宮本文雄・陣中日誌

 

北支応召陣中日誌

まえがき

 

   この陣中日誌は、赤紙召集されて浜田聯隊で鍛えられ、昭和十三年に北支方面軍の独立守

備隊要員として内地を出発する日から付けている。

 戦地へ向かうのだから、自分に万一の事があった場合に、部隊の誰かにこの記録を読まれ

ては困ることもあり得るので、半ば暗号的・半ば自己流コードで書いてあるので、それを茲

に解訳清記して、ぼろぼろに近くなった現物ノートは廃棄する。

 

   昭和十三年から十五年に亘る大陸ではどのような状態であったか。それが分からないとこ

の日誌の内容は理解できない。しかし、現地にいた我々には一切、戦況も誰が敵で誰と戦争

しているのか知らされていない。東京の大本営と現地の司令部だけが真実を知っているので

ある。「一兵、一民たりとも真実は知らせ無い」が最後までの軍の方針であった。

   そこで手元にあるMaurice Meisner MAO’s CHINAと山川出版の「世界史小辞典」から

当時の中国の動きをたどって見ることにする。孫文(1866−1925)の三民主義の主

張による革命が漸く発展して実施(1924)に入った時孫文は亡くなる。

   日本の士官学校を卒業した蒋介石(1887−1975)は孫文に認められ国民党軍官学

校の初代校長となった。孫文の後を蒋介石が国民党として引き取り指導者となった。彼は軍

権を手中に収めて反共態勢を固める。

   中国共産党(CCP)は早くから芽生えていた。大正十年の時点で党員百名だったのが十

四年(1925)には二万名に、昭和二年には五万八千名に膨れ上がって、共産党は上海に

臨時市政府を組織した。

   蒋介石の国民軍は昭和二年(1927)に上海を占領している共産軍を殲滅する。そこで

毛沢東(1893−1976)は湖南で同年(1927)大演説を行って共産軍を再結成し、

湖西の馬賊の巣を基地にして全中国の農民を中心にした軍を編成する。

   この混成軍に朱徳が率いる教育された一千の強硬な赤軍精鋭が参加して所謂赤軍が編成さ

れる。この毛‐朱連合が二十一年間の共産革命の中心となる。江西で四年間ゲリラ作戦の激

しい訓練を経て昭和六年(1931)に支露共和国を設立する。

   コミンテルンは揚子江北方まで南下して合流する。昭和六年十一月に三十万の赤軍を編成

して、江西の宜春に首府を設立した。支露共和国の存在期間は短かったが、この支配で、農

民を主力にしたCCP軍が固まった。

   昭和九年(1934)に国民軍が首府宜春に対して攻撃を開始したので、共産軍は北方に

向かって行進を開始する。これが長征でなる。行進の途中で未開地の農民が参加する。毛沢

東が軍の首領となって昭和十年十月に万里の長城南の狭西省に到達する。

   江西からの行進途中軍人以外に男子十万と女子五万を引き連れて狭西に八千人到着した。

長征の行軍途中は絶えず国民軍と、時には日本軍と戦って来た。毛沢東は延安に入ってそこ

で全軍の指揮を採った。

   この毛‐朱連合軍の形は昭和十二年(1937)八月に八路軍となるまで続いている。正

確には国民革命軍第八路軍で、日本軍は紅卍軍として認識している。主として日本軍の占領

地域で活躍し民衆を組織して政権を樹立している。成立当初は四万だった兵力が日本の敗戦

時には六十万に膨張している。

   従って、我々の部隊はこの紅卍軍と戦っていたわけである。

 

   更に、岩波新書の貝塚著・中国の歴史(下)と岩村・野原共著・中国現代史からその頃の

記述を拾い読みすると概略次ぎのようになる。

   孫文の時代の中国思想界では日本の明治維新クーデターを手本にして、中国国家再建を狙

っていた。孫文は日本へ来て革命組織の構想・作戦の確立に務めていたのを日本の官憲に発

見され、追われて孫文は中国へ逃げ帰っている。

   また黄興など革命グループは爆弾テロを計画していたのが発覚したので中国を逃げ出して

日本に亡命している。兎に角、孫文の国民党は同氏の死期には党員五十万人の大衆党にまで

成長している。

   昭和二年(1927)に蒋介石はこの国民党を背景にして、国民政府を樹立して南京に首

府を設立した。同年八月には、毛沢東が共産党から湖南省に派遣され農民自衛軍、鉱山労働

者を結集して、これらを国民の軍隊として人民軍を編成する。

   毛沢東はこの人民軍を引き連れて各地の農民を顫動蜂起させるが、国民軍に攻撃されなが

ら井岡山(せいこうさん)に逃げ込む。そこへ朱徳が共産軍八千を率いて到着合流する。朱

徳が軍長となり毛沢東は党の代表になって強固に体制を固める。

   都市部は国民軍で強固に固まっているので、共産側は農村の農民軍を井岡山に集めて訓練

して紅軍を結成する。紅軍に参加した兵士の出身村は解放区とし、解放区の土地は耕してい

る農民の所有とした。

   結成された紅軍は昭和九年(1934)に西方に向かって行軍を始め、これが一万五千五

百kmの長征である。その頃、共産党の中央委員会本部は上海にあった。西方へ行進する紅

軍を国民党軍が追いかけて損害を与える。

   紅軍は出発時点で三十万だったのが国民軍との戦闘その他の事故で、昭和十年十月に狭西

省北部の解放区に三万となって到着している。長征は後々言われるようにかなり困難な大事

業ではあったようだ。  

   一方、日本国はアジアで色々な工作をして遂に昭和七年(1932)に満州国を建国する

が、此れに対して米英は反対し南京政府もこころよく応じないので昭和九年に新しい侵略作

戦を案出し実施に移す。

   つまり北京・天津のある河北省を特殊地区とする。特殊地区と云うのは日本商品を満州経

由して無関税で流通する地区と一方的に決めるのである。この通達に対して蒋介石は無回答

である。共産党本部は長征を終えた所であり反対を宣告する。

   さらに共産党中央委員会が抗日救国を発表し、一方で蒋介石の行動は売国政策であると非

難する。日本としては南京政府と共産紅軍は内戦を続けることを願っている。紹介石は昭和

十一年(1936)に西安に赴き延安開放地区の攻撃を督励する。

   張学良と彼の軍隊が日本軍に追われているところへ飛び込んで来た蒋介石夫妻を襲い二人

を監禁する。そこへ紅軍の幹部が出て蒋介石に国民軍が紅軍と合体して、国共統一戦線を形

成して日本軍と戦う条件で夫婦が釈放される(西安事件)。

   もともと国民軍は紅軍は匪賊として考えていたので,国共統一戦線の歩調は合わなかった。

互いに相手軍を日本軍と正面衝突させて自分の方の兵力損失を少なくしようとする状態にな

る。

  (太平洋戦終戦後1946に再び内戦となり1949に蒋介石は台湾に逃げる)

   昭和十二年七月北京郊外で慮溝橋事件を発端として日支事変が始まる。延安に根拠を置く

紅軍は朱徳が総司令となって第八路軍として正式に抗日戦線を敷いて攻撃を開始する。この

日支事変は昭和十三年十月の武漢・広州陥落までを第一段階する。

   第一段階で日本軍は黄河から華北全体、漢口、広州から華南の一部を占領した。それまで

日本軍は国民党軍と戦い、昭和十二年八月から八路軍が山西省に出撃している。我々は一銭

五厘の葉書の充員召集令状で駈り出されこの占領に従事した分けである。

   その後、軍事郵便と言う無料の郵便制度が出来たので、赤い紙に召集令状がすられて兵隊

  が駆り出されたのでこの令状の事を「アカガミ召集」と云っている。アカガミ召集は無料で

発送されたもので,兵隊は紙一枚で幾らでもあつめられたものである。  

 

 

 

軍隊手牒から転記

 

第五師団管下 歩兵第二十一聯隊第一機関銃隊 歩兵 一等兵 宮本 文雄

   補充兵役 昭和十一年十二月一日

昭和十二年八月三日 充員召集ノ為歩兵第二十一聯隊補充隊ニ応召 同日機関銃隊ニ編入

八月二十五日召集解除

昭和十二年十一月六日臨時召集ノ為歩兵第二十一聯隊補充隊ニ応召 同日第九中隊ニ編入

昭和十三年一月六日第七中隊ヘ転属 三月七日独立歩兵第六乃至第十大隊要員トシテ転属

ノ為出発 三月九日独立混成第三旅団転属ノ為宇品港出発 同月十三日大連港上陸 同月

十六日山海関通過 同月十七日北京着 同月二十七日独立守備歩兵第六大隊第一中隊編入

同日編成完結 四月六日移駐ノタメ北京出発 同月十日歩兵一等兵ニ進級 同月二十日大

名着同日ヨリ同地区警備 四月二十四日五里屯附近ノ戦闘ニ参加 同月二十七日双台ノ戦

闘ニ参加 五月十五日大名東門附近ノ戦闘ニ参加 五月十九日移駐ニタメ大名出発 五月

二十三日韓盈附近ノ戦闘ニ参加 五月二十四日順徳着 同日ヨリ同地区警備 五月二十七

日皇寺鎮附近ノ戦闘ニ参加 六月三日移駐ノタメ順徳出発 六月五日大名着 同日より同

地区警備 六月二十二日東門口附近ノ戦闘ニ参加 六月二十四日移駐ニ依リ大名出発 六

月二十五日順徳着 同日ヨリ同地区警備 六月二十六日右肺炎胸膜炎(等症)ニ依リ順徳

患者療養所ニ入院 六月二十八日石家荘兵站病院ニ転送 七月十三日天津兵站病院飛田病

院ニ転送 七月二十九日秦皇島港出発 八月三日門司港上陸 八月三日小倉陸軍病院ニ収

容 八月三日歩兵第二十一聯隊補充隊第七中隊ニ配属 九月十三日浜田陸軍病院ニ転送

十一月二十七日兵役法第二十一条ニ依リ補充兵役免除 昭和十三年十一月二十八日第一国

民兵役編入

昭和十五年五月二十七日 支那事変中河北省大名県ニ於テ公務ニ起因シ疾病ニ罹ル 乙種

第一一,六六三号 陸軍歩兵一等兵 宮本 文雄

昭和十七年簡閲点呼済

 

 

 

 「陣中日誌」

 

   昭和十三年三月七日 沈黙の行進で、荘厳な三稜神社へ「捧げ銃」の参拝をする。汽車に積

み込まれ動き出してから駅毎で「万歳」の激励の声に送られる。

 

八日 早朝に広島駅に着く。駅前広場で行軍の為の整列をする。士官下士官全員の指揮刀が真

剣の軍刀となり,涼風身に染み込む。戦争に行くのだと云う意識になる。広場で各自は朝食の

包みを受け取り練兵場へ行軍する。

  二千何がしの兵が整列しているのは壮観である。点呼が終って旅館へ着いたのが十時頃で、三

橋舘と言う小さい旅舎で昼食をしてから外出である。映画を見て、烏田と言う兵隊とおでんや

で付き合う。

 

九日 早朝整列して練兵場へ行軍、福山など他の部隊と合併して列兵式挙行。安田郷介閣下の

訓示があって、各隊堂々の宇品へ万歳の声木霊する中を行軍、乗船。乗船の順を待つ間井上少

尉殿を交えて筵を囲んだのも更に感慨深いものがある。

  国際商船である喜福丸に積み込まれて、宇品港を振り返ると既に人気は無くなり淋しい。各自

の輸送小屋のアンペラに横になると、ぐったりと疲れを覚える。(そのまま眠ったらしい。)

  何時しか眼が覚めると,船は動いている。外を見ると内海の両岸の丘が緑色に映えている。寒

気を覚える.寒い夜である。千五百ばかりの兵を積んだ五千屯の船である。八千馬力でこつこ

つと波を切っている。

 

十日 船は朝早く下関を出る。海峡は昔々の思い出である。船は海峡をかなり出てから大きく

揺れ始める。海の景物は幼な物語である。デッキに立ってしばし見詰めていると、緑の丘が段

々小さくなって行く。

 

十一日 船尾で見るスクリューの立てる波に対する思いは様々である。船乗りのキャビンには

詩情を満喫する。そこから聞こえる蓄音機の回転による音楽でシナリオが始まり、人生の様々

なスチールが船のあちこちに描かれる。

 

十二日 船底の生活にそろそろ退屈し切って来る。時々、島や灯火に出会いなつかしい灯であ

る。大陸に近づいたのである。夜十一時に近づいて来る物体を漁るように睨んでいると、蛍の

行列のように大連の夜景が目に入る。安心して一時頃寝つく。

 

十三日 三時間も寝たころ起こされると、四時である。上陸の準備をする。なつかしい土を午

前十時になってやっと第一歩踏む。満人(満州の人)の不潔な生活の臭いが埠頭に漲っている。

苦力が大勢うごめいている。

  定期船の大きな待合所の建物に入り、そこで昼食をとる。なつかしい国防婦人会(昭和七年に

成立した戦時体制に努める婦人の国策団体)の肩章を着けた御婦人が手伝ってくれる。

  市電に揺られて桜花台と云う所へ向かう。宿舎は二十七番地の山本氏宅。御主人は市電の工務

部に御勤務とかで、熱血の人だった。自分の半生を面白く物語ってそれを感銘深く聞いていた。

(金と暇が出来たら大連は訪れたい)

  久しぶり,考えれば五ヶ月ぶりの青畳の上で蒲団に入って寝た。とてもいい休養で体が綿のよ

うになった。

 

十四日 大連を出発する。昨日の待合所の横の広場に集合して昼食をとる。それから汽車の貨

物車両に乗り込み、汽車は一目散に走り出す。広い広い平野、土饅頭の墓,泥の家屋が見える

景色である。

 

十五日 退屈な景色と窮屈な貨物列車の旅である。

 

十六日 北京市郊外、西苑の廃兵舎に入る。黒と白の名も知らぬ鳥が高い枝先に巣をしている。

春の小川が広い黄色の平野を流れる。土地の人達は民族服装をしている。

 

十七日 高木隊に編入される。

 

十八日 萬寿山を見学する。紅・黄・緑色の入り乱れた豊かな建造物に驚く。豪華その物の帝

王の生活が伺われる。

 

十九日 行軍演習。ぽこぽこした土地を歩き、駱駝の行列と行き逢う。

 

二十一日 昨日は攻撃、守備の動作演習で相当に鍛えられて顎を出した。今日は歩哨の動作を

教練。黄色い土壁が崩れ掛かっている光景を眺めていると詩心が湧く。

        歩哨線迩等の軽い春土鋤く

 

二十六日 トラックに分乗して、冷たい朝風を受けながら北京市内見物に出掛ける。市内に入

ると、祝南京陥落と大きく書いたポスターがあちこちに貼ってあって、何処の国か分らないが、

漢国の薫り濃い大きな石門が眼前に展開する。これが詰まり北京入城の時のあの大門かと追想

する。

  大門の鉄製の分厚い扉にも感慨無量なものがある。茲に来て、今日始めて本当の支那の風俗に

接した。今まで眼にしていた風俗は大陸の土俗だったのである。

  支那娘乃至婦人の断髪とスラリとしたスタイルは更に新しい魅惑を覚える。茲にブルジョア根

性を直感すると同時に美学の一篇をも感じ得た。北海公園から市内市場そして日本人町を詳細

に見学する。

  車に人々が集る。支那語の必要性をかんずる。約六時間の見物から異郷の一端の詩情を感じ、

人情の片鱗を嗅いだようだ。帰営は殆ど徒歩で行われたので、相当に疲れてしまった。

 

