権力と人間―裁判から見えるもの
神奈川県藤沢市 清郷 伸人
1.チャップリンの予言性
1939年に作られた「独裁者」は、ヒトラーに似せた人物を創造して、絶大な権力というものが一人の普通の人間をどれだけゆがんだ、異常な性格にしていくかを描いた作品である。それより3年前に作られた「モダンタイムス」は、もっと暗示的な、恐ろしい作品である。人間がなんのためかも知らず、歯車の一部となって、忠実に与えられた仕事をこなす姿を描いて、現代の悲劇性をえぐっている。70年前に作られた映画だが、この2本は今のわれわれにとって最もアクチュアルな問題を突きつけている。芸術家チャップリンが放った予言的なメッセージを私はそこに見る。
それは「権力と人間」という問題である。この問題は、プラトンの昔から多くの哲学者、思想家が格闘し、時代と国を超えて人間に突きつけられた、永遠に解けることのない命題である。ナチス・ドイツの思想的バックボーンと誤解されたニーチェの「権力への意志」、すなわち人間は力への意志そのものであるという哲学は人間の半面を衝いている。人間は複数いれば、友人でも恋愛でも家庭でも職場でもどこでも自分の力の優位を目指す本能を持つという言葉は耳障りだが、虚飾を剥いで人間を透視すれば真理であるといえる。自然界を見渡せばそれはもっと赤裸々な実相である。しかしチャップリンが問題にしたのはそんなものではない。個々人の権力は小さく、影響力もない。彼が取り組んだのは、国家社会における権力と人間の問題であり、その巨大な影響力である。
チャップリンにとって権力と人間の現代における最大の問題は、その関係の不可解性、匿名性にあった。「独裁者」では、権力者はわかりやすい姿をしている。そしてこの権力の所在の顕示こそは現代以前の人々の、あらゆる時代、あらゆる地域で命がけで争われたテーマであった。しかし「モダンタイムス」では、誰が権力者なのか、工場労働者は誰のために、何のために働くのか、わからない。すべての人が歯車である。どこにも権力者などいないように見える。政治家も官僚も巨大企業も大手メディアもそして大衆も権力者のような顔はしていない。この不可解性、匿名性こそ現代の権力の最も不気味なところである。
2.現代の権力の不気味さ
2008年3月、最高裁はエイズ薬害裁判上告審で、元厚労省薬務課長の業務上過失致死罪の刑事罰を確定した。公務員の不作為、怠慢によって起きた国民の身体、生命への危害が重大であれば犯罪となりうるという初めての判断が司法から行政に下された。また薬害肝炎訴訟も今年多くが高裁和解となったが、その内容は国の全面謝罪、一律補償というものであった。国の怠慢、不作為による国民の生命、健康への重大な危害があったからである。さらに私の混合診療裁判は高裁での控訴審が進行中である。前の2件が国の不作為による犯罪とすれば、混合診療禁止制度は国の作為、加害による犯罪である。私の告発の本質はそこにある。まだ若い勤め人が重度のがんに罹る。保険治療を尽くしたが良くならない。幼い児もいる家族は貯金をはたいても助けたい。医師も日本では未承認だが海外で認められた抗がん剤や治療技術を使いたいが、禁止されているためできない。患者は放り出され、ホスピスに行くほかない。国は混合診療禁止がもたらすこの惨状を十分認識していると思う。だから私は国の作為によるこの犯罪を未必の故意による殺人とあえて告げる。
しかし私が裁判で相手をしている公務員たちは犯罪者の顔はしていない。きわめて善良でまじめな市民の顔である。私はそこで普通の大人が国家権力、国家組織の歯車となって、忠実にまじめに仕事をすればするほど社会が狂い、人間が押しつぶされるということを目の当たりにする。公務員たちはそれが何のためかは問わず、与えられた自分の庭をきれいにすることしか考えていないように見える。そして公務員たちを使う国家権力もまた何のためかは問わず権力の維持、拡大という手段の目的化に翻弄されているとしか思えない。
最高裁で有罪とされた元厚労省課長はおそらく犯罪の意識はない。上告審まで行くということは約600人以上の死に対する罪悪感や責任感も感じていない。組織、上司からの指示、命令を守って、与えられた仕事をやり遂げただけであると思っている。では誰が責任者か。誰がこのような怠慢や不作為を指示し、このような重大な結果を招いたのか。おそらく誰もいない―それがこの国の権力の真の恐ろしさである。この権力の責任の空白は日本では今に始まったことではない。明治後期、清やロシアに戦勝した頃から日本の軍部は統帥権を発明し、近代国家の大原則である三権分立を蹂躙した。その本質は天皇の名の下にあらゆる独裁をほしいままにするが責任は誰も取らず天皇に帰するというもので、しかも天皇が責任を取ることなどありえない存在であることは承知の上である。こうして外国人が決して理解できない無責任体制が生まれ、今の日本の権力にそれは受け継がれている。
今評判の映画「明日への遺言」の岡田資中将が突き当たった問題もそれである。横浜戦犯裁判で、無差別空襲は国際法違反の犯罪だから米空軍兵は捕虜ではなく犯罪者であり、裁判抜きの斬首も状況によってはありうるという主張と、斬首実行は上官を通じての天皇命令とされる日本軍では誰も責任を取らないが、それは連合国に通じるはずもなく、敗軍の将である自分が負うほかないという認識である。この岡田中将の認識はある意味で組織と人間、権力と人間の普遍的な問題を含んでいる。組織や権力の命令なら国際法違反でも人道違反でもどんなことでも実行すべきか、個人の良心はどうすべきかという究極の命題を持っている。さらにそれは当然、その実行あるいは不実行が招いた結果への責任は誰が取るべきかという問題にもつながる。
チャップリンが「独裁者」で描いたように国家権力は歯車が狂って回転するとナチスのユダヤ人大虐殺にまで行ってしまうことを示している。しかしそれを推し進める人間たちには殺人や犯罪の意識はない。「モダンタイムス」のオートメーション工場でねじを締めるように淡々と自分の仕事をこなすだけである。誰も殺人者、犯罪者の顔をしていない。
権力と人間というこの問題には解がない。社会に必然の権力という宿命を背負わされた人間は、永遠に重荷を運ぶシシュフォスのような絶望的な闘いを強いられているのである。