靖国神社と太平洋戦争の清算

東京都文京区 岡戸 知裕


靖国神社と太平洋戦争の清算

1)現代に通用しない教義

江戸時代後期から明治時代において西欧列強の帝国主義はアジアを蹂躙していた。

日本は如何に西欧列強の支配から逃れ独立を維持するかという極めて厳しい時代の中にあった。プロシアの鉄血宰相ビスマルクは北海道の割譲を意図しており、ロシアはシベリア鉄道の完成と共に北東アジアに於ける南下政策の手始めとして沿海州を清から割譲させていた。清は沖縄が古来からの中国の領土であることを主張し、朝鮮における日本の影響力を排除する行動を取っていた。

こういう大変厳しい時代背景の中にあって日本は日清、日露という植民地獲得戦争に勝利した訳であるが、その中にあって陸海軍が運営する靖国神社は帝国主義体制の推進装置として大きな役割を果たしてきた。戦死者は英霊として顕彰し、戦争そのものも聖戦として位置付けられた。

官営靖国神社が負った帝国主義の時代における社会的な機能は何かと言えば、戦死した兵士の遺族の悲しみを喜びに変えるというレトリックを提供し、他の国民も自ら進んで国家の為に命を捧げようとさせる装置として機能していた。

そのような教義をもった靖国神社に、現代に生きる我々が個人として参拝するならともかく、日本の首相が公式参拝するとなると、戦後の平和憲法のもとに存立する国家として果たして政治的に妥当な行為といえるのだろうか。

2)合祀決定の独善性

合祀の決定はあくまでも国家の為に戦死した軍人・軍属を対象とするものであり、西南戦争のように明治政府に対して反旗を翻したものは例え西郷隆盛であっても合祀されていない。つまりここに宗教というより国家の意思というものがはっきり存在するのである。

空襲や原爆の犠牲となった一般市民、さらに日本の行った帝国主義戦争の中でのアジアにおける戦争犠牲者も当然のことながら含まれていない。また日本国内においては合祀取り消しを要求するキリスト教徒や朝鮮、台湾に於いて徴兵された軍人軍属も本人や遺族の意向に関係なく合祀されている。

3)靖国神社の教義は戦後変えるべきだった。

戦後平和国家として戦争を放棄する条項まで憲法に加えて再出発した日本であるが、靖国の教義も戦後の日本にふさわしい教義に変更すべきであった。日本におけるすべての戦死者を犠牲者として合祀し、できればアジアに於いて犠牲となった人々も含む追悼の神社として生まれ変わるべきだった。そうであればA級戦犯も戦争犠牲者として祀ることができたのではないか。

4)太平洋戦争という特異な歴史的存在をどう検証するか?

しかしながら現実的には靖国神社の教義が変わるということは期待できない話であり、そういった頑迷な教義を戦後も引き続き存続させている中で、A級戦犯合祀問題を判断するとなるとその背景である太平洋戦争とは何であったのか、その検証を抜きにして判断することは難しい。

日本が行った数々の植民地獲得戦争の中で、太平洋戦争の犠牲者の数が90%にものぼる。この戦争の清算なくして現代に生きる我々として死者に顔向けができるものではない。神風特攻隊の学徒兵たちの死を無駄死にとしないためには現代に生きる者の責務として先の大戦の清算を終えねばならない。

極東裁判という外国による戦争の検証にすべてを委ねてしまったツケは非常に大きいと言わざるを得ない。極東裁判とは米国が中心となった連合国により行われた裁判であり、戦勝国による裁判であるからして原爆投下については一切触れられていないし、勝者による裁判であれば当然公平性という点で問題があり、この判決をもって歴史の検証に替えることは到底できない。

それでは戦後にその検証や反省を終えているかといえば、全く臭いものにフタで触れることもタブー視されてきた。特に戦争直後は旧軍関係者が数多く生存していたわけでその真実にふれることも憚られた。よって戦後60年を経た今日まさに日本人による歴史の検証を終える必要がある。

 

敗戦の原因にふれる前に戦争の定石として日露戦争を挙げて太平洋戦争との比較としたい。

 

■明治体制下の日露戦争・・・戦争をするなら日露戦争のようにやれ!

