほどの現象を個人に帰 することは間違っている。われわれの社会に犯罪 を誘引するものがあるのだ。犯罪の本質は暴力で ある。17才の目の前でわれわれは暴力に跪いてい ないだろうか。有形無形のありとあらゆる暴力、 圧力への屈服情草モ任を自覚しない日本人という 子供を17才は見て育って来た。暴力ほどおいしい ものはない。そういう社会をわれわれは作ってし まった。17才はわれわれの最も柔らかい部分を突 き刺す棘である。 h)映画はこのような視点で、17才の犯罪に迫る。犯 罪は個性と環境の合作である。事件は解決するが、 事件の動機への特効薬はない。しかり映画は現実 の事件への一つの解釈を提示するのみである。 情蒼本人が暴力、圧力に負けずに自分を貫く大 人に脱皮していくことのみが17才を救い、自分を も救うことになるのだ、と。 (つづく)

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