通貨は誰のものか?−サブプライム問題を考える−

東京都文京区 松井 孝司


「通貨」は流通する「貨幣」である。岩井克人氏は「貨幣とは、言語や法と同様に、純粋に『共同体』的な存在である」(ちくま学芸文庫「貨幣論」より)と述べている。

古来貨幣の定義については、経済的観点だけではなく、思想、哲学の観点からさまざまの見解があるが、「猫に小判」という言葉が示すように「動物にとって貨幣は何の価値もない」もので、「貨幣」は「シンボル(表象)」を認識できる人間の共同体だけに通用する「価値の媒体」であることは間違いない。貨幣を手放せない人間は「シンボル」に束縛されて生きているのである。貨幣の本体は紙や電子記録媒体であるが、紙などの媒体に価値があるのではない。媒体に刻印される発行母体のシンボルが重要で、図形、記号が貨幣の信用度を、数字が価値尺度を表示している。

1971年8月15日のニクソンショック以来、通貨は金との兌換性を失いバーチャルな存在となった。昨今はポイント付き電子媒体のICカードが大流行だ。ICカードがサイフの代役となり、カードの流通を可能にしているのは「信用」である。信用こそ無形の財産というべきだろう。

 多くの「人々の信用」で維持される通貨は「公共財」と考えるべきで、政府や金融機関が自己都合で大量の債券を発行したり通貨の量を調節し、信用を膨張させたり、信用を収縮させる弊害は計り知れない。日本のバブル経済崩壊後の長期に亘る低迷や、世界同時株安の原因となった米国のサブプライム・ローンは、その典型例である。

 政府、金融機関が発行する貨幣の額面と貨幣を製造する費用との差額はシニョレッジ(seigniorage)と呼ばれる。シニョレッジは付加価値を生むことなく作り出される信用創造で、現在最もシニョレッジの恩恵に浴しているのは米国である。このような恩恵に浴するのはドルが世界経済の基軸通貨になっているからで、米国の巨大な軍事力と経済力にその起源を求める向きもあるが、岩井克人氏は「貨幣共同体を成立させているのは、ただたんにひとびとが貨幣を貨幣として使っている事実のみ」とし、「英語」のような標準言語(デファクトスタンダード)との共通性を指摘している。米国が生み出す巨大な信用創造が世界経済の牽引力になっており、世界中がシニョレッジの恩恵に浴していることは間違いない。米国だけではなくグローバル経済も、英語とドル通貨の恩恵に浴しているのである。

 近年のドル交換レートの下落は注目すべき現象である。米国に対する信用が激減しつつあることを示すもので、米国発のグローバル経済にも大きな変化をもたらすことになるだろう。

ドル通貨の価値の下落は米国における巨額の軍事支出など付加価値を生まない財政赤字と、ドル通貨の増刷(シニョレッジ)に支えられる信用膨張によるものだ。

米国連邦政府の肥大化に反比例してドルへの信用が失墜しつつあり、大きな政府の弊害を米国にも見ることができる。

付加価値を伴わない理不尽な信用膨張は必ず収縮し、信用収縮は経済活動を停滞させ経済不況の原因になる。土地への投機による信用膨張は「土地本位制」の日本経済を大きく狂わせたが、土地などの不動産だけでなく通貨、株、債券、石油、穀物など人間社会にとって不可欠となった有限の「モノ」は、すべて投機の対象になり信用膨張の素材になり得る。

市場経済に投機はつきもので、投機を否定したら資本主義は成り立たないといわれるが、投機による理不尽な信用膨張を容認すれば、当然通貨に対する信用不安を呼び起こす。ドルの基軸通貨としての信用を失墜し、ドル通貨の価値が暴落したら世界的な信用収縮を招きグローバル化した世界経済に甚大な被害をもたらすだろう。

経済のグローバル化が悪いのではなく、悪いのは資本主義の名のもとに投機などによる信用膨張を許容し、富の偏在を促がす市場経済の「ルール」である。サブプライム・ローンの破綻は、信用力が乏しい人に付与した信用がバブルとなって消えたことが原因で、急激な信用収縮が金融機関に巨額の損失をもたらしたのである。

イスラムの経済思想では、リスクのある投資からの高配当は是認するが、金利のような不労所得は認めず、財産を退蔵するのは卑しいこととされているという。アブダビ投資庁の米国シティグループに対する75億ドルの巨額融資について、その高利潤が問題にされ政府系ファンドに対する脅威論が台頭しているが、これは恐らく金利を稼ぐための融資ではなく、シティグループを助けるための「出資」と理解すべきなのだろう。

通貨という公共財を特定の個人または集団に退蔵させることは好ましいことではない。アブダビ投資庁は石油で潤う巨額資金を退蔵させないようにイスラム思想を実践したのではなかろうか?ドル通貨の信用維持は巨額のドル資金をもつアブダビ投資庁の自衛にもなる。

「通貨は個人のものではなく公共財である」との認識を確立し、市場経済のもとで付加価値を生む事業への資金供与、実需を伴う信用創造は積極的に推進し、実需を伴わない投機などによる不労所得には高率の累進課税を課すことが、理不尽な信用膨張を抑制する賢明な策と思われる。