21世紀日本の世代革命─若者による価値転換
神奈川県藤沢市 清郷 伸人
1.新世代からのメッセージ
少し前、NHKテレビが最近の若者の傾向という特集で、次のように述べていた。最近の若者は、車や酒に興味はない、出世にも無関心、一流会社もすぐ辞める、ブランド品に執着はない、自宅でITやAVを楽しむ、年金はないか、少ないと見通し、貯蓄という自己努力しかないと見ている。ここで取り上げられた若者はおそらく20代前半くらいだと思われるが、いくつかの特徴は30代になってもおそらく変わらない。
私はこのなにげないコメントに衝撃を受けた。ネガティブなものではない。「新しい日本人の誕生」ともいうべきポジティブな衝撃である。私はこれから21世紀の日本に拡がっていってほしい新世代による価値転換の革命を語る。
2.現代日本における若者の惨状
最初に現代の日本で、20代から30代の若者がどういう状況に置かれているかを概観する。20世紀末、ギャンブル経済の欲望に狂った大衆社会と産業界は痛烈なバブル崩壊の洗礼を受け、未曾有の不況に突入した。その結果、1992年から2005年まで14年の長期にわたる就職氷河期が若者を襲った。さらにその間、企業救済のためいくつかの労働法制が改定され、大企業にまで非正規雇用社員、派遣社員、請負社員の大量輩出を見た。その数は現在、雇用労働者の3分の1の2000万人近くまで達している。そしてワーキングプアや日雇い派遣といった悲惨な社会格差問題を引き起こしている。巷間、社会格差は小泉改革で生まれ、拡がったようにいわれるが、間違いである。むしろ小渕内閣による企業救済策、労働法制改定が企業を極端な労働コスト削減に走らせ、その結果、生じたものである。雇用環境、労働環境の劣化は、大勢の過労死や自殺を生み、家庭の崩壊を招いている。
一方で少子化する若者の未婚率上昇、非婚化加速がいわれている。さらに結婚しても子供を持たないDinks(Double Income No Kids)や一人っ子家庭の増加が指摘される。それはもちろんさきほどの雇用状況、収入とパラレルだが、それだけが原因ではない。日本社会の老人世代への手厚さに対し、若年世代への冷遇があまりにひどすぎるのである。政治はすでに選挙における老人票の高率と若者票の低率を見据え、老人のご機嫌しか見ていない。経済も証券界はじめ1400兆円金融資産のほとんどを握る老年世代を向いている。国家予算に老人関連の占める手厚さに対し、若年家庭の教育、育児関連予算はほとんど自己責任に放置されているといっても過言ではない。さらに健康保険に至っては子供や若者や勤労者の給付分が削られ、膨大な給付が老年世代に注ぎ込まれている。現役世代を苦しめる保険財政の悪化、圧迫は増え続ける高齢者によってとどまる事を知らない。
さらに若者の置かれている惨状の一つに絶望的な国家財政がある。戦後の私欲腐敗政権と官僚帝国主義の継続によって築かれた公的債務、国の借金は返済不能のレベルに達し、いまだコントロールされることなく、垂れ流し続けている。若年世代を押しつぶす国の借金はやがて個人の金融資産を狙うかもしれないし、その前に円預金は財政破綻によって紙くずになるかもしれない。こんな財政規律のない国家の年金設計など誰も信じないし、年金がもらえると思う方がおかしいだろう。すでに財政破綻した自治体の惨状は、明日の日本の姿かもしれない。年金崩壊は今すぐ若者を襲うわけではない。しかし、じわじわと若者の活力と希望を奪っていく。そして若者の生活や人生に影を落としていく。
またゆっくりとして目立たない動きだが、地球環境の悪化も若者に無意識のうちに影響を与えている可能性がある。20世紀の若者の危機は戦争であり、核兵器だった。しかしそれは国家指導者の知恵で防げたし、せいぜい地域紛争にとどめることができた。ところが21世紀に入って、世界は地球温暖化による環境変化が最大の危機との認識を共有する。しかし20世紀の経済成長至上主義からの訣別ができないままで、いくら対策を話し合っても結論は出ない。もうすでに前の環境レベルにまで引き返せない臨界点を過ぎたという科学者もいる状況で、その被害をまともに受けるのは、地域を問わず世界の30代以下の若年層である。しかし危機をつぶやくかれらの声は、決して政策決定者たちには届かない。せいぜい戦争の悲惨と地球の悲鳴をロックにのせて歌うくらいしかない。
3.新しい日本人の誕生