二十七日 独立混成第三旅団の編成完了式が施行される。寒気と湿地と雨の中で寺内冶一閣下

の閲兵あり。

  満寿山を見馴れて来たせいか、彼等の芸術は余りにも豪華過ぎて思想の姿の片鱗しか掴めない。

極めて寒い日である。春雨と云う言葉には縁遠い土地のようである。

 

二十八日 内務検査実施。午後は三時間の連続行軍演習。

  段鴻祥 自分の寝具寝台の前所有者の姓名である。段とは如何なる兵か知らないが、何か運命

的な面白さを感ずる。我が軍の爆撃の時に茲に寝て、我々の宿営の為に茲を逃げたのだ、と思

うと彼等の行動に哀れみを覚える。恩理明、来寶善が両隣の兵隊の姓名である。

 

二十九日 青竜橋を行軍して渡り譲紅旗なる部落に到る。沢山の鵞鳥が生温い水を麗かに泳い

でいる。農家の門前に張ってある赤い紙の詩文、「出門見喜 川泉大吉 日麗風和 普天同慶」

玉泉山 静明園で休憩する。

  数百米の低い山であるが北京一帯の広野が一目瞭然とする。北京城門が聳える処黒々と市街が

広がっている。一望して高い建物は一つも無い。一面が土であり、満寿山を眼下に見るのであ

る。

 

四月一日 始めて割り当てられた衛兵勤務の日である。実弾と立哨と不眠で何となく兵隊にな

った気にさせられる。勤務とは義務であると考えていたが、十時の立哨の番の時後ろで突然が

やがやと音がする。

  兵五名、通訳一名に迩是一人が腕を縄で縛られて引かれている。この男の友人の家へ案内させ

るので通してくれ、と言う。七名が出て四十分して迩是が二人になって一組が帰って来た。

  二時に立哨の交代で次ぎの交代兵が「物騒であるぞ」と言った。衛兵所へ帰衛して見ると、隅

に支那人が一人血だらけになって転がっている。足が日本刀できられ、鼻血が飛び散り正体も

無く顔面は変形している。敵の密偵で取り調べ中暴れたそうである。

  やがて軍医大尉と司令や将校多数が狭い衛兵所に集ってざわついた。大陸の昼は温かいが夜は

冷えて冷たい。其処へ又一人支那人が水を被されてぶるぶる振るえながら引き連れられて入っ

た。

  密偵は三人で連絡し合いながら状況を探っていたと言うことである。その三人目が捕まらない。

兎に角この二名の密偵は後ろの柳の木に縛り付けられて、明くる日には処分されるようである。

  退屈だった衛兵勤務は、その後はお話にならないぐらい緊張し続けた。そして、血の実物を目

  の前にした為か、戦争と言う物が理解できかけた。敵とか悪い相手はあくまで叩きのめしてや

れと言う事である。

 

二日 北京市内へ出かける。三つ子の片言見たいな支那語が少しばかり通ずるようになったこ

とを認識した。何処で自由行動となっても、結局同じような異国風景を見るだけの事である。

 

三日 母より手紙来る。今若氏より手紙来る。

 

四日 フィリッピン発葉書回送さる。

 

五日 今若氏より新聞送付される。明日は出発と言う時に自分と田中がビンタの血祭りに上げ

られる。

 

 短編小説「国産小銃弾」

   寒い夜、銀座ガード下の焼き鳥屋で少し腐りかけた魚脂の焦げた臭いが安煙草の煙の中から

強く匂って来る。その中ほどに二人の熟年サラリマンがガラスのコップの酎ハイを楽しそうに

傾けている、周囲のどれも皆それなりに愉快そうである。

   二人の熟年サラリーマンは、始めは生活の事やら文学のことを話合っていたが,その内に段々

古い思いで話になった。古い話は濃い紫の魚脂の煙の中に吸い込まれてゆく。煙の中から色々

無駄な思い出が生まれるものだ。

   その内に一人は深刻になって、帰還してから始めて人に話すのだが、これは少し次元の違っ

た話なのだよ、と切り出して次ぎの露営談が公開された。

   俺達の部隊に新しい士官が配属された。痩せ型で青白い顔をした秀才型の男だった。非常に

礼儀正しく繊細な動きで皆に何か挨拶をした。利巧そうな目付きはしていたが、老練な士官に

特有な鋭さは全く無かった。

   ある日、我々は夜行軍の任務から朝になって帰隊して見ると、新しい歩兵砲が部隊に到着し

  ていて、隊の連中は整列して受領式をやっている。我々は休憩の態勢で座って様子を見て居る

と、例の新任士官が目の前に立っている。

   砲の受領式の作法として空砲を一発撃つのであるが、それが鳴ると新任士官の顔が突然真っ

青になった。直立の姿勢であるが良く見ると両手が震えている。あれは武者震いでは決して無

い、今でも思い出せる変わった震え方であった。

   それから二三日後の晴れた暖かい日であった。部隊は敵前方の偵察を命ぜられたので広場へ

でた。すると遠くで飛行機が飛んでいる音がする。すると、その新任士官がぶら下げていた皮

嚢からまっさらな大型の双眼鏡を取り出した。

   彼はその立派な双眼鏡を取り出すや接眼レンズを目に当てて空中を双眼鏡で撫で回すのであ

る。あれでは何も見える筈が無い。やがて、友機が後方からゆっくりと低空で通って通信筒を

落として行った。士官はまだあらぬ方角を双眼鏡で捜している。

  「そんな話じゃ無いんだ。話しはこうなんだ」その熟年男はコップのアルコールを大きく一口

飲み込んでから、少し興奮気味に次ぎのような話を続けるのである。

   それは静かな深い不気味な夜のことである。我々の分隊長が手錠を嵌めた敵方のスパイを引

いて士官室に近ずき、扉を開けた。すると、中から大きな怒鳴り声がする、

  「馬鹿者!部屋へ合図しないで入るな。無礼者!」

   分隊長は一寸たじろいで、何時もの敬礼をして、

  「少尉殿、村で敵の密偵を捕縛いたしました。取り調べられて直ぐ本部へ報告されたい。以上

です。報告終り!」

   分隊長は正しい敬礼を再びしたが、士官はそれに対して答礼をしない。士官は只その敵の怪

物に見入っている。その男の上着のボタンは外れ上着の所々は破れていて、上着の一箇所には

血も着いている。

   青白い士官の顔は更に青白く、一口も答えず自分の椅子に倒れるように座ったきりである。

直ちに行動を取らなければなら無い問題は、失神した士官に対してのでは無くその捕縛された

敵の密偵の方である。 

   分隊長は士官には構わず、当番兵に手錠のひもを捕らせて、自分は捕虜の腕を肩に乗せて部

屋を出た。三人は本部建物のある方向に向かって歩いて行った。

   士官の当番兵は失神している士官の頭を冷たい手拭いで拭いてやっていた。三十分ばかりす

ると士官は気が付いた。彼は廻りを見回して濡れ手拭を持っている兵を発見するとその兵に見

入っている。そして叫んだ、

  「馬鹿者!下がれ!わしの頭に触れるな、人殺し!」

   当番兵は士官室を飛び出した。隊の全員は一切を見て居るので当番兵を慰めてやる。誰も

士官室へは入らない、それから彼がどうなったか誰も知らない。彼は夕飯を食べたかどうかに

ついても誰も知らない。

   その内に士官はその衝撃が薄れて行ったようである。兵隊達は毎日の任務が忙しくその事件

も忘れてしまった頃のある日の事である。指令部から戦闘準備の命令がでたので全員は武装し

て城門を出た。

   戦闘と云う程の事は無かった。数分間の打ち合いはあったが、敵部隊は4.5百メートル先

の道路を行進して行った。その間無銃声で、戦闘も終了した状態であった。双方とも被害は皆

無であったが、足った一人がこの戦闘で撃たれた。  

   この暖かい日和の小競り合いで、例の新任士官が名誉の戦死をしたのである。小銃弾が背中

から心臓を貫通したのである。弾道から推察すると彼は敵に背を向けていた分けである。敵の

狙撃兵も5百メートルから見事な射撃をしたものである。

   誰も士官が撃たれたのを見ていないし、彼が倒れて何を言い残したかも聞いていない。さら

に、彼がこの戦闘中に何をしていたのかを誰も覚えていない。考えて見ると彼は戦場で部隊の

指揮は採っていなかったことになる。

   彼は指揮官としての地位も、戦闘での活躍も問題外にして、部隊はかれの死体に敬礼をして

告別の挨拶をした。彼の灰は白い箱に収められ、一階級昇進して彼の故郷へ名誉の戦死遺骨と

して送り返された。遺族は悲しみと誇りを以って迎えた事だろう。

   この小競り合いも士官の戦死も直ぐ忘れられたが、数週間経った頃何処からとも無く変な噂

が流れてきた。あの背からの貫通銃弾は国産の弾ではなかったか、と云うのである。この噂も

直ぐ消えたし、何処の弾でも同じ事だとされてしまった。

   ガード下の焼き鳥やでの話はここまでで終った。二人はさらに一杯ずつコップを開けて煙の

店を出て、きれいな空気の夜風の中を帰宅の道へ向かった。

                                     (おわり)  

 

六日 肩へ食い込む何十貫の荷物を背負って整列し、十時半に西苑を出発、西直門駅から貨物

車で部隊輸送、暗黒の中方角も方向も不明な旅が始まり、続けられる。貨車の中では古い流行

歌が虫干しされ、煤煙が隙間から飛び込んで息苦しい。

  肉と汗を削られての進軍は、僅かに残る精神力で持ち応える。貨物列車の中の不完全な睡眠、

次ぎに下車するとまた重い行軍が待っている。殺気立った狂気の男性混昌の中に、濁声で時々

激しい猥談の節々が伝わる。

 

七日 石家荘へ午前十時頃到着。全くの支那街である。それでも日本の着物を着た婦人が現地

人の間にあって活躍しているのが、ちらほら見える。余は荷物運搬の使役に割り当てられ、石

家荘駅で午後三時まで輸送業務に従った。

  額には汗が滲み込んだ。本隊が休息している駅横の広場に帰り配給の乾パンを食べる。何時か

東洋製菓で買った久助の中に混じっていた固いビスケットその物である。阿佐ヶ谷の家で一番

売れなかった菓子であった。

  阿佐ヶ谷の事を考えながら、そのビスケットと金米糖と茶を替る替わる飲み食いした。その内、

いよいよ我々の宿舎へ向かっての行軍となる。・

  この地方は敵陣に近く、住民・兵隊共に銃声砲音にはなれていて、遠く西に見える山岳に彼等

が巣くっていると云うことである。

  それだけに行軍は無償に苦しい。松下と云う兵隊が倒れた。衛生兵が脈を取ると停止している

ので急いでカンフルを打った。すると呼吸をして回復したが狂ったようになってしまった。

  松下は自動車に押し倒されて壕の中で後頭部を打ったそうである。翌日大分良くなったが、野

戦病院に護送したそうである。

  石家荘から約三里西方にある小さい現地民部落が部隊の宿泊地になって居る.其処へ到着した

のが大体五時頃である。ぐったりと疲れ果ててしまった。それだのに吾が分隊に前哨の第一下

士哨の命令が下った。

  日本本州をこの位歩いたり輸送をしたりしたら零下何度の北から華氏百度の南に到達したであ

ろう。しかしさすがに大陸であって寒暖の差はさして感じない。北京よりも茲は少し暖かい位

である。

  立哨の夜気は冷たい。全面の大自然を見守って居ると、自分がその大自然の懐に抱かれて居る

  事に気付く。夕暮れの大自然は深刻に迫って来る。我々の本拠である小さい部落の入り口に立

ち左には南北に走る山脈、右に石家荘の市街を見る。

  西方に当る石家荘までの全面は緑の畑で麦の穂が瑞々しく薄い霧に包まれている。ほの暗い東

の空は見る見る暗くなり霧も濃くなって行く。様々な形をした樹木がぽかりぽかりと立ってい

るのが段々と濃い霧の中に暈けて行く。

  広い平野を見渡していると樹木がぽつんぽつんと立並んでいる.夫々の姿が或る物は沈思黙考

し、或る物は歓喜し失意の姿も踊っているのもある。森の情熱を画いた漫画映画の光景を連想

させる。自分はその光景をみて歓喜に振るえた。

  遠くの敵のいる山岳は黒く静かに横たわっている。その方向から嘗て日本の東北で聞いた郭公

鳥の鳴き声がざわめいて聞こえ、土地の人が引いて行く荷車の軋み音と混ざって聞こえる。

  一番星が瞬くと、やがて北斗七星が光り大熊座が広く天を覆う。夜が厳粛に静かに何かをこめ

て迫って来る。

 

八日 西方へ二里移動行軍して山岳の麓近くの町を宿営にする。行軍を振り返って見ると、ニ

ュース映画で見せられた皇軍の大行軍を目の当たりにして、その中には自分も居るのだと意識

する。

  行軍の砂煙り、その砂塵の中を日本刀を杖代わりに突いて通訳が活躍している。一寸先も見え

ない砂煙りから抜けてその町の小学校で宿営の準備をする。

  小学校の隣には本願寺と書いた寺院である。黒い不気味な本堂が建っている。その真前に更に

物騒な大猫が立っている.其処へ気の毒のような僧が出て来た。

 

九日 朝八時より部隊の営兵勤務に着く。当部隊にはまだ新聞記者が着任していない。新聞記

事になる程の戦闘をしていないからかも知れない。しかし今や滞在日数未定の宿営地獲鹿県の

西部一帯に広がる山脈に三万五千の敵兵が雌伏している。

  深夜には何の目的か砲声銃声がその方向から聞こえる。

 

十日 朝十時に営兵交代の当番になった。朝の大自然の中に立つ。早朝とか夕刻には万物が静

粛になって神々しい気持ちになる。今朝はストロベリにクリームを掛けたような空である。大

胆不敵な雀が活動している。

  土地の人々は水を汲む者、大豆を摺り潰す女の姿が見える。

  午後は城外へ状況偵察に出た。小隊長殿の望遠鏡でトーチカと云う奴を始めて見て感激した。

  大陸の人々の生活は簡単に行われている。合理的とまでは云えないが必要意外の事はして居な

い。しかし、彼等の生活の中には風流と云う物が潜んでいる。彼等の周囲の風景に起因する風

流のようにも見える。スケッチする。

 

十一日 午前中は入浴をする。入浴の為には町内まで外出をして現地人の銭湯まで出掛けるの

である。支那にも銭湯があるとは嘗て考えた事が無い。この銭湯は所謂日常の必要からの物で

は無く一種の娯楽設備であると思われる。

  入り口で十銭を支払うと「雅座」と書いた木札の部屋に入ると寝台になるボックスが置いてあ

る。その部屋で裸になり大湯船でゆっくり洗う。久しぶりのお湯だから疲れが出る。その雅座

で寝ると眠くなる。土地の人は一日中ねたり阿片を吸ったりしているのだろう。

  午後隊に帰ると対空監視哨の立哨当番だった。時間を盗んでスケッチもする。本願寺は写真に

  撮ると面白い。特に屋根の構造とデザインが良い。そのスケッチもする。

 

十五日 その後はさして変わりは無かった。匪賊は相変わらず近辺に進出している。皇軍の飛

行機が匪賊団に爆撃をしている。

  本日朝九時に獲鹿県の小学校臨時宿泊所を出発して石家荘へ向かう。目的地は京漢線の新任地

である。約四里の行軍で同県内の一小部落に到達し、其処で宿泊をする。午前四時から不寝番

兼銃前哨の勤務に着く。

  我々の宿泊する家は生活の跡の生々しい廃屋で、匪賊が居たと思われる形跡もあるし、日本製

便箋なぞある処を見ると日本兵が泊まったとも考えられる。兎に角何か団体生活が営まれてい

た処である。

  家は元来は農家である。支那の地方の家の便所には女用のしか見当らない。男は野外で用を足

すことになって居るのかもしれない。

  奉供土地之神位と赤い紙に書いたのが家の木戸の正面に貼った家がある。扇状の壁に彫り込み

があって神棚の様になって居る。また内部の到る所に彫り込みがあって仏のようなものが供え

てある。

  その家に入って子細に見聞して見た。家の略中央正面に黒い小机に霊体と思われる物が祭って

あって線香の燃えさしが生なましく残って居る。不思議に女の靴の片方が飛ばされたようにな

っている。赤ん坊の靴のように小さく刺繍が一杯してある。纏足の靴?

