相変わらず『核保有』論議
〜〜 長島昭久の乾坤一擲 11/6(月)〜〜
衆議院議員 長島 昭久
中川昭一自民党政調会長の「核保有」発言が止まりません。
11月3日の地方講演でも、中川氏は、北朝鮮が日本の原子力発電所を核ミサイルで攻撃する場合などを例示して「撃たれないようにするにはどうしたらいいのかという議論をなぜしないのか」と語ったといいますから、この方は、麻生外相のように「国民的議論を封殺してはいけない」という意味での論議容認の主張とは異なり、本気で核武装による北朝鮮の核への抑止論を唱えているようなのです。
ここまで来ると、こちらも本気で議論せねばなりません。このような無責任な議論がまかり通って国際社会を独り歩きすることは、わが国の国益に反するからです。
結論を先に言えば、私は、我が国は今後とも「非核」政策を貫き、核廃絶に向けた国際努力の先頭に立つべきだと考えておりますし、同時に、原爆症認定訴訟の原告の皆さまへの支援などを通して国内的な啓蒙努力も一層強化していくべきだと考えます。
ただし、私自身、TV番組でも明言したとおり、核保有についての是非を真剣に議論することは大切だと思っています。外相答弁を捉えて、国会で議論すること自体けしからんと委員会質疑ごとに執拗に迫る一部野党議員の態度には辟易しています。「核を持たない」という非核三原則があるのにもかかわらず「議論する」ということは、「保有する」という結論を前提にしていることになるではないか、との主張には苦笑するほかありません。
しかし、「唯一の被爆国」という情緒論一本槍では、残念ながら国際社会に対して説得力はありません。現実主義的観点からいえば、戦略環境が激変している中でそのような情緒論はかき消されてしまうと見られているからです。したがって、「北の核」という非核三原則を国是と定めた70年代初頭とはまったく異なった今日的環境の下で、改めて非核政策を貫く意義と価値をきちんと論理的に詰めておく必要があるのです。このことは、先日出席した岡田元代表が主宰する「核軍縮促進議連」の勉強会でも発言させていただきました。
そこで、私は、11月2日の衆院安全保障委員会における久間防衛庁長官との質疑を通じて、北朝鮮による核保有という戦略環境の激変を考慮に入れてもなお、核保有が我が国にとっていかに非現実的な選択肢であるか、ということを政治、外交、経済、エネルギー安全保障など様々な角度から明らかにしました。数日前の衆院外務委員会における前原前代表と麻生外相との間の同旨の質疑と併せ、こうした真面目な国会審議をまったく報道しないマスコミは、結局、核保有発言を面白おかしく煽るばかりで、我が国の核保有をめぐる本質的な議論にはまったく興味がないのだということがよくわかります。
私の核保有批判の論拠を以下まとめておきます。
議論の前提として、まず確認しなければならないのは、「一体何のために核を持つべき」と考えるのかです。
第一に、自国の安全保障のためだと考えられます。
第二に、(第一の目的をより具体的に突き詰めると)北朝鮮の核の脅威を抑止するためということができるでしょう。(どうやら、中川政調会長もこの観点のようです。)
第三に、これは北朝鮮の金正日総書記の論理ですが、核保有により自国の外交交渉力を飛躍的に向上させるためということが考えられるかもしれません。
以上が、核保有論者が描く核武装の目的です。
問題は、果たして我が国の核保有がこれらの目的を達成するのかどうかです。
まず第一の目的についてですが、答えは「真逆」ですね。我が国の核保有によって、我が国の安全は保障されるどころか、未曾有の危機的な状況に陥るでしょう。我が国が東アジアの「核ドミノ」の引き金を引くことによって、たちまちのうちに我が国を取り巻く安全保障環境は悪のスパイラルに嵌まり、頼みの日米同盟関係にも深刻な亀裂が生じるでしょう。(この点については、後段で詳述します。)
第二の「抑止力」となり得るかについて。これも、まったく期待できません。抑止力というのは、基本的に「襲い掛かってくればその何倍もの力でお返しするぞ」という報復の脅しで相手の攻撃を思いとどまらせることによって成り立つものです。そもそも自暴自棄で攻撃を仕掛けてくるような相手なら「抑止論」は通用しません。冷戦時代に相互確証破壊(MAD, Mutual Assured Destruction)といわれる抑止理論が通用したのは、米ソ両国が基本的に合理的な計算に基づく対称的な核兵器配備競争を行っていたからです。もともと北朝鮮がそのような理論を受け入れている保証はなく、しかも、この核技術や核爆弾がテロリストの手に渡れば、それはもはや理論もへったくれもありません。