北辰事変と呼ばれる義和団事件の後、帝政ロシアは60万の軍隊を満州に駐屯させ満州を実効支配し清に割譲を迫っていた。そして帝政ロシアによる侵略意図は朝鮮半島に及んだ為、日本は調停案として満州のロシアによる支配を認める替わりに日本の朝鮮支配をロシアが認めるという提案を行った。しかしロシアはあくまで朝鮮の支配を欲した為この調停案は無視されこれによりロシアとの関係が決定的な局面を迎える。

イギリスは清における英国の権益維持の為日本にロシアを牽制させる必要に迫られ、ここに英国と日本の利害関係が一致し日英同盟に発展する。この同盟による日本のメリットはもしロシアとの戦争となった場合、三国干渉の苦い経験から、条約により英国にドイツとフランスを牽制させた。またドイツにとっては帝政ロシアの矛先を東に向けるというメリットがあり、英国に日英同盟を持ちかけていた。この同盟により10倍の国力があると言われていたロシアとの戦争に際してロシアとの一国戦となるよう条件を整えたのである。

またロシアとの開戦直後米国のルーズベルト大統領とハーバードの同級生であった金子堅太郎を米国へ派遣しロシアとの仲介工作を開始した。

このように日露戦争は江戸時代に教育を受けた下級武士達により行われた戦いで、戊辰の役や西南戦争、日清戦争に勝ち抜いた実戦経験者が武士道を基本精神としてプロシア陸軍参謀本部メッケル指導の下、最先端の戦術と軍事技術を導入して戦った。正に和魂洋才である。

戦闘に際して各軍団に国際法の専門家を派遣し捕虜の扱いは特に慎重に行われた。横浜で発行された当時の英字新聞Japan Weekly Mailには、捕虜の取り扱いに関してロシアでの日本人捕虜の扱いは非人道的であるが日本におけるロシア人捕虜は厚遇されていると報じられており、捕虜となったロシア兵の多くは“Matsuyama ! “と叫んだそうだ。当時松山にロシア兵の捕虜収容所があり、労働に対して給料が支払われ、その給料で地元の特産品をロシア兵が購入し地元経済の活性化にも繋がったそうだ。また乃木将軍は捕虜となった敵将ステッセルに帯剣を許しロシア兵には寛大に対処している。結果日本に対する賞賛の声が世界に広まり世界を味方として戦った。

一方膨大な戦費を賄う為、外債を当時の超大国英国で発行する計画を立て、高橋是清が英国での活動を開始したが思うように集まらず、渡英最後の晩餐会で、幸運にも米国のユダヤ人実業家ジェイコブ・シフと偶然会い日本への協力の確約を得ることができた。シフは屋根の上のヴァイオリン引きのストーリーともなったクリミアにおける帝政ロシアによるユダヤ人虐待に抗議する意味から米国での起債を快く引き受け、米国のユダヤ人団体が協力した。(私は偶然にもシフの親戚と先日ホテルで昼食をとることができたことを非常に光栄に思っている)

要するに当時の帝政ロシアはロシア人民を抑圧したのみならず周辺の国家をも併呑し圧制をしいたので、ロシアとの戦いに世界が応援したのも尤もなことだと思う。

戦後トルコではトーゴーという名前を子供につける風潮やフィンランドではトーゴーというビールまでありロシアの敗戦は周辺国に希望を与えた。また有色人種国家による白人種国家に対する勝利という、オスマントルコ以来の世界史の大転換点でもあったと言える。

 

太平洋戦争の敗因は何か?

1)明治体制の自壊作用・・・統帥権の暴走

太平洋戦争の源流を辿ってゆくと山県有朋に行き着く。

明治憲法下、天皇は大元帥として表面上国軍を統治するわけであるが、この指揮権を統帥という。この統帥権を帝国陸軍参謀本部が実質的に保持し山県有朋がその長となるのである。山県は当時自由民権運動が盛んになる中で議会による軍隊への介入を嫌い帝国陸軍参謀本部にこの統帥権を保持させ、山県が参謀本部の長となって、陸軍全体の指揮権を握る体制を作り上げた。