  夜十一時に病人を六名トラックに裁量して石家荘野戦病院に入院の護衛兵として勤務。月が卵

の黄味のように球状をして空に輝いている。流れ星がはっきり強く見える位に一目瞭然の夜空

である。

 

十六日 朝九時に石家荘に向かって出発。暑さが厳しいので行軍は堪えた。石家荘は極めて兵

隊馴れした町でその上日本人が生活している町である。それらの人々も戦争馴れしている。

  我々の新任地へ向かって十二時十分に輸送開始された。この輸送沿線一帯には敵軍がしばしば

出没する危険地帯とされている。従って装甲車の護衛で行軍する。一時間の休憩が出て、ぐっ

すり眠り何やら夢を見たようである。

  夢と云えば十四日の朝の夢にせつ子が久しぶりに出て来た。こんな人形沢山作って、これに着

物を着せて遊んでいる、と云ってフォトフォリオ見たいなものに畳み込んでいるのである。非

常に鮮明で印象深い夢であった。

  七時頃に目的地順徳へ到着した。かなり南下したようで暑さが厳しい。ここまで来るともう旅

行と云う気分も興味も無くなって来た。どこを見ても殊更感興も湧かなくなって来たし、眼新

らしくも無い。

  我々はさらにさる部落まで行軍して宿営、十一時頃まで掛かって壕を掘る。背面から月が昇っ

てくるし、敵の砲声が時々聞こえてくる。銃前哨の任務に着いた。

 

十七日 大陸は南下するに従って農民の文化程度が高くなるようである。生活の合理性が高度

になる。釜場を見ると鞴があって具合がよさそうである。石版摺りの書が貼ってある。黄色と

赤が良く使ってあって中々味のある書である。

  夕刻に突然我が中隊に戦闘参加の命令が下った。何処の戦闘か分らないが、自分は九時三十分

より銃前哨として立哨すると、銃砲声が盛んに聞こえる。さらに先発隊に編入されて明日早朝

出発のための準備に掛かる。

 

十八日 我々は順徳から重大任務を帯びて邯鄲へ装甲列車で輸送されるそうである。順徳城の

壁には砲弾の跡が生なましく、壁上には偽装の中に重機関銃が何台も据えてある。城内も道端

には臨時に出来た食堂とか饅頭屋が日本人によって開かれている。何処を見ても兵隊ばかりの

城内である。

  九時に軍装物々しい装甲無蓋車に便乗出発した。それからは再三渡った広い広い平野の中を進

んで行く。南へ進むので暑いし麦の緑も濃くなって来る。昨夜夏軍服が渡されそれに着替えて

いる。

  行く先も何をするのか分らない旅の中で、人形の夢が記憶新しく思い出される。これから一歩

誤ればと言うことになる。精神力が唯一の頼りになる。

 

十九日 戦線異常無しのデカタン的な町に変貌した邯鄲の朝部隊の終結完了して、度量衡検査

所の廃屋が宿舎となった。疲れが出て来る。午後二時に第二次隊として任地への出発命令。行

軍の予定が自動車輸送に変更された。

  任務いよいよ急を用し重大になったようである。砂埃が濃霧のように立ち込める中を自動車が

進むので、耳も眼も鼻までも蓋をしたくなる。一面の麦畑であり麦はかなり大きく伸びている。

  八時に大名(ターミン)に到着。汽車の停留所も無く交通不便な処であるが文明の進んだ土地

柄を感ずる純粋な支那の町である。大名財政科長の賀某氏の宅地に宿する。始めて大陸の家ら

しい家の中を眺めたのである。

  兵站本部からの夕食の配給を受け、夕食後衛兵勤務に着いた。衛兵所の直ぐ前が城壁でその上

に月が浩浩と輝いている。城外の月のあった漢詩の真意を強く感じた。

 

二十日 朝まで衛兵勤務で、その後本部経理室の使役、護衛を行ってから十一時に睡眠を取っ

た。午後は入浴と大名城内見物である。池塘は相変わらずの作りで、がんがんと入浴者の声が

響く。雅座は広々としてしている。

  支那では入浴する事は贅沢な遊びのようである。今までの獲鹿、石家荘、邯鄲などの土地の人

達のように垢だらけで無く、大名の人達は綺麗で清潔である。朱昭王(チューチンチャオ)の

登場人物のように活気があり間の抜けた処が無い。

  大名の人々はぶらりぶらりとして仕事をしているのかどうか分ら無い。町には物売り屋台店が

非常に多い。地図で見ると最も近い邯鄲まで約二十里はある。城内には農業を営むものは住ん

でいない。

  城内の人種は今までの人種と違って敏捷性がある。城内には遊女屋が多くその雰囲気からこの

部落は馬賊か何かの根拠地では無いだろうか。夜、兵站部から警備隊本部の方へ行く道の途中

で賭博の座が開かれていた。心胆に暗黒な翳を与える街である。

  朝鮮半島から来た人達も相当大勢いる。公娼の中にも朝鮮婦人がかなり居るらしい.。また、城

壁には空襲の時の非難穴が沢山掘ってある。そして、我々一個中隊がこの暗黒の城の守備に当

ったのである。

 

二十四日 河北省立初級中学校に本部を置き、我が一個中隊が大名城を守備して、四万何千の

敵を目前に置く。毎晩直ぐ側に銃声を聞き真剣に不眠不休の勤務に着く。歩哨兵一人が負傷す

る。

  昨日は眼に故障が出来て班内で休憩していたが、今夜は増加哨として立哨する。いよいよ切迫

した状況が目前に迫って全身が引き締まるのが分る。そして、我々も第一線に出動することに

なった。

  乾パン一食分を雑嚢に入れて出動する。指揮将校は寺本幹部候補少尉殿で以下十二名の分隊。

戦闘中一名負傷の情報がある。約五百の匪賊を相手の初陣戦闘開始である。弾丸が雨のように

来る中を進撃また進撃したが、幸いに今生存している。

  初陣の模様を振りかえると、二十四日午後三時大名東門前に中隊主力約九十名が整列する。装

備迫撃砲一門、重機関銃1丁、軽機関銃1丁、小銃士各人に手投弾1個ずつ渡される。

  整列全員にするめが配布され、ついで大きな丼の酒を二口呑んでは隣に水盃が廻される。江上

部隊長殿の祝勝激励があって、我が小隊が中隊の第一線となって出撃する。城門を出るとパン

パンパンと時ならぬ銃声で我々目掛けて打ち込まれる。

  約百メートル前進前進すると、一面に麦が一尺の高さに緑濃く伸びているので敵から見えなく

なる。麦畑の中で小鳥が暢気に囀っているのが癪に障る。更に広く散開して約五十メートル前

進する。

  すると、突如側面から雨あられの如く彼等の一斉射撃を受ける。がばっと地に伏せた。すると

良く耳にしたヒュンヒュンと云う弾の音がする。鉄兜のすぐ側をヒュウンと弾が流れる。匍匐

前進の号令で前進を続ける。

  約一時間の敵の抗戦が続いてから敵は退却する。部隊は終結して退却する敵に向かって射撃す

る。敵の損失不明、味方には損害なし。

  帰営すると酒宴の準備がしてある。チョコレートも並べてある。何ヶ月ぶりのチョコレートの

味を楽しんだ。夜十二時より北門の増加歩哨として勤務。

 

二十五日 北門勤務より七時に帰営。午後三時に北門に敵来襲の情報がある。北門下士哨上番

勤務となる。午後十時城壁で立哨していると、ドカンドカンとニ発迫撃砲の爆破音に続いてパ

チパチパチとチェコ小銃が鳴って、さらに銃声がパンパン、パンパンの後ヒュンヒュン、ヒュ

ンヒュンと城壁の上を流れ弾の音が通る。

  本部からの情報によると、敵はさる敗残兵の将某の曳ゆる兵約六千人の部隊で、南東方向より

我が方に向け前進中との事。北門の部落には六百の土匪終結。所謂四面に敵を置いている状態

である。

  さらに、彼らは今盛んに梯子を準備して城壁を乗り越えて我々を全滅せんとの計略との事。笑

止先番な話で,我百四十人足らずの部隊なれど支那の敗残兵六・七千には驚かず。

先の戦闘の有様が目前に復元する。

  敵は迫撃砲二・三門、軽機関銃一丁に小銃の兵力との情報。初陣の洗礼をうけているので腕が

鳴る。大名には歩兵訓練を受けた中国青年による歩兵団の宣撫されてしっかりした順警部隊も

ある。

 

二十六日 今朝から門の通行は絶対禁止の命令が出る。北門附近は至って平穏な空気である。

東門では時々銃声がする。その敵弾を前にして九時三十分に下士哨勤務者一同は東方に向かっ

て皇居及び靖国神社に遥拝した。

  昨夜の銃声は、南門に押し寄せた敵が手留弾を投げ上げた音で、それに続いて我が方から射撃

をしたと、報告がある。

  逮捕された被疑者を釈放するので門を開ける。また、宣撫班の派遣密偵が帰城のため門を開け

る。十時に交代して隊に戻り早速入浴して昼食を腹一杯かき込み睡眠。良く眠って起きると夕

食である。

  張り切っている軍隊生活である。自分の破れ体がよくもこのように続くものだと自分で驚いて

いるくらいである。城内の略中央に教会があるが、その塔の鐘が十五分毎になるのでロマンチ

ックな感じに捕らわれる。教会は米人が運営して米人経営の孤児院もある。

  生臭い大陸の臭いにも大分馴れて来た。銃声は始終しているが、此処の民衆といいやん(一様)

に一向構わず平気でのんびり構えるようにもなった。只郵便物と縁が遠くなったのが淋しい。

順徳に帰ったら郵便物を受け取るのが楽しみである。

  飛行機が飛んで来ないのも淋しい。城壁の外は一面の大平原で、まるで大海の中にある小国家

の生活状態である。今夜はゆっくり睡眠を取り、明日は洗濯をしてから、午後は下士哨上番と

なる。

 

二十七日 午前九時十五分、敵弾を前方に控え下士哨勤務中、東方に向かい遙の皇居及び靖国

神社を遥拝する。

  下番して睡眠中飛行機の低空音で眼が覚める。友軍の偵察機であり、心に喜びを感ずる。通信

筒が二本狙いどうり側に降下する。状況切迫の場合は日の丸を丸く振れ、さも無ければ人で円

を作れ、とある。

  我々は集って円陣を作った。飛行機は両翼を上下に揺らしてミンパイ(明白)の合図をして悠

々と去ってゆく。

 

二十八日 十時に交代上番。夫婦と四人の子供を連れ、ここへ四天前に来たが食にありつけな

くやって行けないから、城内から出してくれ、と云う。食を与えて出門許可する。城内の政治

の乱れが読める。

  歩兵団の一員が密偵として出門する。

 

二十九日 勤務上番者を除く八十余名の全隊員は、野戦の仮兵舎前に午前九時に整列して東方

の皇居を遥拝して君が代を斉唱した後、万歳を三唱する。感慨無量の一刻であった。

  城下へ外出して浴場でゆっくりと入浴する。朝鮮の人が経営する兵隊相手のバラック小屋の

「大丘屋」でうどんやぜんざいを食べて帰営する。

  隊では、野戦糧秣倉庫から祝日(天皇誕生日)のご馳走が出て来る。そこで何時ものアンペラ

の上で何時ものように食ったり飲んだりするのである。今日一日は書簡の差出が許可され二通

書く。

  午後四時部隊衛兵上番。北門下士哨の歩哨に勤務中、昨二十八日到着した救援部隊が隊列を整

えて堂々の入城して来た。城内の兵隊も民間人も不安な面影が消えて春の笑顔になったようで

ある。

  同日、大砲隊が出動して十七発の砲弾を打ち込んだとの情報あり。

 

  短編小説「二人の勇士」  

   その大隊は混成部隊で三つの異なった兵隊のグループから編成されていた。第一のグループ

は戦争成れしたベテラン達で殆どは鉄道警備隊への志願兵で戦争するのが商売のような連中で

ある。

   第ニのグループは召集兵で葉書で召集された民間人の素人兵団である。第三のグループは老

兵を中心にした兵隊で野戦病院からゆび一本無くしたのや、胃痙攣とかマラリアまがいの病気

の回復兵とか、沈没した輸送船の生き残りなどでその数は少ない。

   各中隊にはこの三グループの兵隊が平均的に配属されている。従って、どの中隊も戦闘力は

同等であって、それなりに生き残れる小隊であり分隊であった。しかし、旭日小隊のデルタ8

分隊だけは特別に有名であった。

   8分隊は博打分隊とも呼ばれていた。分隊全員が賭博に熱中する分けでは無く、二人だけが

警備隊から来た博打打であった。ケムと云われるのは右手の小指が無いが、銃を撃つのには関

係無い。もう一人のジャグの背中には一面に女王蜘蛛が大きく刺青されている。

   この二人は大隊での最高の狙撃兵であり、また賭け事の狂人でもあった。主にサイコロを振

っていたが一度始まると手当たり次第何でも掛けて勝負を続けるのである。手製のカルタも使

っていたが、暗闇でも掛けられるのは釦の数宛である。

   勝負に掛けるのは当然銭であるが、それが無くなると煙草、鉛筆、ハンカチ、ナイフ、缶切

り、腕時計とあるもの何でもかける。最後は石ころまで掛けるし、下手すると生きた蚤まで利

用しないとも限らない。

   ある夜この二人の勝負が始まって、遂に彼らは小銃弾を掛け始めた。小銃弾は始終点検され

ていて各兵の所有数は決まっていた。小銃弾は貴重であり時には命より大切なものであって、

勝手に使用することは禁止され当然貸し借り出来るものでは無い。

   その頃点呼の際に小銃弾の点検が無かったので、当分の間小銃弾が二人の間を往き来してい

た。従って、この間の二人の勝負は周囲でも注意し同時に興奮を呼んだ。賭け事であるから勝

負にはつきがあった。

   その晩の勝負ではケムに無闇につきが回っていた。分隊仲間の見守る中でジャグは勝負を諦

めず続けて行くのでとうとうジャグの小銃弾の手持ちは無くなった。そこでその夜の勝負は終

ると同時に“消灯”になったので皆床にはいった。

   所が夜明け前に突然“集合喇叭”が鳴った。兵営の廊下で鐘が鳴らされ、兵隊は皆飛び起き

  て着替え戦闘準備をして兵営の前庭で整列をする。分隊の準備が出来ると大隊命令を受けて来

た分隊長は号令をかける。“弾込め!”ジャグだけは弾を込めた手振りをするしか仕方が無い。

   8分隊は他の分隊の後に付いて、兵営を後にして戦場へ向かった。2キロぐらい走った頃空

は明るくなって開けた畑地の向こうに敵兵がちらちら見える。敵方は大部隊では無く二百ぐら

いの斥候隊のようだ。

   旭日小隊は地図上のTH丘に散開してこちらの状況を偵察する斥候隊と向き合った。デルタ

8分隊は丘の窪みとか石壁の後ろに陣取った。このTH丘には以前も布陣したので地形には皆

馴れている。

   ケムは石壁を這い上がって袋一杯の小銃段を引きずり上げて得意の狙撃姿勢に入りかけたが

1秒遅かった。チェコ銃がバリバリバリと鳴ると、ケムの体、銃と弾の袋が大きな鈍い音を立

てて石壁の上から落ちた。ケムはやられたのである。

   一方、ジャグは銃剣を抜いて腰に差してどんどん匍匐してゆく。倒れた敵兵から銃弾をせし

める考えだろう。すると、彼は突然後ろ向きになって友軍に合図して、前方の大きな木の上を

指した。敵の服を着た狙撃兵がその木を登っている。

   腕の強い男がケムが落とした銃弾の袋をジャグの真前まで投げた。ジャグは袋を破って一発

だけ弾を取り出し肩に掛けていた銃に装填した。 今度は一瞬ジャグの方が早かった。たった

の一発がパンと音を立てると、見事に木の上の狙撃兵を捕らえた。

   狙撃兵の体が落ちるとジャグはその方へ這い寄って、その兵のチェコ銃と弾を捕ってこちら

へ向かう。誰でも一番欲しい5連発のチェコ銃である。それから戦場では暫く撃ち合っていた

が、やがて敵の斥候隊は引き上げていった。

   本部の方から休戦の指令が伝達されて来た。分隊の数人はケムの方へ駈けて彼の亡骸を担い

でキャンプに向かって急いだ。他の兵隊はジャグが帰って来るのを待ったが彼は中々現れて来

ない。

   「おい、ジャグを捜して見ようぜ。」と、云って歩き出した。そこで分隊は散開して歩き出

した。若しかしたらジャグの奴、まだ銃か弾を捜し廻っているのかも知れない。そう想って歩

いていると「おい!ここだ!」と声がする。

   その声の方へ皆集った。驚いた事に、ジャグは砲弾の跡の穴の中で倒れている。もう息はし

て居ない。何時誰が何処から撃ったのか一発頭に銃弾の跡がある。皆でその遺体を担いでキャ

ンプへ引き上げた。

   担いでいる一人がつぶやいた。「若しかしたら、天国のケムが勝負の続きをする為に呼んだ

のかも知れないな」暫く経ってから別な男が「そうだよな、敵の弾があそこで当る筈は無いも

のな。」                                 (おわり)

