ジーコジャパンと靖国問題

東京都三鷹市 田代 秀子


 2006年サッカーワールドカップの日本の成績は1引き分け2敗であった。ジーコジャパンのこの結果がきっちり検証されたとは思えない。まるでジーコを監督に据えた日本サッカー協会の最高責任者川淵氏に批判が集まるのを避けるがごとく、すばやくオシム次期監督の名をあげ、サッカーファンの関心をそちらへもって行ったとしか私には思えない。どうして、敗因は何か、日本チームに足りなかったのは何か、監督としてのジーコの責任はどうなのか、ジーコを監督にした責任は、など徹底的に検証しなかったのか。特にTVでは日本チームの実力を客観的に報道せず、ジーコが何かしてくれるにちがいないなどと神頼みのコメント、そして敗戦。翌日からオシムジャパンにさっさと乗り換えた。それがそのままサッカーファンの批判なしの流れをつくってしまった。

どこか何かにそっくりだと思う。たかがスポーツの結果であるが、若者をコントロールするのは簡単だ。マスコミの特にテレビは今や恐ろしいほど影響力を持っている。仮に番組の中で誰かがジーコを監督に決めたこと自体疑問だ、ブラジルサッカーを個人的スキルの点ではるかに劣る日本選手に当てはめること自体大間違いと、いようものならどこからか圧力がかかり、そのコメンテーターを今後使わないようにというTV局に要望が来るのかもしれないと思ってしまう。本当のことを言えない、検証をしない、太平洋戦争後の検証、責任の追及をしなかったことと私はそっくりだと思う。

小泉首相の815日の靖国参拝を行ってよかったという人の中に20歳代の若者が多かったという世論調査があった。物事を深く考えることを教えられず、権力を持っている側に疑問を持たず寄っていく傾向、数の多いい方に簡単に乗ってしまうのが今の若者である。戦争を知らないのだから仕方がないと言っていいのか。

近く封切られる邦画「出口のない海」で人間魚雷「回天」に閉じ込められ外から出口を閉じられ、敵艦にぶち当たり玉砕した兵がいたことを、今の若者が知ることになると思うが、概して国のために死ぬことを潔しとする映画、ドラマが多いい。「靖国で会おう」という「靖国」は内橋克人氏の言うように「社会的装置」だったのだと気づいて欲しい。

「戦後に来るのは戦前だ」という言葉が真実味を帯びてきたこの頃、過去に学ぶことや、結果の検証や、責任を追及しないことが恐ろしいことになっていくということを何とか若者に分からせたい。映画やドラマでなく米軍が撮影した実録を見せるべきだ。見ればどれほど当時の日本の指導的立場の人間が間違いを犯し、愚かしい戦争であったことが判り、こんなことで死にたくないと思うはずだ。ナショナリズムの高揚で若者をある方向に向けようとする動きを我々は何としても阻止しなければならないと思う。