政府から独立した参謀本部を設置することは統帥権が政府の手から離れて政治と軍事が分離する危険が生じ、かつ軍事組織が軍令と軍政に二元化することを意味する。

さらに参謀本部の設置は文官優位の太政官制の中で武官の地位を高め、陸軍を権力掌握の牙城としようとした山県の思惑があった。参謀本部を牙城として陸軍を掌握し政・軍・官に権力を確立することにより政治と軍事の分離という欠点を補い、政略と戦略を一致させて対外国防に望んだ。しかしながら山県有朋を始めとする明治の元勲達が死去するとたちまち、政略と戦略の調整が困難となり、統帥権の暴走が始まる。

山県が生きていれば驚愕するような満州事変という統帥権の暴走が始まり、暴走が始まって14年後に原爆とソ連の参戦をもってようやくその暴走に終止符が打たれるのである。

2)日独伊三国同盟・・・政治戦略上の重大な誤り

日露戦争では当時世界の超大国と言われた英国と同盟を結んでロシアとの一国戦になるように戦争の条件を整えたわけであるが、先の大戦ではすでに世界の超大国となった米国が支援する英国と交戦中のドイツと軍事同盟を結ぶという決定的な失策があった。

ドイツに加担することにより、自動的に戦争に巻き込まれる危険性があり、正に火中の栗を拾うとはこのことである。この同盟決定に際し、近衛、松岡、参謀本部は、ドイツは英国との戦いに勝利する、またドイツはソ連を短期に制圧するという現実離れした誤った前提条件に凝り固まっていた。

この同盟による日本側のメリットはソ連をドイツと共に挟撃することが可能になる事と、当時蒋介石を支援していた米国に対する牽制の意味があり、ソ連、米国に対し強い態度で望むという、いかにも松岡らしい外交戦略であるが、ドイツという道徳的に問題のある(ユダヤ人虐待)国家と組することにより世界を敵としてしまった。

この同盟を推進したのが松岡外相、近衛首相、陸軍参謀本部及び陸軍の手先として活動した右翼(笹川良一)、白取イタリア大使、大島ドイツ大使である。この同盟により英米との対立が決定的となり、米国から石油の禁輸を受けることになる。

米国と対立すると石油の禁輸を受けるという危険性は当時でも殆ど常識であったと思う。米国の石油の禁輸にはもう一つの側面があり、ドイツと交戦中のソ連を日本が挟撃しないようにするというルーズベルトの戦略があった。この石油の禁輸によりインドネシアの石油を求めて日本は南進政策に切り替わり、結果ソ連はドイツとの戦いに集中することが可能になった。(松岡外相はヒトラーの心酔者でもあり、ドイツと共にソ連を挟撃すべきであると主張していたが石油の禁輸により一挙に南進政策に切り替わった)

歴史にいつもIfはつきものであるが、もし石油の禁輸が無ければ陸軍は間違いなくヒトラーの要請により協力してソ連を攻撃したと思う。となれば戦後の冷戦構造というものが無かった可能性もある。

3)盧溝橋事件は太平洋戦争への第一歩・・・インテリジェンスの欠如

中国との終わりの無い戦争の始まりであるこの事件は,蒋介石の遠大な抗日運動の始まりを意味し、太平洋戦争への導火線となった。

蒋介石の戦略とは日本を中国奥地に引きずり込み、消耗させ、かつ中国中部の英国の権益、南部のフランスの権益と衝突させ、最終的に米英仏との戦争に発展させた上で日本を壊滅させるという遠大な戦略で歴史はこの蒋介石の描いた計画通りに進行した。よって日中戦争の真の勝者は中国であると言える。

当時の日本の指導者、特に近衛首相、陸軍参謀本部は全くこの蒋介石の戦略を見抜くことが出来なかった。日露戦争当時、明石大佐を欧州へ派遣し諜報活動(ロシアの革命家に資金を提供など)を行わせインテリジェンスというものを理解していた陸軍がなぜ37年後の戦争でこうもインテリジェンス不在となってしまったのか理解に苦しむ。インテリジェンスとは破壊工作活動を含む諜報活動と言える。戦争の勝敗はこのインテリジェンスとロジスティックスで8割は決まるといわれている。

スターリンは英国における独自のスパイ網から米国の参戦決定や、英国の諜報活動の勝利などかなりの情報を得ていた。皇居の近くに半蔵門という地名があるが、これは家康が使っていた忍者服部半蔵から由来している。このように戦国武将たちはインテリジェンスに非常に長けていたわけだが、残念ながら太平洋戦争以来現代においてもインテリジェンス不在の状態が続いているようだ。