 

  五月一日 午前五時に北門を隊列を組んで出発して城外を約一時間行軍して,再び北門へ午前

七時に帰還する。これは部隊の一部を邯鄲へ分散するための敵に対する示威行軍として行った

ものであった。

  帰営後女子師範学校にある警備隊本部へ伝令として行き、帰途中学校を通ると一面のアカシヤ

の木に白い花を着け、ぽろぽろと落ちている。強い詩情と記憶が胸と脳裏をかすめる。土地の

子供はその花を拾って食べている。

  入浴をして、午後一時から県公署で日中戦没者合同慰霊祭が挙行され列席する。支那歩兵団員

のラッパで式典が開祭され、各階級の代表者の弔辞と礼拝が仏式で挙行される。読経は音楽入

りで行われる。

  子供の喜びそうな音楽で、子供なら真似をしたくなるようにリズムが軽快である。孟母三選と

云う故事を思い出しこれならある部分は納得できる。

  式から帰営してぐっすり寝込んでしまった。目が覚めたとき暗い朝だなと、太陽が砂煙りに覆

われたように見える。そんな事が時々あった。ニ中隊で三名戦死したと云う情報が入った。そ

の中に浜田で同じ班だった三上正太郎がいる。

  可哀想なことをした。今日の慰霊祭の壇上にあった文を三上に捧げる。

   英雄冠三軍此世不靖遺恨不滅 哀声騰四野0死之曰猶生之年

 

二日・三日 この間に下士哨勤務。敵状により灰色の太陽に向かって始めて発砲。

 

四日 下士哨上番。城壁の下のクリークが小川のようで、対岸の楊柳が戦煙で枯れて生臭く、

暖かい春が訪れているのであるが、その春を知らぬ。

  先日まで城門は閉じられ、出入は厳禁されていたが、皇軍の威光で敵は敗退したので城門は開

かれた。自然の懐に憧れていた母子が川に入って戯れている。

 

六日 昨日勤務下番。父娘の旅芸人が二本糸の弦楽器を下げてやって来る。近頃隊内で下痢が

流行している。恐らく塩分の強い水で米を炊くからだろう.飯盒の飯が減らない。ここへ来た当

座は食料不足だったが今は満足している。

  その残り飯を旅芸人に与えて一曲やらせた。父が楽器を弾くと娘がいい声をしてそれに合わせ

て唄う。五銭銅貨を与えると父が「アリガト、謝謝、大人」と云って拝みながら小銭を押し頂

いて行った。

  展望哨へ上がって見下ろすと、その旅芸人の二人が大きなアカシヤの木の下で休んでいる。そ

の風景は美しい絵画のように見える。しばし、その風景を楽しんだ。

  臨時兵営の裏の塵捨て場へ塵捨てに行くと、大きな柱が一本立っている。よくある、何々部隊

奮戦の地、とでも書いてあると思って近寄って見ると、軍馬威新号の墓 0部隊、と標してあ

る。

  三寸角位の柱で小高く土を盛って直径二メートルに爆弾の破片や煉瓦で円が造られてある。北

  門の城壁に、何々軍曹戦死の地、と書いた記念柱があったが、激戦地の兵の心遣いが思いやら

れる。

  城壁の向かいには教会があって十五分毎に精確に時間を報じている。その鐘の音に安らかに二

  つの魂は眠っていると思はれる。その教会には数多くの処女が保護されていると云う情報も入

っている。

  誰も入って調べてはいないので真偽の程はわから無いが、城外の教会付属病院にも沢山の婦人

  が保護されているとも云われる。

  第四小隊から真正赤痢患者が二名出たと云う情報が入った。

 

十日 部隊衛兵の下番。この頃附近を敵の密偵が横行する模様。九日には二名を逮捕した。本

日正午の城門閉鎖して、守備隊によって戸別探索が施行される。第一線を歩兵隊四個中隊が実

施。

  本日郵便物の差出しが許可される。

 

十五日 他部隊の一歩兵が保衛隊討伐の実戦について語る。味方の不発弾,配給弾丸が銃に入ら

ないで失敗戦となって退却した。敵大将の勇敢な演説の話をする。本日小隊の記念写真撮影。

大名の酒保の安田写真館の親父に支那将棋のセットを貰う。

 

十六日 我々一部の者に外出許可が出たが、非常呼集のために中止になった。

  夜間十二時にまた非常呼集があった。自分は部隊衛兵に勤務中で参加出来ず残念がったが、結

  局攻撃取り止めになった。この夜匪賊の夜襲と云う事で日本人居留民は終結して一夜不眠で明

かしたそうである。

  去る日大名守備隊の隊歌が募集された。一時間ばかりで次ぎの作詞をした。

  

  一.果て無き北支の大平原  歴史古き黄河の地

      大名城の朝日して    正しき平和に目覚めおり

    ニ.南河北の門戸なる    迷える良民警しめし

      新文化を広め行く    我らの任務いや重し

    三.護りを固く導かん    我ら魂いや高く

      鷹懲の銃休めなく    大名守備の大任務

    四.立てよ大和の丈夫よ   正義と平和の武士道に

      皇国の慈悲の輝きて   我ら誠を生かす時

    五.果て無き西の彼方へと  静かに夕日は沈み行く

      平和に眠る希望の民   暗黒より守り備えん

 

十七日。十八日 ある日大名県の街路を風呂やへ歩いていると、露店商人の男が別な男と恐ろ

しく尖がった顔をして罵り合っている。直ぐこれは喧嘩をしているのだと分る。喧嘩であるが

二人とも中々手を出さない。大分長いあいだ罵り合っているが最後まで手出しはしなかった。

  別な時の事である。ある日勤務の控え兵として路地を入って行くと、女の甲高い声や泣き声が

する。

着剣した銃をそのまま持って近着いて行くと女同士の喧嘩である。現場へ到着した時には喧嘩

は終っていた。

  大きな豚のように見える女とおかめ顔の小さい女との喧嘩だった。おかめ女は目玉を白黒させ

てぶっ倒れている。亭主と思われる人に抱き上げられている。相手の女は黙って見下ろしてい

る。

  女の喧嘩は肉体的であることを知って、戦争は同じ事だと思いながら勤務の為街へでた。帰り

に同じ場所へ廻って見ると今度は豚女が家の中でボロボロの茣蓙の上で伸びている。亭主と思

われる男が介抱をしている。

  おかめ女の家では家族五人がいなく何処かへ逃げたのか行ってしまっている。何れの女も三十

二三で亭主は両方とも年下で二十七八ぐらいに見えた.何があったのだろうか。

  夜、敵襲と云うので非常呼集があったが、自分は野戦倉庫の衛兵当番であった。当番の相棒は

四月に此処へ来たと云う若い宣撫官で久しぶりに東京の話を聞いた。彼は四谷が本籍で宣撫官

の試験を受けて来たと云うのである。

  二十九路軍の降参兵約四百名が城内の一角で教育されているが、彼は宣撫班の担任でよく宣撫

されていると云う。この間衛兵の時宣撫兵が討伐に出かけてから開門の声があったので見ると

三人の負傷兵を連れて五人カイロカイロで帰城した事がある。

  城壁の上から彼らの教練を見下ろしたことがある。元来の二十九路軍兵舎は空爆でめちゃめち

ゃになり、現在は小学校で訓練している。朝夕の喇叭は夜鳴きのチャラメルの合奏さながらで

あるのが面白い。

  小学校の庭での彼らの訓練も面白い支那の軍隊である。今村某と云う特務少尉が大名の宣撫班

長である。

  勤務の下番で休んでいると、死刑の執行があるから小隊から五名ずつ出て来いと云うのである。

  大方の連中は外出していて小隊には五六人しか残っていなかった。そこで自分を入れて五名が

選ばれて,宣聖会医院と師範学校の間の荒れ野原へ行った。

  各部隊はずらっと整列していた。日本人会の婦人も混じっていた。約三十人の兵士が着剣をし

て式の宣告を待っていると,歩兵隊に縛り上げられて四人の便衣の死刑囚が、静かに観念して

現れた。

  四人は座らされて、通訳を通して今村宣撫班長の宣告が伝えられる。「我々は今神と成り代わ

り東洋永遠の平和の為に汝らを死刑に処す。何卒今度生まれ変わった時には立派な心の人間と

なり大東洋の為に尽くすように」と言った意味の事が告げられた。

  それから感深き銃殺の場面である。先ず銃殺刑の二人でその一人は匪賊でその匪賊隊の長であ

る二十九路軍の少佐である。名前は覚えていないがこの少佐某の落ち着いた態度は全立ち会い

者の目を引いた。

  二人は掘られてある自らの墓穴に背を向けて立たされ後ろから二人ずつ計四名の歩兵隊員に銃

殺されるのである。銃殺は十メートルも離れて照準を合わせて打つのかと思ったら、そうで無

く頭の髄に銃口を着けて打つのである。百発百中である。

  パンパンと音がすると便衣の匪賊はだだっと倒れた。少佐は倒れないので、更に続けて二発う

ちこまれた。少佐某は尚悠然と大空の彼方を睨んで立っている。並びいる者は皆驚いている。

  結局七発か八発目の銃弾で倒れた。そして静かに横たわった。さすがに無頼の集団である匪賊

の統率者たる男であると思った。この異国の敵である少佐某の見事な最後には敬服の外無かっ

た。賞賛すべき敵将校である。

  残る二人は我々が死刑執行するのである。一人は銃剣で一人は日本刀で行うのである。

戦闘中の敵兵は遠くで見えないから分らないが、こうして縛り上げられた無抵抗で生気を失っ

た人間の体を刺すのは難しい。

  日本刀で切られた首は墓穴を飛び越えて一間も飛んで人間は即死である。然し銃剣で刺し殺さ

れた人はさぞ苦しかったことだろう。気分的に複雑な一日であった。

 

十九日 本日我々は太原から到着した部隊に申し送りをして交代をした。午前九時に城内の良

民の盛大な見送りの中三十台のトラックに分乗して大名を出発する。本当に良民たちと分れる

のは淋しかった。それ程大名の一ヶ月は心溶け合っていたのである。

  邯鄲で休憩して夜八時に沙河へ到着した。夕食の用意が無く、また沙河の川砂で自動車が動か

なくなり弱った。現地の人も牛馬に引かしている車で何十台も苦労していた。我々は民家で寒

い夜を明かした。

 

二十日 朝三時に起きて三食分を全員飯盒炊飯する。六時には討伐に出発する。沙河で大隊が

終結する。我々分隊は本部の護衛に任命される。午後五時頃に我々の部隊が帰って来た。敵は

姿を現さ無かったと云う報告である。

  他の中隊では戦友に戦死者が出ていると云う情報を聞く。夕食後にその中隊の山田君が尋ねて

来た。

実に嬉しかった。彼も元気で弾の中で活躍しているのだ。余り嬉しくて万年筆が見えなくなっ

た。

  三上君の戦死の詳細も山田君から聞いた。夜の勤務は無かったので色々思い出しながら寝る。

昼間,駅へ背嚢を往復背負って歩いたので肩が凝って痛み出した。

 

二十一日 午前二時非常呼集があった。非常に寒い夜である。掃討が行われたが、密偵は居な

かった様子である。順徳には郵便物が大量に到着していると云う。手紙が見たい。

 

二十二日 連日勤務の疲れが出る。同じような泥壁の捨てられた土民の家で夏の衣類で寒い夜

を明かしている。沙河である、水の一滴も無い足場の利かない砂原を約半里続く河を歩くので

特別に疲れる。

  昼にはパイン缶、蜜柑、バナナ、カステラと煙草の物凄い間食の配給があった。午後八時に整

列点呼が終る。騎兵隊が沙河城内へ入城した。四川軍が南方某に陣地を占領中で我が大隊は此

れを攻撃することになった。

 

二十三日 歩兵一大隊に砲、重軽機と騎兵隊の増員による大大的陣容である。初めての大戦闘

の参加になる。何となく心が浮き立ってくる。砂の続く沙河を渡って午前五時頃砲弾数発の発

砲で攻撃が開始される。

  我々は第一戦になっていた。ドーン、ブルブルブルブル、パーンと音が今までと違って大砲の

音が入るのである。歩兵隊はゆっくりと攻撃するのである。しかし腹が減って困ったのである。

  何時か攻撃が終って沙河へ向かって行軍する。すべての行動が連綿と編み込んだ作戦表の中を

行くようである。沙河城門に到着すると、門の入り口で新着の軽機関銃の試験射撃ちゅうであ

った。土民が二人犠牲に上げられている。

  飯盒炊爨をして夕食をとり、宿営が無いので土の上で夜を明かすことになる。

 

