国際社会はいつも正しいか―対テロ戦争の幻想

神奈川県藤沢市 清郷 伸人


国際社会とはなにか

 2001911日のニューヨーク同時多発テロ以来、世界は対テロ戦争を展開する勢力とあくまでテロを貫徹する勢力の泥沼の戦いに突入したように見える。日本も同盟国の米国から「Show the Flag」の要請を受けて、なし崩し的に自衛隊を投入し、今も国会では対テロ戦争支援問題でもめている。

 私がこれから書こうとすることは、それらの直接的な賛否ではない。私が前から抱いている「対テロ戦争は正しいか」という疑問である。このような懐疑や不審が今の時代や先進国家の潮流に反したものであることは承知の上で、私はどうしてもこの違和感を捨てきれない。

 世界大戦後も世界のいたるところで内戦や紛争は起きてきたし、今も続いている。朝鮮半島、ベトナム、ビルマ、カンボジア、フィリピン、東ティモール、中国、チベット、セイロン、南アフリカ、コンゴ、ビアフラ、スーダン、バスク、北アイルランド、ボスニア・ヘルツェゴビナ、チェチェン、セイロン、パレスチナ、レバノン、イラン、イラク、クルド、アフガニスタン…全体主義国家の台頭に無力だった国際連盟への反省から戦後世界は武力と強制力を持つ国際連合を立ち上げた。今、国際社会という時、その存在を抜きには語れない。国連はそれらの内戦や紛争の多くに対し、濃淡や角度の差はあれ様々な形で関わってきた。 私はその役割を否定しないし、問題解決に成功した場合もまったく功を奏さなかった場合もあるが、その成否を問う気もない。しかし9・11以来主に中東、南アジアで展開している対テロ戦争に限っていえば、正しい行為なのかという疑問を抱かざるをえない。

 国連といっても加盟国は百ヶ国を超えるが、実権は大戦勝利国で安全保障理事会常任理事国の5ヶ国が握っているといっても過言ではない。中でも米国の影響力は絶大である。9・11以来の中東、南アジアにおける対テロ戦争はその米国に国際社会が引きずられる形で行われてきたといえる。とくに中東、南アジアで戦火に見舞われている当事国の人々から見れば国連軍すなわち米国軍であろう。

対テロ戦争の実態

 戦火に包まれるそれらの国では、対テロ戦争の名の下、同時多発テロの死者をはるかに超える十万人近い犠牲者が出ている。その半数以上はテロリスト狩りの巻き添えとなった女性や子供を含む一般国民である。私が問うのは、このような戦争に正義があるのかということである。大義ではない。そんな名前のフィクションはいくらでも創作できるから問うのは無意味である。そうではなく国際法も含む法的、哲学的正義である。なぜイスラム・テロリスト掃滅という大義があれば、主権国家やその国民に対して先制的、一方的に武力を行使できるのか。そしてかれらの国土を国際社会の国々がそれぞれの国益をふりかざして戦場にできるのか。

 イスラム・テロリストといわれる集団もその国では同胞、同国民である。イスラム・テロリストが生まれたのは、パレスチナ紛争、アラブ−イスラエル戦争に端を発する宗教、民族、経済問題が背景である。かれらはその土壌から生まれ、その土壌に死んでいく。だからかれらはかつてのベトナム戦争でのベトコンのように国民に支持され、根付いているのである。一方、極めて先鋭化された、極端なテロリスト集団が存在することも確かである。しかしかれらもそれぞれの国の背景から生まれた土着組織である。国際社会がパレスチナ−イスラエル問題を放置したことから自然発生したパレスチナ武装組織が発端である。かれらは抑圧を加えるイスラエルや外国には刃向かうが、自国民に危害を加えたりしない。むしろ民生活動にも邁進している。例えばパレスチナ社会や辺境アフガニスタンはそれで支えられている。実際アフガニスタンでは戦争どころではない。先進国のもたらした地球温暖化による未曾有の大干ばつが発生し、飢饉で国民の半分が食糧難にあえいでいる。世界の麻薬の9割以上がここで生産されると非難されるが、乾燥に強いケシの栽培くらいしか生きる手段がないのである。