4)武器の近代化の遅れ・・・・元亀天正の装備

顕著な例として38式歩兵銃がある。恐らくこの歩兵銃の世界大会があったなら間違いなく日本が優勝できたであろうが、この銃は日露戦争最中の明治38年式の銃で、日露戦争当時に世界の先端を行く銃でも、37年後のガダルカナルでの白兵戦には全く使い物にならない。

海軍も空母の時代にも拘らず仮想敵国米国との艦隊同士の決戦を想定しており、日露戦争当時の艦隊決戦思想から抜け出ることがなかった。

ノモンハン事件でソ連の空軍力と戦車による電撃的な作戦で押し捲られ甚大な被害を出したが関東軍はその敗因を認めようとしない。ソ連の近代的な軍事力を指摘した軍人にはお前は恐ソ病かといって恫喝し左遷するという殆ど進歩というものを否定した組織であった。

5)あまりに精神主義に偏った戦争指導

東条英機の昭和16年当事のニュース映像の中で、この無尽蔵の精神力をもって戦えば必ず勝てるというくだりがあるが、現代では笑いを通り越して悲劇としか言いようがない。

6)陳腐化した戦争戦略と拙劣なる戦争指導・・・夢よもう一度

海軍の大艦巨砲主義と陸軍の白兵戦至上主義は日本海海戦と203高地に由来する。日露戦争の成功体験をそのまま引きずって太平洋戦争に迷い込んだ。

拙劣なる戦争指導の最も顕著な例がインパール作戦で昭和19年に発動された。指揮官である牟田口中将は、補給なしで敵と遭遇した場合どうするのかという現場指揮官の質問に対し敵と遭遇したら空に向けて銃を発射すれば敵はみな逃げることになっているとの一言で作戦会議は唖然とした空気のまま終わっている。

またインパール作戦における抗命撤退事件は当時の陸軍の狂気を如実に物語っている。第31師団佐藤師団長は補給が無いため、命令なしで独自に撤退を開始し、後日東京で軍法会議に付せられた。その最中に大本営の馬鹿どもという発言から最終的に精神病院送りの処置が取られた。これは笑い話になるが現代に生きる我々として精神病院に入るのはどちらかという疑問が沸いてくる。

海軍にしても昭和17年6月、開戦から7ケ月後にミッドウェーで大敗を喫してしまうのであるが、大きな敗因の一つとしてすでに海軍の暗号が破られており戦闘前に連合艦隊の意図を見抜かれていたことが挙げられる。

7)占領地における圧制は現地住民を敵対勢力に追いやった。

 

結論

310万人という膨大な犠牲者を出した戦争責任は当然ながら国内に厳然と存在する。

1)三国軍事同盟を進めた松岡、近衛、陸軍参謀本部の責任は極めて重い。

2)中国大陸への深入りという政治戦略上からも危険な行為に踏み切った陸軍参謀本部と近衛に重大な責任がある。

3)参謀本部の中で田中新一、服部卓四郎、辻正信は実務面で太平洋戦争を企図しアジア全域において2000万近い犠牲者を出した開戦責任は極めて重大。

興味深いのは戦後服部は米国に協力的な態度を示し、米国から再軍備の際は服部が参謀長という推薦を米国から受け、辻はCIAからスパイとして資金提供を受けていたことなど実に聞くに堪えない豹変ぶりである。また戦争へと国民を駆り立てた右翼のドン笹川は終戦直後米国兵用の売春宿経営や競艇の運営などあくまで守銭奴としての人生を貫いた。

 

組織は改革されない限り必ず崩壊に向かう。その崩壊は会社組織であれ、官僚組織であれ、まず中央から壊死してゆく。明治維新から77年後の1945年に明治体制は崩壊したわけだが、1945年に始まった新生日本も今年で62年目を迎える。弛まぬ改革が無い限り、明治維新や昭和20年の敗戦などコペルニクス的な社会変革が起こる。現代の社会保険庁問題は改革を怠ってきたツケが表面化した象徴的な事件であり、現代の政府が抱える深刻な問題のほんの一部にしか過ぎない。