二十四日 五時に起床,六時半整列、七時に出発、順徳へ向かって行軍開始。意外とゆっくり

とした行軍であったが、那台の市街を通る頃になって苦しくなった。今にも倒れるのでは無い

かと思われる位であった。

  市の北門を出た処に県立師範学校があり、其処へ到着して仮宿舎に決まった。そして今度は今

までと違って毛布も食器も支給された。陣営設備が幾分でもあると内務規程が生きてくる。

  もう道具も食器も全くいらない。寝るのも土間で沢山だから、ゆるやかな戦場の気分にしても

らいたい。それが兵隊の唯一の念願なのだ。

  夕食後に到着した書簡と郵便物が渡された。皆引き続いた激務の疲れも忘れて隊によって来た

手紙を選り分けた。自分にも大分来ていた。三・三十、四・一、四・十五付けの三通とセのが

四・十二あったが五・のは一通も無い。

  セはスケッチを送って欲しいと書いているが困ったものだ。それは簡単には出来ない。

池田氏からも来ているし、家からは小包みに羊羹が一本送って来た。もう夢中になって皆読ん

でいる。

  廊下で誰か大声で使役に出ろとか何とか怒鳴っていたが、皆知らん顔して読んでいる。もう殴

られても構わないと度胸をきめて、無我夢中で続から続へと手紙をみている。慰問袋と間食も

配られた。

  師範学校の後ろには珍しく綺麗な小川が流れている。此処で皆洗面、洗濯と行水をするのであ

る。

涼しくて心の慰安が得られるし,詩情を求めるのには最適な場所である。四方は一面の畑で大

麦、小麦が黄金色に照り映えている。

  其処で色々な知人友人に出会うが、出会う人との話はすべて戦闘のことばかりである。

山田君とはもっと話すことがありそうであるが、出会うと戦闘の話で終ってしまう。不思議な

ことだ。

  爛熟し切って,乾き干された五月の太陽である。もう大陸は真夏である。一面の麦は小生の行

軍後の小便と一様な褐色になって居るではないか。直ぐ其処で馬が井戸の周りを廻って水を汲

み上げる。

HP馬力と云うのは此れから出たものだろう。

  日干しになった大平野にこの馬が汲み上げる水の一滴一滴が輝くダイヤのように尊く見える。

この間大名の綿工場での馬力の活躍を見たことを思い出した。

 

  掌編小説「一辺の紙切れ」

   戦闘が終って我々の大隊は大亀河に沿って上流へ行き、丘の上の古びた町へと行進する。そ

の町は誰も居ないゴーストタウンになっていた。本当に猫一匹も残っていなかった。淋しい小

さい住みよさそうだった町に感じた。

   斥候班が曲がりくねった道を一つ一つ、状況を偵察して安全を確かめに廻って、約十五分し

て異常のない事が報告された。指令部はそこで、臨時に荒い地図を作成して各小隊にそれを配

った。

   大隊は町なり群に宿泊する場合学校の校舎に大隊本部を設置していた。我々の小隊は地図に

よるとその町の中学校に隣接した所に宿営するのである。分隊長が戻ってきて我々は校庭の一

部地点に天幕をはる命令を出した。

   我々の分隊は叉銃して、体に着けた荷を解き天幕を張ってその中で横になって休息をする。

私は軽装のまま校舎の方へ歩いて、授業の教室のない建物に入って見た。他の連中は全く興味

が無いので何時も一人でそのような建物を見て歩く。

   私が探しているのは図書室である。学校によっては物理化学実験室と図書室が同じ部屋にあ

る場合がある。この中学の図書室は独立していたが小さかった。小さいが部屋の四方が高い本

棚になっていてびっしり図書で詰まっていた。本当の図書室であった。

   何となく、整然と区分もしてあるように感じた。言葉が違うからそう感じたのである。外国

語の書籍は一箇所に纏めて並んでいた。私が探すのはこの部門で、外国語のなかでもアルファ

ベット文字のものである。

   この国の外国語教育は非常に高度であるのには驚いている。英語が最も多いがフランス、ド

イツもいくらかある。茲にも英語のベネット、ギッシング、ハーデー、マンスフィールドなど

など沢山ある。

   私はハーデーの‘緑林の木の下’をとりだした。赤い表紙で木綿紙の軽い本だった。ぱらぱ

らとページを捲っていると一篇の紙切れがひらひらと落ちて来た。その本をポケットに入れて

今夜の読書の楽しみにした。

   そして、落ちた紙切れを栞代わりにと拾ってポケットに押し込んで、急いで校庭を横切って

宿営のテントへ戻った。我々は次ぎの作戦があるまでこの宿営地に滞在すると言われていたの

で、数日間はここに留まる事になるのである。 

   その日の夕食後テントに戻るとランプに灯が入っていて、既に大きな鼾をかいて寝ている者

もいる。私は昼間ポケットに入れた本を抱えて寝台に横になった。本と一緒に紙切れが付いて

来ている。

   私は何気なくその紙切れを手に取って広げて見ると、英語で何か書いてある。足った二行で

あるが見事な女書体であって、直ぐ読めた、

   リューチョンさん

   本当に嬉しい楽しい午後でした。私のために苦痛に耐えて来られたことを知って

   深くふかく感謝しています。

                                 メファー

   何故かこれを見て自分の心が踊り出した。やがて冷静になってから、この一遍の紙切れの意

味は何だろう?リューチョンは男性でメファーは彼の恋人に違いない。私は本を読むことも本

を持っている事も忘れた。

   この一遍の紙切れに想いと想像が飛び回り、リューチョンとメファーの二人の主役が夢のス

クリーンで色々な映像を創造してくれる。私は自分なりの二人の物語を夢にして自分が戦場に

いる事もしばし忘れて想いに耽った。

                                       (おわり) 

 

二十六日 壕を掘る哲学がある。墓穴を掘るに等しい、故に人間の理性あるべからず、至極芸

術的ならざるべし。変形甚だしい程戒められる。規則が行動を支配するものなれば、その道に

身を任す他あるまい。

 

二十七日 昨夜と同じく下痢をする。まさか自分が下痢を申告する程になっているとは思は無

かった。余りにも突然であった。八時に軍装して十時に順徳を出発、某方面の残敵討伐命令。

じとじとと雨が降って困難な道である。

 

二十八日 夜明け前の攻撃が開始される。残敵が潜入している部落を焼き討ちする。その後昼

食のため叉銃して休みに入ると突然山上方面から敵の逆襲を受ける。井上少尉殿顔面負傷され

る。隊にはその他は損害なし。

  敵は数十の死体を残して逃走した由。敵は相当数の日本軍兵器を持っているようである。皇軍

の威厳が見えて面白い戦いであった。

 

二十九日 意気消沈する位気概が喪失して来た。五里余りの道のりを往復行軍して疲れがどっ

と来た者だ。野営して洗濯をする。

 

三十日 ノートが一杯になったので、土地の店で有り合わせのポケットブックに続けて日誌を

書いて行く。那台と云う処であるが、大きな町で純粋のチャイナタウンである。衛兵交代で出

かけようとした処で山田氏からの慰問品入り小包みを受け取った。

  夕方から朝まで銃砲声が止まない。この頃はこのように戦争の中にいるのに拘わらず戦時気分

は低下して平時のように内務ができる。これはどのような事を意味しているのか分らないが、

少々不都合のように思われる。

 

三十一日 午前中に中隊内で上等兵候補選抜試験を施行する。困ったことをするものだ。激し

い戦線で上等兵も一等兵も無いものだ。このような事が何時頃まで続いて行われものやら。

  昨日から降っている雨が降り続いている。雨が溜まると大陸の土は柔らかいので困る。降り止

んで乾くと、それを踏むと土の中の方でボクッボクッと妙な音がして道が鳴り出すのだ。夕方

は洗濯をしたり雑用をする。

 

六月一日 明日は戦没者の慰霊祭が挙行されるので、兵の中で僧侶の職に有った者を集めて行

うのである。

  疲れるのでとうとう我慢出来ず診断を受けたら練兵休になった。

  非常に良く晴れたいい天気である。小鳥が朗らかに支那語で何か唄っている。慰霊祭で思い出

したのである。大名城の西門で仮眠していると出て来る怪物。また、那台一中隊のWC入口に

出る馬の霊。那台の小川のほとりに建てられた道奥号と道行号の二軍馬の墓柱など。

  その小川で後備の輜重兵さんが魚釣りを良くやっている。時折網で掬ったりもするが大きな鯰

が捕れる。兵隊の食器洗いの滓ですっかり太った鯰である。夕方になると誰かが尺八を吹いて

いる。中々上手に吹いている。

  本日、上等兵候補の申告が行われた。中隊で四十八名が候補決定された。夕刻には早速甲班は

特別教育を受け絞られていた。

 

二日 朝起きるのがだるい。この頃また腹部不具合の患者が続発する。大名駐屯の時ひところ

流行ったのと同じで困ったことだ。天候で体が弛んで来るのだろう。本日は慰霊祭が施行され

る。脚袢を巻き替えて一同は礼装にする。

  金を無くした兵隊が出たので臨時点呼が実施された。

 

三日 昨夜は早く寝ると云う命令だった。民県に一個師団終結していると云う情報が入ってい

るので、また戦争だ。その方面へ行くと云う噂があった。朝になったが別に出動の命令も無い

ようである。

  兎に角、最も迅速な行動を取るのを唯一の戦法として、少数を以って大を打つと云うのがスロ

ーガンになっているから、中々難しい事である。上等兵候補は毎日朝夕非常に気合を掛けられ

ている。

  近い内に邯鄲方面へ移動すると云う話しがある。北支のあちこちを旅していると思えば楽しい。

  大名方面の敵は割合に脆かったが、この京漢線附近の連中は相当に手厳しいので大変だ。

  こんもりとした樹木の間からウイッホ、ウイッホと鳴いている鳥がいる。何鳥だろう名が分ら

ない。

 

四日 隊員は演習をしている。自分は隊に残って手紙を書いている。突然演習中止出動準備の

命令が出る。午前十一時三十分である。あわただしく準備して午後一時出発。自分も練兵休で

あるが出動となると行動は一緒である。

  昨日から降っていた雨で道路の険悪はこの上ない。そこへおまけに雨がどしゃ降りになって来

たからたまらない。四十何台の自動車行軍は畑の中を、川のなかを、土地の人も顔まけの強行

軍である。

ニュース映画で見せたい光景である。

  邯鄲へ到着が夜の十時半で、皆濡れ鼠になって震えている。早速燃える物を探して火を焚いた。

我々の目的地は初陣での思いで深い大名である。邯鄲の宿営所は神社か教育熟のような建物で

ある。

  建物の高い所に青地に白い字で書いた額がある。“聖神天従”、“聖協時中”、“天神地参”

と書いてあって例によって署名、落款がしてある。野戦病院として使っていたらしいが、それ

にしては設備が悪い。そこらの土民の小屋と同じである。

  建物の裏に墓柱が十数本立って居る。その中に和田山某伍長の墓があって、その墓の裏に弟和

田山某建之と書いてある。土地の土器茶碗二つに水が供えられ、花立てとしてサイダー壜が二

本立ててある。涙ぐましい情景であった。

 

五日 四時半に起床、昨夕焚いた飯盒の飯を食べて出動準備である。自分も大名へ行く事を軍

医に命ぜられている。七時に出発、昨夜からの雨は降り止んでいるが道路は危ないままである。

  勝鬨橋など敵軍が落としたり壊したりした橋は工兵が新しい木橋をかけている。道路は飛び落

ち飛び上がるひどいままである。見馴れた部落を通って午後四時になつかしい大名に到着した。

  以前ロートルの居た家は壊れている。公報閲覧所だった青く砲壊されていた建物は喫茶店に変

って居る。もっと荒れて汚れた建物はそのまま残って居るが、それらの家は土地の売春婦がサ

ービスガールとして利用していたようである。後備の兵隊さんの部隊が居たので、そのような

営業政策が取られたのだろう。

  我々は女子師範学校の寄宿舎跡に一泊する事になる。そこは屋根は抜かれ勿論窓など一つも無

くひどい建物である。この建物の横に新しい墓柱が二本立てられその前に線香の強い匂いがす

る。

  後備さん四五人が線香の束を一つずつ送り火で燃して墓に立てている。土器に水を盛り蜜柑や

色々なものを供えている。直ぐ側の木の元に白布で包んだ骨箱が置いてある。今日荼毘に付し

たそうである。感慨無量だ、戦死者は歩兵曹長と伍長だそうである。

 

六日 吹き通しの部屋の夜明け前は特に寒い。女子師範学校の校舎に居た後備兵の大隊は既に

引き上げてもう居ない。我々はそこへ早速引っ越すことになる。学校には大きな舞台などもあ

る。

  街の泥煉瓦作りの家屋がこの三日のどしゃ降りで壊れているのがかなり有る。例の教会の鐘が

時間を報じている。外出はしたが街は荒れて何もすることも行く所も無いので、汚くなった池

塘で涼んでいた。

 

七日 朝早く起こされる。帯剣もせずに分隊の全員は北門へ飛ぶようにして行く。中陣専任上

等兵他二名が苦しい声をあげている。石油缶爆発による大焼けどの負傷をしたのである。下士

哨には直ちに三名が交代に出る。

  自分は午前十時に下士哨の上番となる。今朝五時の人の焼けた匂いがまだ生生しく残っている。

  戦闘の雰囲気もなく外界は平穏である中で下士哨勤務をする。少し離れた木の陰で煙草売りの

老人が居眠りをしている。

  小川の流れで巡査が釣り竿をたれている。すべて大陸ののんびりとした風景で、きーきーと一

輪荷車の音が眠気を招くようである。

 

八日 下士哨を十時に下番して入浴へ行く。街で時計を買ったが、その時計を持って帰ると真

っ赤な偽者で動かない。買った時には動いていたのだが。下士哨への食事運搬勤務をして班に

戻る。

  昨日から昨夜の疲れで、そのまま午後いっぱい眠ってしまった。その代わり消灯から夜は十二

時まで眠れない。

 

九日 朝早く石油缶爆発で焼けどをした患者のいる医務室へ食事を運ぶ。日野の顔を見ると割

合に元気である。明日飛行機輸送で入院することになっている。

  約四千の敵軍が終結していて状況切迫している。午前十一時に軽爆撃機が彼等の根城上空から

爆撃する物凄い音がする。一機は大名城を低空旋回する。我々を攻撃する予定の敵軍は驚いた

ことであろう。

 

十日 負傷者三名を飛行機で石家荘の野戦病院へ輸送するため、担架の三名を派遣された護衛

小隊が北門外へ運ぶ。しかし病院飛行機が故障のため搭載する事が出来ず戻ってくる。この無

駄な行動で、下士哨勤務上番が十二時まで延期された。

  先に邯鄲へ出兵以来、敵軍の為に帰営不能になっていた溝口分隊が無事帰還した。

  一方、我々の食器類、背嚢など各種員数物が全部到着する。ここで又居座って警備が始まるの

である。皆腹の中では“俺は野戦の方がいいな”と思っているだろう。早速班内の整理片附け

で忙しい午後である。手紙には松陽新報が一日分来ただけである。

  夕食後、臭気と嗚咽の病室看護当番となる。日野君の看護に当った。彼の外観は前回と少しも

変わっていないが、非常に痛みを感ずるらしい。病状には変化があるのだろう。十一時に当番

交代となった。

  明日は飛行機が来ればいいがと思ったが、休戦の合図の雨がどしゃ降りである。班へ帰ってぐ

っすり寝込んでしまったものだ。

 

十一日 朝六時半目を覚ます。毛布をすっかり自分一人で掛けているのにびっくりした。起床

七時、下士哨へ食事運搬当番を済まして入浴する。医務室の火傷病人には蛆が湧き始めたと知

らされる。

  高粱酒の呑みすぎで、刀を振り回す騒ぎにまでなった。十二時になっても眠れない始末だ。甲

班の演習があったが逃げ回る結果になって仕様が無い。

 

十二日 朝寝不足である。明け方何か夢を見ていたようである。書簡が出せると云って来たが、

生憎絵を書いた葉書が一枚しか用意していない。没有法子である。(仕方が無い)

  下士哨の上番である。司令の溝口伍長が兎の子、鳥の子と緋鯉二匹飼っている。しかし、鯉は

一匹浮いてしまった。残った一匹は塩を付けて焼いて食ってしまった。或る夜、小鳥は鼠に引

かれ、兎の子は班内で飼っていたが衰弱して死んでしまった。

  本日病院行きの飛行機が来るわけである。護衛小隊が出てしまったので昼飯が来ない。待って

いると四時頃自動車で食事が届いた。尤も既に饅頭を相当食べていたので腹は一杯だった。

  天候は曇りであるが風速が強い。その為か本日も飛行機が来ない。何処までも気の毒な程運の

悪い人達である

  支那の順警達は日本語が大分上達して来た。宣撫班はパンフレットを配ったりしている。我々

  は“冷水”程度の絶対必要な支那語は覚えるが、普通の会話は一切知らずに済んでいる。

  彼等は“お早ようございます”から始まって教本を勉強しなければならない。戦に勝っている

側と負けている側の違いを感ずる。

 

