薬害肝炎訴訟の原告が求めているもの

混合診療解禁裁判原告 清郷 伸人


 2007117日、東京地裁で私の混合診療解禁裁判の判決が示された同じ日に、大阪高裁では薬害肝炎訴訟の和解勧告が出された。全国の地裁で起こされたこの訴訟で、国はほとんどに敗れ控訴していたが、高裁で初めて和解協議による解決が勧告された。病に苦しみ、命に時間がない原告たちはこの和解協議に全面解決への大きな期待を持ったと思う。しかしそれから1カ月半の1220日、国の示した和解案に失望した原告団は、和解協議を打ち切る決断をした。

 原告たちは薬害肝炎被害者全員の一律救済を求めている。裁判の原告であるか否かとか高裁が和解案で示した東京地裁の判決にある国の責任期間(それは5地裁の中で2番目に短い)にかかわらず、本来なら被害にあわずにすんだ患者を等しく救済すべきとしている。フィブリノゲンが保険承認された1964年から薬を投与され発症した全被害者が対象である。そしてこの救済という言葉にも深い意味がこめられている。治療費も高く、生活も楽ではないと思われるが、和解金や賠償金の多寡には一切触れない。原告たちが真っ先に求めているのは、国が被害者全員への責任を表明して心から謝罪することである。同時にいくら謝罪やお金を積んでもそれは償いにはならず、失われた命や時間は決して取り戻せるものではないと自覚することである。

 私は原告たちの言動にずっと注目していた。かれらは訴訟の原告にもなれない被害者のことを一刻も忘れたことはない。さらに今後も起こりうる薬害の被害者さえ視野に入っている。その意味でかれらの求める救済とは私権上のものではない、公のものである。原告たちが一貫して主張していることをよく吟味すると、かれらが真に求めているものは正義であることがわかる。人間である以上、過ちをおかす。それは国も同じである。原告もそこまでは認める。しかし過ったときに正しく償われないことは容認できない。不当に受けた被害に対し正しい態度で謝罪されないことは許すことのできぬものである。

 私が混合診療解禁裁判で求めているものも本質は同じものである。この国における正義というものである。重病患者が保険医とともにたった一つの保険外治療、たった一つの未承認薬を選んだだけで即座に一切保険が使えなくなるという残酷な制度が医学的根拠も法的根拠もなく官僚によって裁量運用されている。これに対し転移がん患者である私はただ正しい医療行政制度を打ち立てたいという思いから提訴し、117日の判決では全面勝訴した。国は今回の薬害肝炎和解協議で原告団に対し、司法の判断を尊重した政治決断であることを理解せよというが、それなら私の勝訴判決も尊重すべきなのに国は控訴した。薬害肝炎訴訟にしても混合診療解禁裁判にしても死と隣り合わせの重病患者でなければ当事者になりえず、それはとりもなおさず病と闘い、時間と闘いながら国と闘うことである。

 国が政治決断を行って出したとする1220日の和解案は、原告のいう命の線引き、命の差別が色濃く出ているが、この和解案の本質は、お金は積むから線引きには目をつぶって全員救済と解釈せよということである。それは責任を取るというより施しを与えるという態度にしか見えない。

被害者全員の一律救済を避けて、こうまでして国の責任を限定する根拠といわれているのは、もし今回フィブリノゲンの被害者全員に国の責任を認めたら、新薬の承認ができなくなり、薬事行政が立ち行かなくなるという理屈である。このもっともらしい主張はしかし、官僚特有の詭弁であり、議論のすり替えである。

たしかに原告たちはフィブリノゲンが承認されてから投薬を受けた全員の救済を求めている。その意味では国の危惧も理解できる。新薬には予測できない副作用がつきものであるが、治療効果が期待できれば患者のために承認せざるを得ない。それは最近の肺がん薬イレッサもそうである。ただ米国で承認が取り消された1977年以降、危険情報が当然入手できたにもかかわらずその情報が放置され、医薬産業のために危険な薬が使われ続けて起こった被害には、国に全面的な責任がある。薬事行政を預かるものに普通の注意力と普通の責任感があれば防げた被害だからである。その意味で1978年からの国の責任を認めた名古屋地裁の判断は最も正しく、社会常識にかなったものといえる。原告団のいうフィブリノゲンが保険承認された1964年からの被害者を全員救えという主張は気持ちはわかるが、正しくない。新薬承認ができなくなるという国の論理も成立する。しかし東京地裁の狭い責任範囲を国が主張するのは、その論理の乱用でしかない。国は名古屋地裁の責任範囲を認め、償うべきであり、一方でそれ以前の責任については不可抗力をキチンと主張すべきである。このような態度を取れば、原告の主張が新薬承認に影響を与えるとか薬事行政を揺るがすという議論はすり替えに他ならないことがわかる。

この官僚の詭弁、議論のすり替えは、私の混合診療解禁裁判でも国の主張の根幹をなしているものである。まず混合診療は金持ち優遇になるというが実際は逆で保険が一切停止されることから真の金持ちしかそれを受けられない。次に医療の安全性が損なわれるというが、今の野放しの自由診療より保険医が併用する自由診療の方がずっと安全である。さらに保険承認の重要な判定基準に医療技術、医薬品の普及度がある。これは11月の規制改革会議と厚労省の公開討論で明らかになったものだが、詭弁であることは子供でもわかる。混合診療禁止で普及に歯止めをかけておいて、普及してないから保険承認しないというのである。

この官僚の詭弁、議論のすり替えは厚労省だけでなく、ほとんど官僚の本能といっていいが、一見まともな装いのため反論しにくい。私は国との裁判を通して、この国の強大な官僚の壁を突き破るのは司法しかないと痛感した。政治は本来官僚の上位にあるはずだがこの国ではそうではない。世論、大衆も官僚の壁を突き破る力はない。その意味で私も薬害肝炎訴訟原告も戦いの場は司法しかない。司法には本来行政を裁き、立法を審査する力がある。司法が独立してその機能を行使できることが民主国家の最重要要件と思われるが、私はこの国の司法がそうであることを祈らずにはいられない。

20071221日)


23日政府は議員立法で全員一律救済と急変したが、本質は同じなので原稿は変えない。