現代日本の若者が遭遇している惨状を考えられる限り取り上げたが、それでも語り尽くしているとは思わない。その中で、報道番組に現れた若者像に、なぜ私が新しい日本人の誕生を見たのかを語る。
車や酒、ブランド品に興味を示さず、出世や一流会社にも価値を見ず、年金も信じず、家で自分の趣味を楽しみ、自分の預金で将来に備える─ただこれだけのことだが、これが世代の価値観となると日本を変える潮流となる。
かれら若者は胸の奥で何を考えているのだろう。日本社会という大きなわかりやすい対象への怒りか。多分そうではなく、虚しさ、無力感ではないか。自分の今日、明日への虚しさである。今までの世代が持てた若さ、未知数ということへのワクワクするような躍動する価値観から一切拒絶された無力感である。かれらの手足をもぎ取ったのは、20世紀の世代である。莫大な次世代への借金、ズタズタにされた年金に代表される未来への絶望感、汚れきって生物が絶滅していく地球、ITに夢中になり、宇宙に浮かれている目的を見失った科学技術、家庭を顧みずに働き、疲れ切った姿を子供に見せる父母─こんな社会を渡される若者に希望などない。
かつての若者は社会に抵抗運動や組織行動で反撃したが、かれらは違う。かれらの反撃は、静かな価値転換である。かれらは消費や権力、能力に価値を感じず、家庭や会社に情熱を持てず、政治も組織行動も信じない。大量生産、大量消費の産業構造、残業過労の職業環境と母子だけの家庭環境に代表される社会秩序、そして一党政治と官僚組織のもと集団で達成した経済大国を維持するという価値観を受け継がない。
私はそこに物と経済のみが肥大化し、個人の幸福という社会の原点を忘れた、いびつな日本社会に突きつけられたメッセージを感ずる。この新しい人間像は、明治の富国強兵主義から現代日本の経済成長至上主義に続く価値観を否定する。さらにその上に、かれらは現代の窒息する地球が発する警告を、どの世代よりも敏感に感じている節がある。かれらの高未婚率、非婚化、少子性向は、地球の先の見えない、困難な環境に、無意識に適応しようとする自然な動きなのかもしれない。
4.世代革命─20世紀価値の転換
21世紀のこの世代革命は、20世紀的な暴力や集団行動によるものではない。ニーチェのいう真の革命は鳩の足取りでやってくるという価値転換である。新しいニヒリズムともいえる価値転換、しかしそれはイデオロギーではない。イデオロギーなど20世紀の老人の玩具である。
新しい価値を語る前に、20世紀日本の代表的価値を点検する。日本は農耕型DNAを持つ単一民族社会で、横並びの画一的価値観を共有して、日本村や会社村という組織の老齢のボスとお上といわれるエリート官僚に率いられ、目先の利益を夢中で追いかけ、時には大きな失敗もしたが、米国という超大国の庇護のもと、とにかく豊かで安全な国を手に入れた。それは農耕型の伝統的価値観と富国強兵型の集団的価値観が融合して、アジア型近代国家が誕生したともいえる。そこでは、人間は生まれてから競争が始まり、偏差値を上げ、ブランド校に入り、大会社に就職し、激しく働き、出世して金持ちになる。家庭は母子家庭のようでも黙って堪える。世間を騒がす離婚や犯罪など起こさず、家庭円満という評判を守る。過去と現代、地方と都会で程度の差はあるが、基本的にこの価値観は揺らいでいない。
21世紀新世代の価値観は旧価値観をひっくり返すというよりも溶解させる。まず新世代の最も大切なものは、個人としての自分と自分の幸福感である。学歴、会社、組織集団、労働、家庭、血縁、資産、無意味な秩序などというものは神聖でも絶対的でもなくなる。適当に学び、そこそこ働き、一人か気の合う友人と趣味を楽しみ、結婚や子供も無理せず、ある程度預金して、人生を過ごす。
このような現象を革命と評するのを理解してもらうのは難しいだろうが、地球が窒息し、人口が半減し、経済も縮小していく21世紀以後の日本社会に適応するためのこの価値転換は、実は恐ろしいほどの変化、変動を伴う革命と思う。
この価値転換がソフトに進むには世代間の融和が不可欠で、例えば米国の老人が新型インフルエンザ接種の優先順位を自分たちから幼児や若い世代に譲ったような精神が、日本社会のあらゆる場で求められる。健康保険給付や年金給付で、既得権者である高齢者が若い世代のために少しは譲るとか、政治や行政が、老人から若者に軸足を移すといったことが求められる。