十三日 爽やかな朝が明ける。昨夜も敵の夜襲があるらしいとの情報で、隊内の厳重な警戒が

要望されていた。夢の中で朋友の一人が指をきられている。

  筆と紙一枚が唯一の財産である現在、無一物である現在、無心と云う環境にあるが内実ともに

無心には中々なれないものである。無心になれないから自然と考えが乱雑である。

例えば、戦闘の一句    麦耕野蝶も狂い舞う弾の中

      夜間警戒     迫撃砲消えかかる如く流れ星

               長々と広い原野を星流る

      十二日の作    クリークの緑濃くなりし黄梅雨(ホワンメイユウ)

               可愛がれど母乳の餌無き子兎死す

     いずれも駄作である。

  今朝五時に先般石油缶爆発で火傷した中陣専任上等兵が名誉の戦死をされた。隊内の兵隊で読

経の出来る者を召集して仏式で葬儀が行われる。昨夜城壁上の動哨の時に遙西の空を南から北

に向かって不気味に星が流れた。

  広い原野の広い大空をすーっと流れてパッと花火を散すようにして消えた。自分は迫撃砲の攻

撃と勘違いして危うく“非常”を掛け様と思った位である。中陣上等兵が火花のように消えた

のだ。

          弾鳴って黄色き草むら蝸牛

  戦死者の式場準備に忙しい最中に突然空をつんざいて飛行機の音が轟く。それが大名城内を見

下ろして低空飛行するので、窓から首を出して見ると旅客機だ。直ぐに非常召集が掛かって護

衛小隊が編制されてトラックで飛行場に向かった。

  三小隊から担架要員が指名され負傷者二名が飛行場へ担がれた。飛行機は完全な民間旅客機で,

吉岡は客席に座し日野は狭い通路に寝て輸送された。客席が六つある中島飛行機製の機であっ

た。この機は兎に角無事に離陸した。

  さて、葬式場であるがサイダー箱の板を繋ぎ合わせて棺桶が作られたが稜角がぴたっとしない。

  六尺もある大きな物だ。花立ては大砲の薬莢である。恐ろしく野戦向きな祭壇が出来上がった。

  十一時まで自分達がお通夜をした。小笠原,石橋の両一等兵の読経が始終聞こえていた。宣撫班

の人達も参列していた。厳かに式は行われた。隊の者ばかりになって読経が続いていると突然

チェコの銃声がする。

  敵襲である。二名の法師の読経が乱れて立ち上がった。坊主も兵隊だから仕方が無い。通夜に

来ていた半分は北門増員として出発した。野戦だからこれも仕方が無い。自分他二名は十二時

から屍歩哨になった。各小隊から交代で通夜に来た。

  北門方面に敵の来襲があった模様である。

 

十四日 昨夜は連続の歩哨勤務をした。足が膿んでリンパ腺がはれて痛みがある。午前九時に

告別式が施行される。敵軍四千に四方を包囲されながら荘厳に少数の参列であるが告別の式が,

先般後備部隊が墓を設立した場所で仏式によって挙行された。

  午後班内へ土地の小輩が二人来た。何時もの床屋である。久しぶりに髭を剃ってもらった。

「ミヤモトさん、痩せたな、顎が三角になってしまったよ」と言われた。

  医務室で足の治療を受けた。その後下士哨へ間食を届けたが、大分体の疲れを感ずる。内地の

部隊にいる時にはとろ臭く見えていた砲兵や重機関銃隊がいさましく音を発てて戦っている。

  夜十時頃になって銃砲声が一際盛大になってきた。“それ奇襲だ”と飛び起きた.直ちに五名が

下士哨へ増援に出発した。残りは班内で待機の姿勢である。銃砲声は一時頃まで続いた。我々

のあばら屋根の上をピュンピュン飛んでゆく。それでも眠いのでグーグー寝ている。

 

十五日 朝早く下士哨へ一人歩哨交代に出かけた。彼は骨を払はなければならないから(?)。

そのまま下士哨勤務続行、本日の司令は平山伍長である。

  警備残留部隊は全員討伐に出かける。書置きを書き白襷を掛けて出門をした由。城内警備は各

  下士哨と砲兵によって編成された。小銃保持兵は少数である。敵の尖兵は十一時頃南門附近に

出没して、北門へ迂回したとの情報あり。

  直ちに厳重警戒が通達され三時半まで立哨が続く。自分は当日歩哨掛かりの任務についた。

 

十六日 天候いよいよ快晴となる。一睡もせず午後一時に交代が来た。歩哨掛かり下番すると

故中陣伍長の墓柱を建てる。小学校の生徒の唱歌練習をする場合良く聞こえる処に建てた。夜

十二時から一時まで不寝番勤務。下番して漸く安眠出来た。

 

十七日 起床すると昨夜の不寝番の態度は不真面目だったと学科された。下士哨へ朝食運搬し

てから入浴。夕方に治療を受けたりetc.勝部氏は順徳まで彼女が送って来た原書が届いて

いる筈だと云っていた。

 

十八日 入浴後,下士哨上番、司令は船橋、佐藤の両上等兵。近頃頻繁に巻毛袢の下にポツポ

ツと痒いものが出る。それが段々と体中に出る。何か刺す物が居るに違いない。皆弱り切っ

て、中には其処を掻いて化膿させて困っているのが相当いる。自分もその一人。

  此の頃は間食が馬鹿に少なくなって来た。酒の量もぐんと減ってしまった。その癖、状況の

方はいよいよ切迫の有様である。

  壊れかかった宿舎小屋で睡眠をむさぼりに掛かったが、突然真上の天井に今にも落ちそうな

煉瓦が見つかった。おいお前は今にあの煉瓦が落ちて当って戦死するぜ、と云っているよう

だ。冗談じゃないよ。だけど何処に災難があるか分らないよ。

  大陸の人民は煉瓦建築が好きであるが、それには何か原因があるに違いない。まさかこのよ

うな殺人も予定に入っている分けはないだろう。

 

十九日 午前二時ごろ敵の夜襲が掛かる。丁度その頃下士哨の非番小屋で連中が結婚生活の話

しをしていた。突然パンパンと銃声がするので、落ち付いてやれよとお互いに云いながら小屋

を飛び出した。

  城壁へ上ると又パンパンと打ち出す。射撃位置は東北角の部落からである。砲がぶっ放された。

  角に到達するように擲弾筒を一発見舞った。敵は激しく応戦するが,約ニ十分の戦闘で退散し

た。下士哨の射撃弾は擲弾筒の弾一発のみ。

  四時から二時間寝る。本日は外出の日である。下士哨へ食事運搬してから、写真屋などに寄っ

てゆっくり街を歩いた。帰営して銃の手入れをして夕食までぐっすり寝た。夕食後甲班は外出

で大名のたった一つの公園へ出かけた。八時まで久しぶりに同年兵が集って勝手な熱を吹きま

くって休養した。

  昼間寝たので夜は中々眠れなかった。十一時から十二時の一時間不寝番勤務。警棒を持った順

警が面を被って脅す格好を思い出して急に可笑しくなった。烏田豊年と寝台を並べて寝た。

 

二十日 書簡の発送が許可されたので、かなり沢山手紙を書いた。それから診察を受けて外出

した。

戻って見ると明日警備の交代で出発だと言う。驚いて、医務室へ治療に行ってから早々に班へ

帰り荷をこしらえに掛かる。

  班に酒がバゲツに二杯出る。さあ、それを呑んで踊る者、芝居をする連中、唄う者から喧嘩す

る者まで出る。夜の二時頃やっと静かになり落ち付いて来た。

  交代部隊は第七大隊の一個中隊でその先発隊が来たが、まだ戦闘の経験も無い生白い連中であ

る。

  今夜あたりには例のチェコ銃で打ち捲くられてさぞ慌てる事だろう。

 

二十一日 朝十時に下士哨上番、司令船橋伍長勤務上等兵。午後一時部隊の一部交代。また順

徳へ帰るとの事、大名に飽きた頃で丁度良い。順徳の方が手紙が早く読めるが、また毎日演習

のような事をして鍛えられるのか。

  午後十時に下番すると、明朝三時起床して討伐に出発するから早く寝ろとの命令。外で尺八を

鳴らす奴がいて眠れない。明日の命が分らないからと云っても少し勝って過ぎるのではないか。

 

二十二日 午前三時に皆出かけた。自分は具合が悪いので一人留守番をする。コロンバンのよ

うな喫茶店に行きたいことを考えたり、古雑誌を三時間ばかり見て居ると部隊が帰って来た。

  第一〇九路軍との戦闘で川を挟んでいたので白兵戦に持ち込めなかった由。小銃弾肩部負傷者

一名。

  明朝また早く討伐に出発するので早く眠れとの命令。自分は医務室へアッペ患者の看護勤務に

出かけた。患者はえらく熱を出して苦しんでいる。自分は安眠出来なかったが、実に沢山,五

種類ぐらい夢をみた。不思議な夢ばかりだが一つも覚えていない。

 

二十三日 朝七時に部隊は出発した。患者は大分良くなって居るが,明日の出動には患者は行

けないと云う。自分も少々具合が悪くなって来ている。

  十二時頃討伐部隊が帰還して来た。迫撃砲破片による右腕重症者一名。

 

二十四日 朝五時に起床。寝たのが朝三時だから始末が悪い。未だ薄暗い五時に宣撫班の前を

通って中隊へ帰る途中で保衛隊の連中に出会った。武装をして北門の方へ出かけた。

  自分は朝食を食べずに又病室へ行った。

  七時に整列し出発だ。なんと背嚢の重いことよ。自分は病人の車の看護を勤務する。十時頃に

突然自動車の列が止まった。“前方を偵察の為停止”の伝令。その伝令が終るか終らない時に

突如チェコの弾が埃で一杯の空気の中をつんざいて飛び来る。

  “いけねー!”自分は非戦闘員で全然武装していなかった。急いで帯剣と鉄帽をつけ銃に弾を

込めている間に小隊は前を通って行く、尖兵は盛んにやっている。自分は警戒の姿勢で車の側

の立っていた。

弾がヒューンヒューンと来る。

  不図振り返って見ると、半島人の安田がいる。恐らく大名を引き上げて順徳へ部隊に連れて帰

ってもらう処なのだろう。路の脇に女が小さく丸くなっている。金泉舘の静子とやら云う半島

の女を彼は妻にしている。ロマンチックな二人である。

  見ると日の出屋の夫婦もいる。二人とも相当に立派な洋装をしてしゃがんでいる。その盛装に

驚く。

  大分打ち合ってから少し静かになって、自動車がぞろりぞろりと前進する。尖兵で銃声が鳴り

止む

  とスピードが出る。すると又突然停止して、ドドドッと重機の物凄い音がする。自動車列の右

翼にMG分隊が出て対応射撃をしている。

  左翼にもMG分隊がでている。重機がドドドッと打つと森林がザザザッと木霊するしさらに中

空にパパパッと連鎖音が響く。敵方からの反応射撃は無い。自動車は前進し二度目の重機攻撃

で戦闘が終ったようである。遙の方で一二発ぱんぱんと鳴っただけである。

  糞のある側で昼食をする。この戦闘で盲貫負傷者一名。さらに別な一名の負傷者あり。

  邯鄲へ午後二時頃安着。負傷者二名入院で,小生同伴任命さる。今夜は邯鄲で宿泊とのこと。

今日は実に暑い日だった、今までに無い暑さだったが突然夕刻になって夕立となり雷雨になる。

  霰が降っているのではないかと見えた.乾燥し切った粘土が砂煙となって吹き上がる。この景

色は見者であった。事実霰だったから、夏の最中でも霰が降るのにはいささか驚いたのである。

 

二十五日 疲れて寝た。朝方の夢に手紙を三通受け取る。彼女,池田氏と父からで、三人とも

何か戦闘の犠牲になって怪我をして、その三人が連絡しあって結婚問題を解決したような雰囲

気である。

  十時に邯鄲駅から国際列車に連結した貨物車に分乗した。暑苦しい数時間にして沙河を渡り順

徳に到着する。自分はトラックで先発し、残余の人達は行軍する。物凄い暑さの中である。焼

け付くようなとは正に此の事である。

  戦闘の疲れが急に出て右の胸部がやられたらしい。診断を受けて入室する。山田に会う。相変

わらず元気で大隊本部に出て勤務している。夕刻また霰が降った。

 

二十六日 好天気の日曜日であるが、胸が痛む。

  土地の人が“飯完了”と聞くから“完了”と答える。変なことを聞く連中だ。飯を食うのは当

り間じゃないか。処が“ちい飯了麻”はおはようの挨拶であった。であるから答えも“飯完了”

と言えば良いのだ。彼等は一般に二食主義である。

  本日手紙が配られたが三通あった。二通は母から一通は妹からで彼女からのが無い。そんな筈

は無いので丁度本部の陣中日誌係の山田が来たのでその事を聞いた。女の手紙が2種類あった

と云うから三つ封筒を見せると、それだけだと云う。

  母の手紙には簸川郡の者が二名戦死していると盛んに心配している。軍服姿の写真を送れとか、

  何処に居るのか一寸知らしてくれとか、弱ったものだ。戦争に行った者が時には死ぬのは当た

り前であるので、思い過ごしとも云える。しかし彼女のいように諦め切ってしまうのも困り者

である。

  山田はおまけに手紙の差出人を見て,君の奥さんは何っちなのだと来る。その家内から来てい

ないので不思議なのだ。山田はさらに曰く今入院しろよ絶好の時だぜ。

  処が、不時診断を受けたら順徳患者療養所へ行かされた。

 

