通貨は誰のものか(2)−政府貨幣発行論−
東京都文京区 松井 孝司
リーマン・ブラザーズの破綻で始まった金融危機は世界的規模となって、ヨーロッパの銀行だけではなく米国のシティー・バンクやバンク・オブ・アメリカまで公的資金を受け入れ、公有銀行になりそうだ。
銀行が公共財である通貨を私物化し、投機や利潤追求に奔走することは好ましいことではないので、銀行を国民の監視下に置く公有化は歓迎すべきことである。
しかし、今回の世界大不況をもたらしている信用収縮の規模はあまりにも大きく、金利の低下や銀行の公有化だけでは、経済大不況は克服できない。
ロシア政府は基幹産業を担う企業を再度公有化しようとしているが、市場経済は否定していないようだ。21世紀の資本主義は大きく変質し、世界は中国が先鞭をつけた社会主義市場経済を模索することになるのだろうか?
大規模な信用収縮には大規模の信用創造で対処すべきで、中央銀行によるハイパワードマネーの拠出が不可欠と思われる。日本の長期に亙るデフレ経済は間違いなくハイパワードマネーの不足が原因であり、マネーサプライを増やすため、脱藩官僚の高橋洋一氏は25兆円の政府紙幣発行を提案している。
政府紙幣25兆円、日銀の量的緩和で25兆円、さらに「埋蔵金」25兆円を活用し、「デフレ経済と大不況を克服せよ」という提案である。これに賛同する国会議員も居り、田村耕太郎参議院議員らも50兆円規模の貨幣発行を提案している。
政府貨幣の発行は奇策で、詐欺師が発行する「円天の類いだ」とする意見もあるが、返済の当ての無い国債の大量発行を繰り返すことこそ、詐欺的行為とみなすべきだろう。その点、貨幣発行は返済の義務がないし、インフレの危険性や貨幣価値の下落も、あらかじめ予見できるので国民を騙すことにはならない。
米国FRB議長のバーナンキやノーベル賞受賞者のスティグリッツ・コロンビア大教授も紙幣の増刷に賛同しているという。
米国はドル紙幣の増刷を繰り返してきたし、日本でも政府貨幣の発行は過去に実績がある。日本は対外的には巨大な債権国であり、円高の時はインフレの危険性も少ないので、政府貨幣発行を拒否する理由はない。
但し、政府が発行する兌換性のない貨幣は国民の信用を担保とする国民共有の財産と考えるべきで、貨幣をどうのように配分するかが問題になる。ヘリコプターで空から平等に貨幣をバラ撒くことが最も公平な分配方法で、今話題の定額給付金の配布方法はヘリコプターマネーそのものだ。大量の貨幣をバラ撒けば、デフレ経済などいっぺんに吹き飛ばすことができるだろう。
しかし、2兆円規模のヘリコプターマネーでは景気回復に役立たないことを賢明な国民は見抜き、多くの国民がこの配布方法には反対している。
また、車が通らない道路やダム工事のような公共事業に巨額の資金を投入することも愚策である事が実証されている。
日本政府は過去20年間巨額の公共投資を行ってきたにもかかわらず、資金の無駄遣いでGDPの拡大には期待した成果を挙げることができなかった。
政府の公共事業は既得権益を持つ特定の利権集団に資金が流れ、期待される付加価値を生まないことが多い。ケインズ流の財政政策を成功させるためには、ハーベイロードの前提(賢明な政府)が求められる。
学ぶべきは幕末の島津藩が発行した琉球通宝や明治政府が発行した「太政官札」発行の経緯である。
500万両という途方も無い規模の借金を抱えていた島津藩は、幕府から琉球通宝発行の許可を得て貨幣を大量に鋳造し、この資金を産業振興と琉球交易のために使用し、藩の財政再建と明治維新で活躍した人材の育成に成功している。貨幣を媒介とするグローバルな交易が産業に付加価値をもたらしたのだ。
