江口克彦著「地域主権型道州制」の要旨(6)
道州制実現推進委員会副委員長 岡部 俊雄
生活者通信2008年2月号でPHP研究所江口克彦氏著の「地域主権型道州制」について、道州制実現推進委員会の平岡委員長が感想を述べました。道州制実現の推進は当会の二大目標の一つであり、また、この本の内容は我々が持っている問題意識や、考えていることとほぼ同じです。皆様にはこの本を是非ご一読頂きたいと思いますが、お忙しい方のためにその要旨を10回くらいの予定で連載しています。
(6)いかに国が地方をコントロールしているか
相反する二つの原則
地方自治の理念には、「自治の原則」と「均衡の原則」という相反する二つの原則がある。
「自治の原則」とは、地域的な行政サービスは、地域の自己決定と自己負担の原則に基づいて供給されるべき、と考える理念である。この「自治の原則」を貫徹した場合、税源が地域によって偏在しているため、各自治体のサービスレベルが異なってしまう。その結果、住んでいる場所を変更しない限り、不利益をこうむる住民が必ず生じるという問題が出てくる。
一方、「均衡の原則」とは、国民は居住地にかかわらず同一水準の税負担で、同一水準のサービスを享受できるようにすべき、と考える理念である。ここで生じる問題は、まず、各地域によって異なる行政需要に対して、画一的なサービスしか供給できなくなる点である。また受益と負担の関係が曖昧になることによって、住民は費用のことを考えず、次々とサービスを求めるようになり、行政側も無用のものを供給し、その結果財政が破綻する恐れが生じるのである。
「自治の原則」より「均衡の原則」
それでは、日本における国と自治体の関係はどのように評価できるのか。
一言でいえば、「集権的分散システム」と表現できよう。自治体は非常に多くの仕事をしていても、その仕事のあり方についてはほとんど国が決めており、自治体が自分の裁量で決めているものは少ないということである。二つの原則の観点からみれば、「自治の原則」より「均衡の原則」が重視されているといえる。
自治体は国の「下請け企業」
もう少し仕事とおカネの視点から、国と自治体の関係をみてみよう。
まず、仕事の面についていえば、地方分権一括方が施行されたことによって、国と自治体の仕事の関係は新たなものになったが、現実的にはそれほど大きな変化はない。これについてはあらためて次章で述べるが、自治体は国の「下請け」仕事が非常に多かったのである。
自前でまかなえない自治体の財政
次におカネの側面から国と自治体の関係をみてみよう。
我が国の特徴は、自治体の歳出規模が大きいにもかかわらず、自前の税収の割合は他国に比べて非常に少ないことである。その理由は、自治体は歳入の自治が制約されており、自分達の歳入の規模と内容を自己決定できないことである。
国が決めている地方税
地方税は自治体の財源であり、税目や税率は本来それぞれの自治体が自由に決めるべきものなのだが、現実には国会が決めた地方税法によって細部まで定められており、自治体による自主裁量権はほとんどない。
自治体の課税自主権を拡大すれば、地域によって受益と負担に大きな差が生じ、「均衡の原則」が破られるということで、国は自治体への制約を行ってきたのである。
「貧乏」自治体に配られる地方交付税
地方交付税は広い意味での補助金であり、国と自治体および自治体間の財政調整、そして自治体に対する財源保障という二つの機能を担っている。
基本的な仕組みは、国から自治体への財源を国が国税として集め、各自治体の財源不足額に応じて交付している。簡単にいえば、国が国全体からおカネを集め、「貧しい」自治体にそれを配分するシステムである。
この地方交付税は国税の一定割合を財源としているため、全体の交付税額は国の予算で決定される。これに対し、自治体にそれぞれ分配する交付税の額は、基準財政需要額から基準財政収入額を引いた額からはじきだされるが、その合計が国の予算と一致することはほとんどなく、自治体に交付される額は国が一方的に決定し、自治体側がその決定に公式に参入し、いろいろ意見を述べることは、現時点においては不可能となっており、自治体の意見がほとんど反映されない。すなわち、地方交付税についても、自治体は国の言いなりにならざるをえないのである。
無駄と利益誘導を招く国庫支出金
国庫支出金は国と自治体が協力して事務や事業を実施する場合に、一定の行政水準の維持や将来の施策を奨励する手段であって、財源確保や財源調整を目的とする地方交付税とは性格が異なる。
この国庫支出金には五つの問題がある。
一点目は、国と自治体の責任の所在が不明瞭になること。
二点目は、交付を通じた国の関与が、自治体の自主運営を阻害していること。
三点目は、細部にわたる補助条件や煩雑な交付手続きなどが、行政の簡素化、効率化をさまたげていること。
四点目は、国レベルでヨコの調整がほとんど行われないため、タテ割り行政の弊害を招き、総合行政をさまたげていること。
五点目は、いわゆる陳情の対象になりやすく、利益誘導を招いてしまうことである。
地方で自由にならない地方債
地方債は自治体が行う借金である。
この起債については、一括法によって許可制から原則協議となり、制約が多少緩和されたが、日本の自治体は仕事の面でも、財政の面でも国からさまざまな制約を受けており、自由に自分の裁量で政策を打ち立て、行政サービスを供給するといった状態にはない。
地方自治とは名ばかりで、財源を政府にここまで押さえ込まれれば、地方の活性化など生まれるはずはない。
儀式化してしまった地方議会
こうして国からコントロールされてきた自治体のすがたは、いったいどうなっているのだろうか。
まず議会からみてもよう。現在の地方議会は首長の政策を口先で批判するだけの機関になっている場合が多い。
さらに注目すべきが、議員を選ぶ選挙が形骸化していることである。約30%の市町村で選挙が行われていないという状態である。
また、戦後民主化のなかで、アメリカをモデルとして導入された審議会制度も形骸化している。
なぜこのように議会や審議会が形骸化し、あるいは軽視されているかといえば、自治体の仕事の多くが国からくるものであり、自分たちで自由に決められる範囲が狭く、議会や審議会が力を発揮できる状態にないからだ。
中央集権体制が強くなりすぎて、地方議会のやる気を失わせているのである。
経営能力が欠落した地方行政
それでは地方の行政府のほうはどうか。まず、政策立案能力については、これまで国が政策設計を行い、自治体にはその実施という機能がゆだねられてきたために、現在の自治体の多くは、みずから政策を作り、責任をもってそれを運営していく、という能力を十分に発揮できずにいる。とくに小さな自治体でこうした傾向が強くみられる。政策能力を高めようとすれば、最低一人一職制の規模が必要であり、この観点からいえば、最低でも10万人規模の自治体が必要となる。
ただし、もっと大きな要因は、自治体の規模というよりも、国が政策をつくり、自治体はただそれを実施していくという状況が長く続いたところにある。
ここ数年にわたって市町村合併が進められ、自治体の規模が拡大した。しかし、各自治体では拡大した規模を有効に使い、行政の効率化をはかろうという動きがあまりみられないし、大合併の効果に対する不満の声もよく聞かれる。もし税財源と権限の大幅な移譲が実現され、条例制定権の拡大がなされていれば、こうした不満は出てこないし、平成の大合併はそれなりに納得のいくものになっていただろう。