  短編小説「車両第236号」

   猛虎車両部隊は約百台のトラック部隊であった。五台に付き一台には重機関銃が据えてあり

何時でも射撃出来るように安全装置のままになっていた。一台毎に歩兵が一分隊ずつ登場して

いてこれも何時でも飛び降りて戦闘に着ける態勢になっていた。

   この部隊の任務は所属連隊の行動地域内の何処へでも応援、斥候、先陣となりに行くのであ

る。従って、広い範囲の土地・地域の砂山でも麦畑でも、戦況と命令に応じて如何様な地形の

ところでも飛び回るのが仕事である。

   加熱された砂路を飛ばすのでトラックのブレーキが壊れることがある。それと云うのもブレ

ーキが過剰運転と熱砂で過熱されて、そこへ微紛状の砂塵が過熱されたブレーキの金属の間に

入り込み其処で金属部分と溶け合って付着するのである。

   こうなるとその車は使い物にはならなくなる。修理工場が戦場にあるわけが無いからその車

はその場で直ちに廃車になる。乗員は全員飛び降りて死んだ車を一、二、三っで引っ繰り返し

て、あらゆる螺子を緩めて部品を取り外す。

   タイヤは担いで行くが、車輪は所構わず転がして置く。これは、敵側がたやすく修理して再

使用するのを防ぐ為である。兵隊は車体を支えるステンレスのスプリングを丁寧に一枚一枚は

がしてタイヤと一緒に担いで後から来るトラックに飛び乗る。

   担いで来た戦利品は相乗りする車にも分配する。タイヤは消耗品だから必要の時使用する。

鍛造されたスプリングは宿泊する村の鍛冶屋でさらに鍛造して刀に仕上げるのである。極めて

早く安い工賃で出来るので多くの隊員はスプリング刀を持っている。

   茲に報告しようと思うのはトラック部隊の任務でも美しく光ったスプリング刀の話では無い。

話はこのトラック部隊の最後部に付いてくる一台のトラック番号236の乗り組み員と部隊所

属者とに纏わることである。

   トラック236号車は三日前にこの部隊に配属された。何故三日前なのかまた何故この部隊

なのかは分からない。部隊には慰安隊の一部が参加すると師団本部から知らされてあって、一

台のトラックに一団の女性が積み込まれて来たのがそれである。

   これらの女性は兵站部の下士官が街角で春を売っているのを連れて来たのや、兵站部で日当

手当てを支給すると言うことで志願をしたものもいる、と知らされたのである。何れにしても

部隊には華やかな同志が出来たものである。

   猛虎車両部隊は休戦状態になったので、各小隊は夫々の宿泊準備をして食事と休養を取るこ

とになった。それとなく注目しているとトラック236号の直ぐ側に厚めの生地の大きなテン

トが張られたが、女性の数に対して少し大き過ぎるように見える。

   隊全員の興味の的であるそのテントの仕組みがだんだんと明瞭になってきた。厚手の茶色が

かった大きなテントに「入口」と「出口」と書いた二つの立て札が置かれてある。隊員は直ぐそ

のテントの出入り口の意味は了解した。

   隊員は一人一人一枚ずつ切符を渡された。「慰安券」「猛虎部隊」とゴム印が押され隅に小

  隊長の認印が押してある。この券を持って入り口から順番にテントに入り女性の慰安を受けて

  それが終了すると出口から出るのである。

   慰安の女性の数は少ないから、その作業が終るまで入り口で並んで順番を待つ事になる。女

性達には軍の兵站部で相応の給金が支払われるから切符を係りに渡すだけで良いと説明される。

さてこの切符はどの様に動いたのだろう。

   その発行された目的通りに殆どの券は使用されたようだが、中には煙草と交換されるのがあ

ったり、又かなりな値段で売買されたのもある模様である。兎に角、部隊内では色々な形で慰

安券テント旋風が起きていた事は否めない。

   さてこの券を実際に使用する場合には「入口」を入ると其処に背の高い兵隊が椅子に座ってい

てその札を取って回収箱に入れる。中は天幕で仕切ってあって区分区分に寝台が置いてありそ

この女性が一人ずついる。慰安終了で、兵隊は出口から出るのである。

   その入り口の背の高い兵隊がこのテントの直接管理者である。この留棟二等兵はテントの女

性達の言葉が話せるのである。これは、管理上第一の必要条件である。さらに、彼は連隊の兵

站部の所属している兵士である。

   留棟二等兵の両親は彼女らの国に住んでいて彼はその国で生まれ育ったのである。だから彼

女らの言葉が分かるし彼女らの生活習慣も良く分かる。その上彼女らの内の一人、明華妃の出

身地は留棟二等兵の生まれ村と同村でなのである。

   従って、この二人は親密であってトラックでの長旅の間ではかなり深い会話が行われたのも

当然である。また、明華妃はしっかりとして多少親分的な所があるので女性軍を指導する立場

にもあったので、二人はトラック236号を支配していたとも云える。

   さて、この慰安テント村に妙な雰囲気が生まれたのである。部隊の中の若い士官が可愛い顔

をして優しい態度の明華妃に逆上せ上がったものである。彼は、明華妃は自分だけの慰安にせ

よとテント番の二等兵に命令したのである。

   「連隊命令で女性は全兵士に平等に接待することに定められています。」と、留棟二等兵は

  その仕官に返答し「一応、隊長殿に少尉どののご意見は伺っておきます」と付言したら、士

  官はうな垂れてテントを出ていった。

   留棟は明華妃にそのことを話すと、彼女は威張り腐ったあの少尉は嫌いだと云って、それに

淋しい顔して私の身体中を触りまわしたりして嫌らしい男だ、とつけ加える。留棟はその士官

の小隊の兵達から評判を聞くと、凡そ善いい評価は無い。

   明華妃がこの隊の者で気を引かれているのはその士官と同じ小隊に所属する大声の兵隊がい

て彼には好意を持っていた。彼は、自分の隊の士官が明さんにを恋している事は知っているが

彼女には何も言わないしまた何も聴かない。また明華妃が好きだとも云わない。

   或る夜その大声の兵隊が慰安テントに並んで順番が来ると、入り口で留棟二等兵にピストル

を渡して「銃火器の持ち込み禁止だから預かってくれ」と云う。当然だから留棟は自分のポケ

ットに仕舞った。

「明さんが開くまで待たしてくれ」と云うから椅子を与えた。

   明華妃のベッドが空いたので大声の兵隊はそのテントに入り、やがて其処から出るとそのま

ま出口に向かい外へ出て行ってしまった。何故か留棟はピストルを預かったままになってしま

った。一般兵にはピストルは配給されない筈である。

   それから二日後に、この慰安テント村は突然取り壊しを命令され、部隊は移動して戦闘状態

に入った。トラック236号は本部命令で衛生部隊の救護所としてテントを張ることになり、

女性は臨時看護婦を務める事が依頼された。

   その内に負傷者が運び込まれて来るが、その中に例の士官が失神して運び込まれてきた。彼

の左脚を小銃弾が貫通して出血が激しかったので衛生兵は止血剤を撃って、女性が包帯を巻き

つけている時に彼は気が付いた。

   士官は状況を了解すると衛生兵を呼びつけて明華妃を呼んでくれと言う。軍医が来て看護婦

の指名は許可できないと申し渡して、本人は野戦病院で手当てする必要があるとしてカルテと

一緒に担架に乗せて彼はテントから担ぎ出された。

   士官は他の重症者とトラックで兵站部へ輸送された。小隊の掲示板にその戦闘での戦死者五

名の姓名が発表されていた。その中には大きな声の一等兵の名前があった。その夜その五名の

告別式があったので、留棟二等兵も参列して捧げ銃で告別をした。

   そして、留棟は大声の一等兵の遺留品を纏めて遺骨と一緒に遺族へ送るのに整理をしたが、

彼が趣味だと云って集めていた現地の紙幣と硬貨の袋がどうしても見つからない。分隊の同志

は無かった事にして荷物を作ったと云う事をが評判になった。

     その数日後、猛虎車両部隊に移動命令が出た。トラック236号は兵站部へ帰還せよと指示

された。すべての行動は命令通りに動いたが、トラック236号の留棟二等兵と隊員の明華妃

の二名が何処を探しても見つからない。失踪した模様である。

   明華妃と割合に密接にしていた女性が、彼女は色々と現地の人の衣服を買い溜めていた事を

思い出した。明も留棟も現地の言葉が良く分かっている事はトラックの娘は皆知っていた。二

人で脱走したのだ、と口には出さないがトラックの者は皆そう思っていた。

                                       (おわり) 

  

二十七日 足の治療と胸の診断を受ける。飯が少しも食えないので弱ったものだ。

  裸になった自分の体や人の体を見ると白い肉の固まりが二本の細い棒のような脚に支えられ乗

っかっている。あの体で如何やって三十貫近くの武装をして三十里の行軍をする事が出来たの

か不思議で仕様がない。

  それで一杯呑むと上海だよりか何か合唱して壊れ兵舎に大穴を開ける勢いになるのだから。こ

れは諦めから生まれるのだ。社会人になってあれやこれやのいざこざに取り巻かれ、やれ近所

の義理だ新婚が如何だと云われると思うとぞっとする。

  そうなると一層の事早い処勇敢な戦死をした方がよっぽど幸せだ。例え全く知らない百姓とか

車引きでも何千人と云う人々から敬意を表され敬礼される。おまけに神様にもなって祭られる

と云うことである。

  実に念がいって決して粗末にはされない。一歩軍籍を離れて東京市内で変死したとする。人々

は見ろあの放蕩息子が酒に酔って自動車にお辞儀をしてくたばった。これで親族一同は安心し

た、と云う事になる。

 

二十八日 出来物が手に出て来た。本日某時X分一同四十八名が石家荘へ輸送される。昨日か

ら脳をやられた年寄りは未だ人事不省のままだ。

 

二十九日 体もだが頭も何となく重い。久しぶりに本当に顔を洗った。固形石鹸の匂がいい。

診察でザルソブロカノン(注射薬)を一本打って貰った。病名は肺尖炎並び胸膜炎としてある。

それ程ひどいとは驚いた。

  石家荘が此の前来た時よりも遙に良くなっているのにびっくりした。一般の日本人が大分多く

なって居る上に、彼等は背広服で歩いている。優美に和服の婦人も歩いているのを見るのは懐

かしくて良い。

  暑さが特にひどい、室内でそうだから南方の屋外は想像に絶している。

      小休止草花眺め水を飲む(戦闘追想)

      病棟に電燈珍しじっと見る

 

三十日 異常無し。妹尾君が体裁論を盛んに吹いていた。 

 

七月一日 居眠り行軍の事  高守鎮の攻撃の時だと思う、大雨降りで夜中の行軍が続けられ

る。寒いし、体は濡れるし、足はよなよなと台なしの上ひどく眠い。“止まれ”敵前だからか

細い声で前の方で号令が掛かった。  

  しかし雨の音でその号令は伝はら無い。真っ暗で一寸先も見え無い。歩き続けようとすると前

の兵は止まっているから彼の飯盒にしこたま鼻を摺り付ける“いてへ!”、すると自分の飯盒

に後ろの兵の鼻がぶつかって来る。

  ウェスターン・フロントと云う小説に別な兵の停止が書いてある。ある兵が銃を担ったまま歩

きながら居眠りをする。そして居眠りが深眠りになってその兵は立ち止まる。その列の兵は全

部たちどまる。その他の列はどんどん前進するのである。

  妹尾君は生まれ故郷の日御崎(島根県簸川郡日御崎村)の話しをする。自分も其処が母の里で

あるから良く知っているので、村の噂、あちらこちらの人達の事、海の生活、船の事、村の発

展策などなど話し合った。

  本日石家荘在住の日本婦人の慰問があったそうである。自分はその時寝込んでしまっていた。

自分は重病人と思ってある婦人が寝ている私を扇いでいたそうである。それだから良い心持で

寝たのかも知れない。

 

二日 診断日である。

 

六日 病院生活が続く。病院で寝ていると色々な妄想が浮かぶ。家に残って居る彼女の幻に涙

したりもする。一日石家荘の女給さんの慰問劇があったが、なんだか無味乾燥だった。

 

  短編小説「キャリアマンD君」  

   これは前線取材写真班の遠藤氏による手記からの一部である。遠藤氏は撮影技士でなく現地

撮影のフィルム現像と現像したフィルムを本社へ搬送するのが仕事である。この取材は直接戦

争に関する記事ではないし、遠藤氏にとっては単なる個人の記録である。

   彼はある脱走兵(?)か退役兵、若しかしたら満期除隊の下級士官例えば伍長か軍曹かも知

れない男に深い興味を持って、この地区に駐屯してからその男に注意している。勿論その男が

何処のどの部隊に所属していた事も本当の姓名も分からない。

   遠藤氏は仕事の合間に色々な隊の人事担当官や関係者に彼に関する何かの情報を得ようとし

たが何も得られ無かった。間違い無く日本人であるその男は、日本から旅行をして来ている筈

は無いしそのような事の出きる時代では無い。

   その前線と云われる地帯は亜熱帯地方で、その男(仮にD君としよう)は軍隊で支給された

下着とズボンのままでいる。遠藤氏は始め土地の巡査に妙な男が闇市の裏道で、タオルに包ま

って寝ている男のいる事を教えられたものである。

   遠藤氏はD君が古タイヤのサンダルを突っかけて、太陽熱の直射を防ぐ為、頭に布切れを巻

いて歩いているのを見た。Dはバケツの水を道路に撒くと闇市の通りへ戻って行った。彼は闇

市の魚を捌いている店へ入って行った。

   店の主人は大笊から買って来た魚を一匹ずつ包丁で切り開けて、腸を取り出しては床に投げ

捨てる。その汚物をD君が拾い上げて水で洗ってきれいにしてから篭にいれる。その汚れた水

を道路へ捨てに行くのである。

   遠藤氏はD君が自転車で生魚を運ぶ所も、また切り裂いて肉だけになった魚を自転車で運ぶ

所も見て居る。自転車の彼に言葉を掛ける土地の人もいてDはそれに土地の言葉で威勢良く答

えて行くのである。

   その後暫くの間、遠藤氏はD君の姿を見掛け無かったところがある天気の良い日に、D君が

道端の市場の人達と並んで店を構えている様子だった。遠藤氏はその1mそこそこの板の上で

タバコとキャンデーを土地の人々に売っている。

   魚屋での仕事は臭いので止めたのかも知れない。それにしても彼の商品を置いてある台は魚

箱を解体した板を利用して作った物である。中々要領良く丈夫につくられている。並べてある

品物も新しく値段も手頃で良く売れているようである。

   D君が何処から如何やってそれらの品物を手に入れたのかは誰も知らない。その後、遠藤氏

は彼を見掛ける度に姿が変わっている。たとえば派手なさっぱりした新しいシャツ、次ぎはス

カッとしたズボンを着ている。

   三週間ばかりして遠藤氏はD君の店の大きさが三倍にも膨れ上がって、時計、計算機、照明

器具から冷蔵庫まで並べて売っているのを見てびっくりした。ぴかぴかの革のサンダルを穿い

てその上店員が二人いてその売り場の仕事をしている。

    写真班は新しく進駐して来た部隊の報道取材にも参加したので、遠藤氏はそのアメリカ部隊

にも出入りしたのでD君の商品の輸入源が分かってきた。さらにD君は商品を入手するだけで

無く、現地の生鮮食料品を部隊に売り込んでいる事も分かった。

   また部隊の倉庫に眠っている品物をD君は安く買い取り、それを道端の商店で土地の人に販

売している。遠藤氏はD君の見事な往復商売は隊の取引窓口である渉外部の担当ヒギンズ婦人

中尉の特別な計らいである事も突き止めた。

   D君は数人の現地の人や若者を社員にしてこの商売の方を任せて、新事業を始めた。その事

業は社員の中にいた最年長のベンドン老人と若い連中が呼んでいる人と始めるのである。その

事業と云うのは夜の仕事でありやや暗い仕事である。

   ベンドンさんは夜の仕事で儲けたい土地の女性を探し集める。D君は隊の兵隊達に夜のお友

達の申込書を配り、申し込みに応じてホテルの入り口に立っているベンドン氏へその紹介状を

わたす。この商売はアレキサンドル大帝の時代から行われた物である。

   兵隊さんは、ベンドンさんにお金を払うとホテル・ルームの鍵を受け取る。そのお金はD君、

  ホテルの部屋で兵隊さんの相手をする女性とベンドンさんに分配される。三人とも満足できる

だけお金が手に入るこの新商売は順調に成長して行った。

   D君は或る日ヒギンズ中尉から,倉庫にプレハブ住宅の使い古しの処理に困っている事を聞か

され、その処置に名案が浮かんだ。D君は村役場へ行って空き土地の臨時使用許可を取り付け

た。昔避難民収容所のあった空き地にプレハブを並べて建てる事にした。

   プレハブは寝室、キッチンとシャワーを設備する。プレハブは入居を希望する女性に無料で

提供する代わりに、家付きで隊の士官に月払いで賃貸されることになる。それでも以外に志願

者が多くて住み込む女性を選考して決めるまでになった。

   U君は隊の将校達に毎月の支払いで女性付き住宅への勧誘をすると、これも以外に応募が多

数で籤引きで割り当てをすることになった。瞬く間に家庭生活の村が出来あがり、そのプレハ

ブ道路には日用品や食料品を売る人達が現れて賑やかな町になった。 

   遠藤氏はD君の転身と実行の早さに驚いていたが、その頃D君はヒギンズ中尉からその部隊

はその内に本国へ引き上げる事を知らされた。D君はプレハブ村とホテルの権利もベンドン老

人に売り渡して、自分は地方へ土着の工芸品を買い漁り始めた。

   それらの工芸品をD君の知り合いである町の指物師の店に持ち込んで、灰皿、鏡、カレンダ

台、住所禄、メモ台などに作り直すよう手直しさせた。見事に出来上がったのからD君はヒギ

ンズ中尉に届けるのであった。

   やがて、進駐してから二年足らずで部隊は本国へ引き上げる時期に近づいた。例の家庭村の

将校達はプレハブの家を離れる。その中には同居していた女性を本国へ連れて行く将校もいた

,殆どの女性はそのまま家に残されて泣いている子、喜んでいる子と悲喜こもごもである。

   兵隊達は本国へ帰るについて土産物としてヒギンズ中尉の店で何かを買って行く。その工芸

品の再加工品も瞬く間に無くなってしまった。遠藤氏はD君とも軽く話をするようになってい

,この辺の様子を見たり聞いたりしてD君の手腕に驚いていた。

   遠藤氏も日本へ引き上げる事になって,荷持つを背負って汽車の停留所の方へ歩いていると、

道端でジープに野菜を山のように積んで土地の人と同じ服装でD君が商売をしている。そして、

彼の側でお金を計算しているのが赤い土地の服装をした婦人将校のヒギンズ夫人であるのには

本当に驚いてしまった。

                                                 (おわり)