注目すべきは貨幣鋳造のため寺院から梵鐘や仏具を召し上げたことである。島津藩における廃仏毀釈は仏教を弾圧するためではなく、付加価値を生まない資金の流れを絶つための手段だったようだ。民衆疲弊の悲声なく人気はすこぶる盛んであったという。
島津斉彬は「農業と工業と教育が行き届かなくては、蔵にいくら金銀をつんでも富国とはいえない」と述べている。貨幣の発行は簡単だが、貨幣を有効活用して付加価値を創造するには知力を備えた人材の育成が欠かせない。
明治の初期には金が大量に海外に流出し日本国内の通貨量が激減し、深刻なデフレに陥っていた。明治新政府は由利公正の提言で「太政官札」という政府紙幣を発行し、資金不足を補った。明治初期には租税制度が確立しておらず政府収入のうち約46%が紙幣発行により調達されたという。西南戦争の巨額の戦費を紙幣の増発に頼ったため明治10年以降インフレーションを引き起こし、増税と政府紙幣の回収でインフレを強引に抑えたため農産物価格は43%も下落し、松方デフレで多くの農民と地主が苦しむことになった。土地を捨てて夜逃げする農民さえあった。
西郷隆盛は遺訓で「税金は少なく」、「政府は収入の範囲内で運営すべきこと」を強調しているが、明治政府は「政府が必要とする資金を国民から強引に搾り取った」のである。増税とデフレで苦しむのは常に「官=Tax Eater」はなく、「民=Tax Payer」である。
政府貨幣の発行で信用が拡大できれば、デフレ経済は簡単にインフレに変わる。資金供給によるインフレへの誘導は易しいが、インフレを阻止するための迅速な資金の引き上げは技術的にも政治的にも難しいことが問題だ。
政府に貨幣ではなく国債で資金を調達させるのは、借金が財政規律を守るための歯止めになることを期待しているのである。
殆どすべての政府が肥大化する傾向があり、一旦拡大した政府組織は利権集団となって経費節減、組織の縮小には反対し、大増税で問題を解決しようとする。
したがって、肥大化して借金漬けとなり信用を失った政府が貨幣発行の母体となることは避けた方がよい。資金を浪費する大きな政府がインフレ時の貨幣の回収を難しくするからである。パイパーインフレを防止できなかった政府の数は歴史上枚挙にいとまがない。
政府の肥大化、「官」の支配を避けるために、政府とは別組織の信用力のある公有銀行が、国民に代って信用創造の役割を担うことが望ましい。
発行する貨幣の価値を維持し、インフレを防止するためには、信用創造に見合う付加価値の創造が必要である。貨幣の供与先は「官」ではなく「民」のTax Payerを優先すれば、民間における付加価値の創造がGDPの増大をもたらし、税の自然増収の形で貨幣が回収され、インフレは防止できる。
世界各国の通貨の交換レートが下落するなかで、日本の円だけが独歩高になったのは、日本銀行の通貨管理策に原因がある。
生涯を通じて市場経済の優位性を説きノーベル経済学賞を受賞したハイエクは「貨幣発行の権利を、政府・中央銀行だけに独占させることは、社会の利益にならない」と述べているが、中央銀行には「民」の知力、自由度と信頼性、機敏性が求められるのである。
世界不況と円高で日本経済を支えてきた物づくり産業と輸出産業は壊滅的な打撃を受け、軒並み赤字決算に転落してしまった。
円高が続けばTax Payerとして貢献してきた物づくり産業は崩壊するか、または海外に脱出し、国内における雇用の大幅な減少は避けられないだろう。
日本が物づくり立国の伝統を維持するには、デフレ経済の克服と円高の是正は緊急の課題である。
日本銀行は国民の信託に応え、2〜3%のインフレターゲットを設定して、デフレ経済の克服と円高是正のため日本銀行券の大増刷に踏み切り、ハイパワードマネーの供給を断行することを期待したい。