国籍法違憲判決の意味するもの─混合診療裁判への暗示
神奈川県藤沢市 清郷 伸人
1.最高裁大法廷の判決とその評価
6月4日、最高裁大法廷は父母の婚姻を国籍取得の要件とする国籍法の規定を違憲とし、結婚していないフィリピン人の母と日本人の父の間に生まれた10人の子全員の日本国籍を認めた。家族観の変化や親子関係の多様化という近年の社会背景を考慮したものという。
この判決には2つの判断がある。国籍法の3条の一部が憲法14条法の下の平等に違反するという判断と、国籍法の改正を待たずに原告全員の国籍取得を認めるという判断である。後者の判断については、二審の東京高裁で、原告の請求は裁判所が国籍取得の要件を立法することになり、許されないと門前払いで逆転敗訴となったものである。
ここは評価の難しいところで、毀誉褒貶真っ二つである。私の素人評価では、法に明確な違憲という瑕疵があり、現に国籍という人間の基本問題で困窮している多数の人がいる場合は許されると思う。法は人間のためにあるわけで、慎重な最高裁がよくぞここまで踏み込んだと高く評価したい。
司法が立法や行政に謙虚であることは三権分立の基本だが、それは立法(大部分を占める行政立法や少数の議員立法を含め)や行政が国民本位の正しいフェアな原則に貫かれていることが大前提であり、それを外れれば司法によって指弾されるのは当然である。
一方で専門家による評価は分かれている。肯定的な評価は例えば次のようなものである。
「違憲判断に加え、国籍の取得を認めて直接救済したことも画期的。非嫡出子と嫡出子の相続格差を合憲とした従来の最高裁判例にも影響が及ぶ。国は判決を踏まえ、家族関係の法律全般の改正に入るべき」(二宮周平立命館大教授)。そしてこのような前例を覆す画期的な判断の場合、必ず出てくる否定的な意見がある。その代表は悪い仮定、憶測による想像を呈示して、判断の積極的な価値を覆い隠すことである。「伝統的な家族観に反する問題の多い判決。国籍付与には立法が必要で勝手に条文を読み替えるのは行き過ぎ。この判決で、金銭目的の偽装認知が広まると危惧される」(百地章日大教授)
2.判決の意味するもの
国籍法の規定とは国籍を取得できない本人の努力ではどうにもならない出自、親の地位に基づく規定である。そしてわが国にはこのような本人の責任ではない不合理で、無意味な規定や差別が法律だけではなく社会に、すなわちわれわれの意識に色濃く残っているといえる。それは出生や入学や就職、婚姻や部屋賃借など人生の重要な局面あるいは来日の留学生や移民や労働者の一部の人の痛感するところである。
ある意味それも当然で、われわれは出自や親の地位が幅をきかす封建時代を脱してまだ140年にしかならないのである。欧米が本人の出自より努力に、すなわち「is」から「do」に価値を転換して数百年経つのとは歴史が違う。経済力だけは欧米に追いついて、今や先進国としてサミットなどの常連となっているが、真に近代的で民主的な価値観を共有しているかは疑問である。認められているのは経済力だけで、社会はむしろ前近代的、偽民主的なアジアに属すると見るのが公平であろう。二世議員の多さはまだ封建的な擬制の名残とさえいえる。さらにその経済力さえ疑問符がつく。高まる株式持ち合いや遅れる情報公開などに示される企業ガバナンス、甘い独禁法や不正の多い証券市場などに覆われた市場規律、円安誘導による内需軽視、外需頼みの経済政策は日本がまだ途上国並みで前近代的、偽民主的なアジア圏を脱していないあらわれである。
産業再生機構の専務だった冨山和彦氏は日経ヴェリタス5月18日号の「異見達見」で、今わが国で問題となっている格差について次のように述べている。日本が国際的な市場経済社会へと改革の舵を切っていくとき、格差は必然的に生じるが、改革をしないで現状に滞っていることによって温存される反市場的格差の方が日本をはるかに衰退させ、次世代の希望を奪うものとなる。冨山氏の発言は「is」の価値観にとどまるか「do」の価値観に痛みをこらえて進むかを問うているのである。
3.混合診療裁判への暗示
この判決は、私の裁判に対し、2つの点で暗示的である。
まず国籍法の規定が違憲とされた根拠に、憲法14条の法の下の平等を掲げた点である。国籍という日本で暮らす国民の権利と義務を決定する最も基本的な要件に対し、軽々とその価値を毀損する行為は許されないとする司法の最高判断である。
私が裁判で求めている判断もこれと同様である。国民皆保険で保険料を税金と同じように強制徴収されていることは医療において被保険者は国籍法における国民と同様の地位にあるとみなされる。保険外の治療を一つ受けただけで患者がすべての保険給付の権利を失うということは、たとえば一つの罪を犯した(保険外治療は犯罪ではないが)だけで国民が国籍を失うことに等しい。これは健康保険法という法の下での平等を毀損するものである。すなわち混合診療だけで患者の保険給付権をすべて剥奪するという国の法解釈は明確な憲法違反である。
次に、判決に対する評価において暗示的である。混合診療における健康保険受給の地位確認訴訟という長い名前の一審判決は、健康保険法には混合診療で保険給付をしないいかなる根拠も見いだせないとした判断である。この場合、法に瑕疵があるわけではない。行政の保険給付をしない法解釈が違法だとしたものである。しかし立法への違憲判決を示した最高裁と同様、司法の国家権力に対する異議判断という意味で、権力の暴走を国民のために停止させるという民主国家における司法の機能を果たしたといえるものである。
この一審判決に対し、予想通りあらゆる所から反論の火の手が上がった。それらはほとんど国籍法判決と同様の悪い仮定と憶測による想像を展開したものに収斂される。病院や医者が高価な自由診療に患者を誘導する、患者が有効性や安全性の不確かな実験的治療のモルモットにされる等々。
そういうケースが絶無とはいわない。しかしそれは医師の人間性や市場原理による健全な淘汰を無視した極端な空想の上に築かれた暴論である上に、なにより死に瀕した重病患者の治療選択権、生命の自己決定権という憲法25条に保障された生存権を奪うものである。ほとんどの重病患者は自己決定の手足を縛られ、何もできずに死ぬくらいなら信じる医師の提案する先進的、実験的治療で倒れる方を選ぶ。「is」の死よりも「do」の死を望む。死を見据えた患者が世間でいうほど愚かでもなく、ひ弱でもない姿を私は見てきた。
国籍法の判決は否定的な想像を超えて、国家社会の公正という大局観に立って、人間の幸福への機会を一歩進めたものである。混合診療裁判においても同様の判断を切に期待したい。
(2008/06/24)