戦争を伝えよう
“子供の頃から不思議に思っていた謎が、大人になって急に解けた。”という経験をされたことがあると思います。
実は夫がいままでずっと不思議に思い続けていた謎が、あるテレビ番組を見たことがきっかけで、目からうろこが落ちるように解けたのです。
彼は広島県の
ところが、最近のあるテレビ番組で瀬戸内海の忠海沖に大久野島という島があり、そこで旧日本軍がハーグ条約に違反して、秘密裏に毒ガスを製造していたことが報道されました。そこで製造された毒ガスは実際に日中戦争でも使用されたそうですし、また、そこで働いていた日本人も漏れた毒ガスを浴びてかなりの被害を受けたそうです。
この毒ガス製造の事実を隠すため、当時仕事を求めて島に渡った大勢の市民はそのまま島から出ることを許されず、その上、大久野島そのものも地図から抹消され、その存在を知られないよう厳重に管理されたのです。いわゆる“地図から消された島”になっていたのです。
これを知った夫は「どうしてもこの島に行ってみたい。」と言い出し、二人で戦争の傷跡を尋ねる旅に出かけることにしました。今年の春、いずれも広島県内の施設、遺跡です。
先ず初めはこの大久野島です。戦後ここの毒ガス施設は米軍によって破壊されましたが、火炎放射器の跡はまだ黒々と残っていましたし、毒ガスの貯蔵タンクの置き場、基礎なども不気味に残っていました。その存在が消された地図も資料室に残っていました。
戦後この島が“毒ガス島”として有名になることを懸念した当時の総理大臣岸信介は、この島全体をいち早く国民休暇村とし、安全である証拠として野うさぎを放し飼いにし、キャンプ場、海水浴場、サイクリング道路などを作り、子供達のユートピアとしました。
その中に僅かに残された貴重な毒ガス関連施設の跡はかなり劣化が進んでおり、崩落する危険もあって、立ち入り禁止の所もありましたが、たとえ崩落しても撤去などせず、是非後世に残しておきたいものです。
翌日は江田島の海上自衛隊幹部候補生学校を訪ねました。戦前の海軍兵学校だったところです。私の中学の同級生に江田島出身の親一人子一人の友人がいましたが、彼女のお父さんはこの海軍兵学校の卒業生で、南の海に飛び立ち、海の藻屑と消えたそうです。
この学校の資料室にはそれらの方々の多くの貴重な遺書が展示されており、涙なくしては読めないようなものもありました。今後も大切に保存されることを希望します。
次は呉です。戦時中は戦艦大和をも造った工廠があり、また、軍港として栄えたところです。今でも造船所や製鋼所などがあり、僅かに昔の面影を残しています。
大和ミュージアムには実物の十分の一の大きさの戦艦大和の模型が展示されていました。日本の造船技術の粋を集めて作った戦艦大和!!。しかし本土決戦になると、もはや無用の長物。不沈戦艦と言われながら、沖縄戦に向かう途中、米軍の攻撃を受けて沈んでしまった戦艦大和!!。海軍の上層部の人達は「これが沈めばもう思い残すことはない。これで戦争もやめられる。」と願ったのではないか、と私は信じたい。
この造船技術は戦後不死鳥の如くよみがえり、戦後の復興に大きな貢献をし、今でもわれわれの生活に大きな影響を与えてくれています。
最後の日は世界的に有名な広島平和記念公園、原爆資料館です。大勢の中学生、高校生や外国人が見学に来ていました。特に原爆資料館は芋の子を洗う程の人達でした。豊かになった日本に生まれ、何不自由なく育った彼らに、戦争の悲惨さ、平和の大切さ、命の尊さが少しでも伝わってくれたでしょうか。60年前の人類がいかに罪深く、愚かなことをしたか、そしてこれは決して繰り返してはいけないことであるかを、是非わかってもらいたいと思います。
これらの歴史的事実は決して風化してはならないことです。そして、これを語り継ぐのは私達体験者の役目です。しかし、体験者はいずれいなくなります。そのためにも、それに関わる歴史的遺品、遺跡は末永く保存しなければならないものです。
例年のように今年も広島、長崎の両原爆の日と、それに続く終戦記念日を迎えました。
いずれの日も我が国ではややもすると被害者的・感傷的雰囲気になりがちですが、先の大戦で旧日本軍がなした数多くの加害者的事実も後世にしっかり伝えなければなりません。
この二泊三日の旅は、数多い私の旅の中でも特別な意味を持つものでありました。