 

七日 本日は事変勃発一周年の記念日だそうな。一年立ったのか、そう思うとあの号外を見た

のが成宗の我々にしては豪華な借家時代だった。その頃を思うと口に酸っぱい物を感ずる。経

済状態や環境から彼女の方がどれ程苦労した事だろうと思い回らす。

  軍の病院の兵隊は入院して二三日すると退屈して来る。殊に茲は予備病院だから娯楽機関のよ

うな物は何も無い。その上看護の手も行き届かない。一人の個室に居るなら良いが全病人が一

室の大部屋にいる。

  皆故郷の事でもロマンチックに考えていれば良いが、殆どは軽い妄想狂に掛かっている。大抵

  が女の話しである。(内地の病院ならさしずめ金儲けだろうが)遂に有名な女優の誰々なぞ女

  房にするのは朝飯前だと云う事になる。それが、内地での仕事が隅田川の砂上げ人足だったり、

炭屋の配達人だから面白いよりも涙が出る。

  次に多いのが今迄の戦闘の手柄話である。各別々の部隊から来ている寄り集まりだから、お互

いに詳しい事情は誰も知っていない。だから話しは途轍もなく飛躍するのは仕方が無い。

  十一時に石家荘の日本人夫人会が慰問に来た。支那服を来た妙な夫人が居たが大根足が出て日

本女と直ぐ分ったが、日本の着物の方がよっぽど似合うのにと思った。

  十二時十分前に東方へ向かって黙祷をした。慰問団は一時までいた。それから妹尾君が神の国

の色々な怪談をする。呪の事、魔を払う神事、こごもりの神事など、など。

 

八日 診断日でカルシュウム注射をうたれた。

  昨夜は不思議な血生臭い夢を見る。自分が何かを切りまくっているが最後に自分自身を切る。

彼女も親父も夢の中に出て来る。

 

       進軍十里部落宿舎の紅夕日

       鱗雲紅に染まれば満足りぬ

       夕日なか銃口磨けば血が動く

       引き鉄に爪の先まで精気満つ

 

十二日 夢を見る。大荒れの海に船で何処かへ行く。逆口輸送と称して頭部を低く足を高くし

て運送をする。自分は何とか無事に岸に着くが、残り五六人は死ぬのだと云って今度は舟を櫓

で逆口漕ぎして沖へ向かう。

 

十五日 本日兵站病院へ移転される。日本人の女の顔を久しぶりに見る。白衣の天使と称する

看護婦であるが、何が天使なものか。げっそりするし天使とは勿体無い名称である。

 

十六日 体が非常に疲れている。朝方Y−traume.

 

十七日 雨の中を乗合自動車で石家荘駅まで送られそこで例の貨物列車に積み込まれ天津に向

かう。000駅でビスケットガ配布され、00駅で蜜柑の缶詰が配布される。保定で四時まで

の長い休憩がある。

  夜の十一時に長亭店で停車、国防婦人会のお茶のサービスは有り難かった。蒋介石や南京攻撃

の話しを聞く。南方の歩兵部隊は機械化部隊の援助で北支の戦闘より楽をしているとのこと。

  線路向かいの道路を見て居ると、石油ランプをぶら下げた絽絣を着た婦人が,主人と男の子と

三人線路を亘って社宅(?)へ帰るところなのだろう。その風景は良く内地で見る風景で茲は

異国であることを不図忘れる。

 

十八日 列車が動き出して天津に近づくとあたりの田園風景が日本的である。午前十時に天津

市に到着するが市内の治安維持は完璧で,日支友好の都市の景観である。飛田病院に入院して

久しぶりに畳みの上に小さい蒲団を敷いて寝た。

 

     鈴蘭の押し花に寄せる

    すずらんの押し花きよし

      白くして

    枕元におけば

      白き畑夢見る

 

    すずらんの押し花

      花うなだれて

    しおらし花摘む

      乙女夢見る

 

    すずらんの花畑

      真っ白に

    そよ風わたれば

恋の波する

 

    すずらんの押し花の

      畑でささやきし

    港の波の高く

      白くなる時  

 

 

慰問袋

   兵站部から慰問袋が配られ、兵站部近くで駐屯している時には月に一二回配給されることも

あった。これは戦地の兵隊を慰めるために銃後の婦人会、女子青年団員、女子校生,女子大学

生が送ってくるのである。カーキイの陸軍色をした草履袋のような規格袋であって、中にはキ

ャラメル、氷砂糖,甘納豆,茶巾汁粉などの御菓子、手芸品、ハンカチ、手拭に必ず手紙がは

いっている。

   次ぎのがその一例である。

 

  「勇ましい日本の兵隊さん

   毎日皆様方の御奮戦の模様を新聞やラジオで見たりうかがったりしています。有難うござい

ます。

   私達は、皆様方のお蔭で,毎日無事に学校へいって、何時ものように勉強が出来ます。ただ

何時もと違うのは、先生方のおっしゃる事も、また私達が話し合う事が、みな勇ましい日本の

将士さまのことです。

   私のお友達の殆どには、お兄様がいらっしゃいまして、その殆どの方は兵隊さんなのです。

皆様の中にもお友達のお兄さんもいらっしゃるかも知れません。

   だけど私にはお兄さんもお姉さんもありません。お友達とお話する時に本当に肩身の狭い思

いをしています。お母さんに何故兄さんがいないのかとせめて見ますが、仕方の無い事です。

   私は、戦地にいらっしゃる皆様がみんな私のお兄さんなのだと,自分に言い聞かせています。

  時にはあまり沢山お兄さんがいるようで淋しい事もあります。けれども、一層なつかしい気持

ちがいたします。

   本当に暑い季節ですから、体を大切にして御国のためにお尽し下さい。無事にお勤めなさい

ますようにお祈りいたします。

   八月二十日     洗心高等女学校三年生    大国 益子

   戦線のお兄様」

 

  この慰問の手紙にぎのような返事を書いた

  「お手紙有難う

   今日から,私が貴方の兄にさせていただきます

   チョコレート有難う。銀座の明治屋で君とココアを飲んだろう。何時だったかな。そうだ映

画を見ての帰りだった。明治屋で君は僕にチョコレートをねだったのだ。

   袋のなかにあったお汁粉の缶詰めはうまかった。あれはピクニックへ持って行くといいだろ

う。この次ぎは、お酒の缶詰めを頼む。君の兄はお酒は余り飲まなかったが、たまには呑んで

妹の事を思い出したい。

   石鹸も歯ブラシも歯磨き粉もすべて資生堂のだね。「花椿」と云う雑誌が資生堂から出てい

  たが送ってもらうとなつかしいよ。

   兄さんは00方面から今帰隊したところです。近いうちにまた移動します。本隊へ帰って君

の慰問袋をもらって本当に嬉しかった。

   お手紙には、大変暑いと書いてありましたが、こちらは今春です。慰問袋は一冬越していた

のです。返事が遅くなって申し訳ありません。その内にまた報告します。貴方も体を大切にし

て下さい。

   三月十八日      第百五十一大隊六中隊

   大国 益子様」

 

戦地の報告(次ぎの手紙の用意原稿)

   今、北京北端の廃兵舎にいます。

   西苑と云う地点は事変勃発当時には、新聞で報道されたように盛んに空爆を日本が行った処

であす。我々は前線から遙後方のこの地点に戻って志気を養っているのです。

   廃兵舎は吾が軍によって爆撃された跡が歴然と残っています。敵軍は退却する時には綿密に

跡に何も残さないように完全に焼き払ってから逃げています。ですから、我々には支那の兵隊

がどのような軍隊生活をしていたのか想像がつかないのです。

   我々にはアンペラと毛布が支給され、そこで軍隊の内務生活が始まりました。わたしの寝る

位置の真上に「段鴻祥」と書いた紙切れが貼ったまま残っています。私は細い墨字で書かれた

段と云う兵隊はここから何処へ逃げて今如何しているのだろうと考えました。

   慰問袋の中にあった古新聞の端に乗っていた

     戦争は勝たねばならぬまざまざと 敗国のさま眺めしより

と、云う誰かの歌を思い出しました。

   この西苑の兵舎には二万人に近い兵隊を訓練していたそうです。数えきれない程沢山の黒い

煉瓦で造られた兵舎が並んでいます。兵舎の廻りは同じ黒煉瓦の高い壁で囲んでいます。我々

の兵舎は東端にあって、壁の向こうの故郷を想うのです。

   黒壁の向こう側には、時には現地の子供たちが物欲しそうな顔をして我々を見詰めているこ

とがあります。また、老人が畑を耕すこともあります。あちこちに花が咲く頃なので内地の桜

の花が思い出されます。白い腹をした鳥が群れをなして飛んでいます。

   小川で洗濯をする女の姿もあります。これら大陸の情景を見て居ると、何処で戦争なぞある

のかと想う瞬間があります。しかし、今朝も00隊が前線へ向かって出動いたしました。      

  (四月二日記)

 

  前回の手紙の返事が不思議に届いた

 

  「お兄さま

   お手紙うれしく拝見いたしました。

   お兄さまはきっと面白い方です。とてもお会いしたくなりました。

   そう云えば、一緒に映画へお供したような気もいたします。気がするなんていけないかしら。

   お酒の缶詰めが欲しいのには驚きました。でも、今度はお酒の缶詰めと「花椿」を手にいれて

  送りました。東京ではとっくに花は終りました。今年はお花見には参りませんでした。

   色々な情報とても楽しく読みました。お友達にもお話して聞かせました。私にもお兄さまが

  出来て、此の頃は嬉しいのです。

   お体大切にお務め下さい。

   五月二日                      益子

   お兄上さま」

 

戦地の報告(手紙の返事原稿の続)

 

   私達の分隊は内地から届いた兵器受領の任務で北京へ出かけることになった。しかし、分隊

の半数は別な勤務でいないため、他の分隊の兵を臨時編入することになった。その時別の班の

唐津一等兵がきていたので分隊長が唐津一等兵に同行を命じた。

   唐津君は内地の聯隊で同じ班にいて、広島を出発する時彼の細君とおでん屋でお別れの宴会

をしたのです。彼を含めて十一名がトラックに分乗して寒い四月の北京へ出かけた。

丁度燕京大学の前の四間幅の路を通ると並木が両側に青々と茂っていた。支那の男女大学生

が沢山ゆっくりと散策していた。

   我々のトラック四台は北京停留所へ向かって、軽い砂埃を立てて急いだ。大陸の砂は非常に

微粉で軽く雨が降ると砂が細過ぎて水を吸わないので路がぐしょぐしょと歩きにくいのです。

   郊外の畑を通ると、綿入れを纏ったお百姓がゆっくりとした一定のリズムで鍬を上げ下しし

ている。武装した兵隊が側を歩いても、我々のトラックが通っても、迫撃砲が鳴っても、その

リズムのまま鍬は上げ下しされている。

   畑のなかに黄土で造られた壁が何故か半分崩れている。崩れた壁の黄土に雑草が枯れかかっ

てそれでもまっ黄色な花が咲いている。これは大陸でなければ見られない風情のある景色です。

          (三月三十一日記)

 

四月六日

   手榴弾一本、弾薬、小銃弾や兵器手入れ具を入れた雑嚢、水筒、防毒面と、三日分の米とパ

ン食を主体にした背嚢に、猿臂、軍靴一足、外套,交換用下着類、携帯燃料3個,缶詰め五個,

飯盒、鉄兜、偽装網など全部で二十貫はたっぷりある装備である。

   午前十時に西苑を出発、途中二回の小休止で北京西直面駅に到着した。そこで直ちに満鉄の

貨物車に積み込まれる。馬の臭いのする裏側で荷物を下していると列車が動き出した。私はお

守り袋に磁石をつけていたが暗くてその針は見えない。

   明かり窓のない真っ暗の中を方向も方角も分からない出発である。「京漢線を南下して太原

方向へ向かう」と云うことだけは分かっている。それ以上は小隊長も知らないようである。

   かたんことんと云うリズムに、貨車の中の三十人余の兵隊が引き込まれて何か唄い出した。

軍歌ではなく出征当時流行していた演歌か歌謡曲である。狂気な合唱、殺気だつ混声何重奏の

中にY談の低音が流れる。その内に自然に眠っている。

    眠りから覚めると,貨物列車の空気になれている。その中で食事を取り、腹が張ると寝るので

ある。寝る以外は闇と一尺四方の身の置き所しか無い。唄うのも飽きたししゃべる材料も無く

なった。兵隊達は黙々と眠るのみであった。

   幾日貨車にいたのか知らぬ間に石家荘(シカチュン)へ午前十時頃着いた。この街は本当の

チャイナタウンと云うべき大陸の小都市です。鉄道駅の周囲には黒ずんだ顔をして、汚れた綿

入れ服を纏い黒い布靴を穿いた苦力が大勢うごめいている。

   その苦力達のいる向こうの方に、日本の着物を着た日本婦人が白い襷に「愛国婦人会」 と

書いたのを付けていて、その婦人達は何故ここにいて何をしているのか,考える間も無く私は物

資輸送の使役を任命された。

   貨物列車には、兵器弾薬、食料糧秣、衛生材料、それから何百頭と云う馬、無数の各種砲が

積み込まれている。道路には大きな星のマークの付いたトラックが整列している。

私の分隊は石家荘第0兵站部の広場まで食料糧秣を運ぶのであった。

   午後三時に運搬が終って本隊へ帰った。そこで始めて麦畑の中で食事をするのだった。背嚢

から乾パンをとりだして、氷砂糖とお茶で食事をして,食べ終わると同時に本隊は移動するのだ

った。 

  

  註:これが報告手紙の原稿で、果たして軍事郵便で内地まで送られたかどうかは分からない。

かなり,地名や軍の内情が書いてあるので没にされた可能性もある。手紙の返事も来ないの

,始終駐屯位置が変わって所謂住所不定だから、戦地での往復文書の交換はスムースに出

来ないのが常識である。

                                         おわり

 

 

 

  参考試料

 

毛沢東と当時の中国

  Mao Zedung(1893−1976)

  1893 明治26年  湖南に生まれる

  1921 大正10年  第一回中国共産党会議に参加

  1934 昭和9年   長征に出発

  1949 昭和24年  中国共産党設立、党首となる

  1958 昭和33年  大躍進

  1966 昭和41年  文化大革命

  1974 昭和49年  Nixon大統領と会見

  1976 昭和51年  死亡