国際社会に何ができるか

 国際社会や先進国から見てたとえ迷惑な、不満な国であっても、その独立国家が国際秩序を侵していなければ、その国民に国家の運命を任せるほかないというのが究極の国際法秩序というものだろう。それにもかかわらずイスラエルの優越と石油利権に固執する米国を先頭にした国際社会が戦争を仕掛け、国土を軍隊で占有するからテロと衝突が頻発する。戦後の国際社会が押しつけたイスラエルという紛争の根本原因を解決しないで、圧倒的な軍事力でイスラムの民を抑えつけるからかれらはテロに走るのである。

 中東や南アジアで、米軍や外国軍がイスラム国民を追いつめるほど民族テロリストは暴発する。安全な所からハイテク兵器を使って効率的に殺戮する米軍とは異なり、死よ、驕るなかれ≠フ宗教精神で自爆するかれらを止める術はない。すべての外国占領勢力が撤退するまでテロと呼ばれる戦争は続くだろう。

 福沢諭吉は戊辰戦争で江戸が火の海になると聞いた米国大使から、慶応の学生を領事館で避難させてはどうかという提案を受け、こう答えた。「戦争は日本の内国の実情である。訳あってやむを得ず日本人同士が争うものである。ならば日本人である学生たちがそのため禍をこうむるとしても、それは日本人としての運命である。折角の好意だが、外国の庇護を受けるわけにはいかない。」封建制度は親の仇でござるといって欧化派に見られる諭吉だが、官軍を見て臣下を見捨て江戸に逃げた侍の元締めの徳川慶喜など足下にも及ばぬ誠の武士だったことがうかがえるが、アラブや南アジアの人々も同じであろう。どのような国になっても外国の軍隊にひれ伏すくらいなら死んだ方がましだと思うのである。国際社会はそこを見誤ってはならない。

 あの同時多発テロ自体は米国への挑戦である。しかしテロは何千人死のうが犯罪であって、国家による戦争行為ではない。そうであれば米国のできることは犯罪の捜査や処罰、取り締まりに限られるはずである。犯人たちの国やテロを支援していると思われる国に先制攻撃を加え、国民を殺傷することは許されるのか。国家によるこのような復讐は正当化されるのか。そしてそのような一国の独走を支援する国際社会は正しいのか。

 かつて国際社会は、共産主義のドミノ化を防ぐという大義の下、ベトナムに攻め入り、戦争で膨大なベトナム国民を殺傷し、化学兵器で今も消えない非人間的な被害のツメ跡を残した米国に沈黙していた。結局米国は負け、ベトナムは共産国家になったが、それから十数年で共産国家の親玉ソ連は自壊し、ベトナムも次第に市場経済や民主主義の国になりつつある。ならばあのベトナム戦争とは何だったのか、あのように大きなベトナム国民の犠牲を生んだ米国の行為とは何だったのか。これほど無意味な愚行があるだろうか。しかし国際社会は今も中東や南アジアで同じようなことをしているとしか思えない。

 先進国や国際社会からどのように見える国も国境と主権がある以上、独立国家であり、国民は尊重されるべきである。ミャンマーや北朝鮮のような国民不在の独裁国家に対しても、国際社会のできることは限られている。他国にテロを輸出しているという思いこみで、主権国家と国民に対し、国連や外国が武力を投入することは不正義であり、問題解決に逆効果である。米軍や外国軍がフセインを滅ぼし、タリバンを倒したことは正しかったか、おおいに疑問である。なぜならその先制軍事攻撃の根拠となった国際社会への脅威をいうならイスラエルやインド、パキスタンそして北朝鮮のような不安定な問題を持つ国家の核兵器こそ最大の脅威だからである。国際社会のこのような二枚舌、二重基準は不正義であり、正当化されない。

 中東や南アジアでの戦いは、戦火に見舞われている国民にとってはイスラム宗教や伝統思想を賭け、国の存立と国民の生存を賭けたものである。それならここに武力介入する国際社会や外国軍には、それ以上の思想的正当性、正義が求められる。少なくとも国益などというかれら国民を無視した不純で無礼な理由など恥ずべきである。これは政治の現実を知らないロマンチックな理想論ではない。過去の歴史の真実は、誰もが想像する力の優越ではなく思想と人間性に対し最後に神は微笑むということを示している。