外からの眼―あるパースペクティブ

神奈川県藤沢市 清郷 伸人


1.欧米から見た従軍慰安婦問題

 2007年から今年にかけて欧米の議会で、太平洋戦争中の日本軍による従軍慰安婦に対する非難決議、日本政府の公式謝罪を求める決議が続発している。多くの日本人にとっては、同じ西側陣営に属している友好国日本の遙か昔の行為に対し、今さら何をという気持ちであろう。ではかれらのやった原爆投下やベトナム戦争や果ては数世紀にわたる植民地支配はどうなのだという反感さえわき起こっている。

しかし私は世界の中で生きていく日本はこうした異質の価値観に対し、敵視や黙殺はすべきでないと考える。そこからは何の展望も開けない。主張すべきは堂々と主張し、受け入れるべきはシンプルに受け入れる。国際社会に対しては自分の考えを明確に表明し、わかりやすい態度をとらねばならないと思う。

今になって日本人にとって異様とも思える決議が突然浮上してきた背景はなにか。いろいろな推測はあるが、私にはただ一つ、日本が太平洋戦争そのものとその戦争中に行った国際法や人道を冒す多くの犯罪行為に対し、国家として公式に謝罪していない、曖昧でない明確な表現で自らの反省と決意をアジアや世界に発信していないからである。確かに村山首相談話のような不明瞭な謝罪はあったが、それさえ日本では批判され、貶められていることを世界は見ている。

さらに誰が日本を代表して謝罪表明を行うかについても、現在では時の首相になるのだろうが、アジアや世界が本当に求めていたのは昭和天皇である。立憲君主制だから天皇は無罪というのは日本の国内論理であり、天皇が処刑を免れたのも単にマッカーサーのご都合主義の結果である。侵略され、占領されたアジアや交戦国から見れば、日本軍の象徴であり最高の戦争責任者は天皇以外になく、従って最大の戦犯でもあるというのが暗黙の解釈であろう。その昭和天皇が生前ひとことも謝罪しなかったことが中国や韓国、フィリピンなどアジアの人々の消えないトラウマであり、世界が今も日本の公式謝罪を認めない根源的理由である。昭和天皇が亡くなった現在、そのような公式謝罪のチャンスは永久に失われたのであり、次善の首相によるものしか為しえないが、それさえ日本はずっと怠ってきたのである。

日本の政治家や一部の日本人は従軍慰安婦の歴史的事実について細かい反論をしているが、加害者側は都合の悪いことは忘れたり、事実を歪曲するものだという常識を忘れてはならない。重要なことは細部ではなく、従軍慰安婦という真実が存在したということである。この真実というパースペクティブ(観点)は歴史を見る上できわめて重要である。それは満州事変や日中戦争、南京大虐殺や沖縄戦などあらゆる歴史事象に適用できる。細部は歴史学者の問題である。国家や国民は真実に基づいた思想や心情を語るべきである。安部前首相の狭い意味での強制はなかったなど細部にこだわる官僚答弁以外のなにものでもなく、一国のリーダーの言葉ではない。

 

2.異端者から見える日本の病理

 最近の国会や政府に関する報道を見ていて、私は奇妙なデジャヴ(既視感)に見舞われた。現在でなく太平洋戦争に突入する東条内閣の頃を見ているような―これは何なのか。東条内閣は日本を国家哲学やグランドデザインをもって戦略的に戦争へ導いたのではなかった。近視眼的外交と政局的内政で情緒的、戦術的に権力を行使しただけなのだ。いわばそれは政治家ではなくズル賢さに長けた官僚的手法そのものだった。長期的視野と世界史的戦略で国を導くのではなく、当面の問題処理と政局的論理で権力を維持するその思考、姿勢は彼以後の戦後もなにも変わらなかった。