しかも、我が国のような奥行きのない地形(軍事用語では、「縦深性」がないと言います)で、人口や経済中枢が偏在している国では、いったん核攻撃を受けてしまったらその瞬間にほぼゲームオーバーで、報復のための核打撃力を保有する戦略的な意味はほとんどない。強いて言うなら、報復用核ミサイルを搭載した原子力潜水艦を太平洋側にでも配備しておくことが考えられますが、それは莫大なコストがかかる話で、つぎに触れる核保有に伴う経済的コストと相俟って現実的な選択肢とは到底思えません。
第三に、核保有の経済的、エネルギー政策的なコストについて。核保有ということになれば、当然NPT体制から脱退し、IAEAの査察も拒否することになります。そうなれば、米英仏加豪中などとの原子力協力協定なども破棄され、その結果、天然ウランや濃縮ウランなどの輸入もストップ。国内の電力需要の3割を担う原子力発電は停止、経済活動は破綻。のみならず、国際社会からの経済制裁は必至で、「対日六カ国協議」なんてことになり、北朝鮮顔負けの国際的孤立に陥り・・・。
もうこれ以上説明する必要もないでしょう。要するに、核を持った瞬間にすべてが破綻するということです。つまり、核保有によって外交交渉力は上がるどころか地に落ちるのです。
こういった現実的な視点に基づく真摯な議論をしないままに、闇雲に「核保有を!」「いや、議論することもダメだ!」と国会で罵り合っていても、まったく生産性はありません。与野党ともにここは深呼吸して、なぜ我が国は核保有を(能力はあるが)実行しないのか、について真剣に議論をし、国際社会を改めて納得させるべきだと考えます。
それにしても、与党の政調会長が、国内ならまだしも、同盟国アメリカまでわざわざ出かけて行って執拗に核論議を展開することは、我が国の国益を害する行為として看過することはできません。「過ぎたるは呼ばざるが如し」です。個人的な信念なのかもしれませんが、もう一度冷静に日本核保有がもたらす国際的な悪影響や自国の安全保障や経済環境に与える深刻なダメージについて深く考えをめぐらして欲しいところです。
ここで、私がとくに注目したいのが、以下の記事です。
(引用始め)
「シーファー駐日米大使、日本の核保有論を牽制」(2006年10月27日20時37分@Asahi.com) シーファー駐日米大使は27日、東京都内の日本記者クラブで会見し、北朝鮮の核実験実施を受けて日本国内で核兵器保有論が議論されていることについて、「フランスも核兵器を持ったが、旧ソ連に対する抑止力が強化されたわけではなかった。米国が全力で対応することで抑止されていた」と語り、牽制(けんせい)した。
また、日本が集団的自衛権の行使を認めていない
ことを念頭に「米国は敵のミサイルが日米どちらに向かっているかにかかわらず、(ミサイル防衛で)迎撃しなければならないが、日本は米国に同じ義務を負っているわけではない」と指摘。
そのうえで「この問題には今答えを出しておいた方がいい。その時になって決めようとしても間に合わない」と述べ、攻撃対象が判然としないミサイル迎撃について、日米間で調整が必要との認識を示した。
(引用終わり)
この米国大使の発言の意味は重いと考えます。ブッシュ大統領と直結する全権大使の発言という重さもさることながら、発言内容の意味するところはきわめて重大だと思います。端的に言えば、「ちょいと議論の順番が違うのではないか?」とたしなめているのです。ちなみに、中川政調会長の訪米はこのシーファー発言の直後ですから、米政府が呆れ返るのは当然でしょう。
そもそもナンセンスで非現実的な核保有の論議をする前に、かねてから日米間の安全保障政策における最大の懸案であった集団的自衛権の行使をめぐる議論を先にやってくれ!・・・ということです。そもそも安倍政権は、それを真剣に検討すると言っていたではないか。周辺事態や弾道ミサイル防衛における日米協力こそが、北朝鮮による脅威に対処する最も現実的で実効性の高い安全保障政策ではないのか?
ところが、日本から聞こえてくる雑音は、やれ敵基地攻撃だ、やれ独自の核抑止だなどといった勇ましい話。結局、日米同盟基軸は「建て前」論に過ぎないのか?こんな懸念がワシントンに広がることは絶対に避けなければなりません。我が国の安全保障を真剣に考えるならば、まず日米同盟が有効に機能するかどうかを再点検することです。その上で、不足な部分についての議論を始めることでしょう。この順番が逆になるということは、我が国の安全保障について遊び半分に考えているか、何か「別の意図」を持っていると誤解されかねません。日米韓に隙間風が吹いて、これを一番喜ぶのはどの国か、しっかり見据えた議論をせねばなりません。
今後とも、地に足をつけた現実的な外交・安全保障論議を、国会において展開してまいりますので、ご支援のほどよろしくお願いします。
《 【長島フォーラム21<第七十七>2006.11.06】より転載 》