かつての日本はそのようにして図らずも戦争に突っ走ってしまったが、今の日本も同じように迷走していると思える。法制度として使い勝手が悪いから憲法を改正しようとか国民や世論を鎮めるために薬害肝炎患者の無原則一律の救済に急変するとか米国の眼を気にして新テロ特措法案をゴリ押しするとか年金記録の大騒ぎにあわてて出来もしない約束をするとか挙げたらキリがない。これらは指導者に哲学や戦略のない表れであり、私のデジャヴにつながっている。

われわれは日本という船に乗っているが、その船が何の目的でどこへ向かっているのかは知らないままで当面の嵐や補給の問題に忙殺されているだけなのかもしれぬ。もしかするとわれわれの船をコントロールしているのは別の大きな船かもしれない。ではわれわれはなぜリーダーにふさわしい船長(政治家)と信頼できる成熟したクルー(官僚)を持つことができないのか。その責任の半分はわれわれ船客にある。なぜなら曲がりなりにも戦後日本はリーダーを民主的に選ぶことができるからである。後の半分はクルーをマネージできないというよりクルーにコントロールされているリーダーにある。

私はここでは前者のわれわれ船客の問題を取り上げたい。われわれの意識の中に低劣なリーダーしか選べない土壌が醸成されているのではないか。われわれ船客の中にはメディアもいるが、報道人も日本では同業組合的発想のもと画一的なニュースリリースに囲われている。それは戦前、戦中の大政翼賛的報道と変わらない。知る権利の絶対性と表現の自由保障の現代でさえ報道主体の職業意識が低ければそれは死んだも同然である。逆に意識が高ければ、自由が制限されていてもそれが障害にならないどころか、真実な、人の心を打つ報道や表現の必要条件とさえいえるのである。

われわれ一般船客も同じである。戦争という大きな犠牲を払ってやっと手に入れた近代民主日本であり、国民の権利主体の福祉国家である。だがわれわれにはその自覚がない。それは占領軍から一方的に与えられた果実でしかない。時間とともに問題が生起するそれらの果実をより良いものに育て上げ、後世に伝えようとする当事者意識がない。一言でいうと国民はすべてお上依存である。われわれ国民に公の意識はきわめて薄い。公のことはお上任せで、国民は大企業の経営者でさえ自分と自分のまわりのことしか考えない。下手をすると自分のこともお上に助けてもらおうと考えている。子供たちには権利ばかり主張しないで義務を果たせといいながら、自分は負担をなるべく軽くして受益ばかり求める。そのような国民の選んだリーダーのもと日本という国家は世界一の借金大国を作り上げ、後世に受け渡そうとしている。

つい20年ほど前は世界2位とか3位だった一人あたりGDPは昨年18位に転落した。それは永年の政治家、官僚、財界のトライアングルによる国民の富の不正な分配、泥棒国家(クレプトクラシー)的体質がもたらした結果である。そして今や膨大な国家の借金が積み上がり、その解決はどんどん先延ばしされている。われわれ国民も負担を嫌い、公的機関への要求のみを肥大化させてきた。高度成長期の幸運に酔い、ゼイ肉のついた思考からいまだ抜け出せない。

私たち国民は高福祉高負担か低福祉低負担かを選ぶ岐路に立っている。経済成長万能説は麻薬である。幸運にも成長の果実が成ったら、それはすべて国の借金返済にまわすべきである。1月8日の日本経済新聞経済教室に載った前産業再生機構専務の冨山和彦氏の論文は近年出色の優れたものであるが、後世にできるだけ良質な国家社会を渡すことこそ最高の品格とし、中高年世代に激しい意識変革を迫っている。米国では新型インフルエンザワクチンの投与優先順位で、国家が決めた最優先の65歳以上が自分たちより子や孫たちに与えよと声を挙げ、順位を逆転させた。このような精神こそ真の品格である。

繰り返すが、現代日本の病理は自分しか考えないわれわれ国民の意識の中にある。日本が正しい、品位ある、快適な国になるには、われわれ一人一人が社会や後世といった公を優先する強い意識を持った個人として確立することが何より重要である。それは今年のサミットの最重要議題になる地球温暖化問題に対しても最も必要とされる精神でもある。