新しい闘いの始まり
政権交代が実現した。
戦後長きに亘った55年体制を引きずったままの自民党政権が国民の手によって、選挙によって終焉した。我が国の歴史に残る快挙である。
この55年体制という政治体制は、戦後の、追い付け、追い越せ、という多くの国民の願いをバックにして、政界と官僚、そして財界との間に、絶妙で、強固な三角関係を作り上げた。
この体制とそれによって実行された政策は、多くの国民の支持を得て、奇跡的な戦後の復興と、高度成長を成し遂げた。
振り返れば、私自身、追い付け、追い越せ、の波の中にあり、あるときは波の先頭に立っているような高ぶりで、政界とも、官僚とも、財界とも協力していた時があったように思う。
そして、この流れが何時までも続くのではないかと、政・官・財共に思い込んでいた矢先に、オイルショックがあり、バブルがはじけ、そして、止まることのないグローバリゼーションの波に飲み込まれてしまい、従来の羅針盤が全く機能しなくなってしまったのである。
本来ここで、新しいグローバリゼーションの流れの中での我が国のあり方を真剣に議論し、舵を切るべきであった。
財界はさすがに敏感で、グローバリゼーションの流れに対応して、いろいろな動きを始めていたが、長きに亘る55年体制の中で、経済成長の分け前を広く配れば済むという湯に浸かりきっていた政界と官僚は、何かを感じつつも、新しい羅針盤を作ることもせず、居心地の良い湯に今日まで浸かり続けてきたのである。国民の中には、政界や官僚のやり方を変えなければならないという気持ちが次第に醸成されてきていたが、残念ながら変えるための選択肢を作るまでには至らなかった。
そして、今回の総選挙で、選択肢を作り得た国民が、先ず政界を、居心地良く浸かっていた湯船から引きずり出したのである。
当然のことながら、政界には試練が待ち構えている。湯船から出て来た新しい政界、すなわち民主党中心の政界は、簡単に風邪を引くようなことがあってはならず、強靭な体を作り上げ、次なる大仕事に取り掛かり、実行してもらわなければならない。
それは、未だに居心地良く湯に浸かっている官僚を湯船から引きずり出すことである。
これは、容易なことではない。
自民党中心の政・官・財の関係は鉄の三角形と言われてきたが、この三角形の実態は官僚を頂点とする三角形で、全てのことが、官僚が作ったシナリオで動いており、政界は地元の要望を官僚に伝え、財界は自分たちの利益になる政策を官僚に要望し、官僚がそれらに応えてくれる見返りとして、政界と財界は官僚に居心地の良い場を与えてきたのである。
実はこの官僚中心の鉄の三角形が出来上がる以前から、わが国は官僚中心の社会であった。武家社会がそうであり、明治維新後もそうであった。
近いところでは、あの太平洋戦争である。わが国ではこの戦争の、国としての総括が未だに行われていない。東京裁判があり、平和条約が調印され、村山談話が発せられても、それらは全て儀式であり、国としての総括は何も無い。それに引き換えドイツでは、全てはナチスという暴力的政党の台頭と、その主導にあるとし、再びそういう間違いが起こらないような諸制度を確立してきており、近隣諸国もそれを評価している。
何故わが国では先の大戦のことが総括されないのだろうか。
それは、先の大戦は官僚が主導した戦争だからである。
軍部という官僚が、無力な政界をないがしろにして、思うが侭に進めた戦争である。
そして、今でも言われている「官僚が間違いを犯すことは無い。後日になって、そうしなければよかったということになっても、その時点での判断は正しかった。」という「官僚の無謬性」といわれる現人神のような概念は今日でも連綿と受け継がれ、あらゆる場面で頭をもたげる官僚の中にある強烈で、傲岸不遜なDNAである。
官僚が主導した先の大戦を、「官僚の無謬性」のDNAを受け継ぐ官僚中心のわが国が、総括できるはずがないのである。
戦後、民主主義が導入されて半世紀以上も経過しているので、民主主義の本来の姿である、「国民→政界→官僚」の関係が当然確立されていて然るべきである。このうち「国民→政界」の関係は、選挙という制度のおかげで、何とか形を整えつつあるが、もう一つの「政界→官僚」の関係は、政界が力不足であったことと、官僚が傲慢であったこととが相まって、未だに「官僚→政界」のままである。
卑近な例が、官僚による「憲法第15条2項」のあきれるばかりの解釈である。
そこには「すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」と書かれている。この条文を、官僚のトップは「官僚は国民全体の奉仕者である。従って、一部の国民を代表しているに過ぎない政党に従属する必要は無い。政権が変わっても官僚の考えや、やり方は変わらなくても良いということだ。」と今でも平然と公言している。
これは、民主主義の全否定で、よくもここまで傲慢なことが言えるものだと、あきれるばかりである。
政界の言うことを聞かなかった軍部という名の官僚と同じではないか。
この、官僚トップの発言に、勿論政界は反論し、否定しているが、実質的に官僚の下部機構になっていた今までの政権は、言葉では反論しても行動を起こすことができなかった。
これが、官僚を居心地の良い湯に何時までも浸からせ続けていた原因である。
国民の手によって湯船から引きずり出された新しい政界は、今度はこの官僚を湯船から引きずり出すという大仕事を実行し、実質的に「官→政」になっている現在の関係を、名実ともに「政→官」の関係に構築し直してもらわなければならない。そして官僚の全ての行動を、常に国民の目線に立たせ、国民から預かった税金を、国民のために如何に有効に使うかという倫理観に徹しさせ、同時に、官僚は国民から選ばれた政界のコントロール下にあるのだということを体の芯まで認識させなければならない。これは、民主主義国家では本来当たり前のことであるが、官僚の中に強烈に植え付けられているDNAと、長きに亘りそれに従属してきた政界にとって、並大抵の仕事ではない。まさに、官僚との闘いの始まりである。
しかし、民主党はそれを実行する旨をマニフェストに書いた。それは国民との約束である。国民はその実行に期待をかけて民主党に投票し、政権を獲得させた。石にかじりついてでも期待にこたえてもらわなければならない。
それと同時に、我々国民も傍観者であってはならない。ましてや、お手並み拝見のような、高みの見物を決め込むなどもっての外である。議員は、そして、政党は我々国民の代弁者であり、代理人である。官僚との闘いが熾烈なものになることを承知の上で、また、一時期政界に混乱があるであろう事を充分承知の上で、政・官の関係を健全化するために、民主党に期待をかけて、民主党にその役割を担わせたのは我々である。我々が選んだ議員を、そして、民主党中心の政界を我々はバックアップする義務がある。
マスコミとて例外ではない。国民が何を求めて今回の政権交代を実現したのか、国民の利益は何かを良く見極め、深く考えた議論を展開し、権力に媚びることなく、官僚と闘っている政界をバックアップする義務を負っている。
そもそも、官僚が政界や、国民や、マスコミを敵に回して闘うというのはおかしな話である。官僚が、民主主義で求められている本来の姿に戻れば良いだけの話である。官僚が素直になり、情報を公開し、公僕意識に徹し、滅私奉公すれば良いのである。中央官僚組織は我が国最大で、最も優秀なシンクタンクであるという認識を持ってもらえば良いのである。
しかし、官僚に植え込まれている強烈なDNAは、官僚トップの発言からも分かるように、厳然と、しかも、傲岸不遜に存在している。残念ながら闘いにならざるを得ないのだろう。
我々国民によって選ばれた、新しい政界と、国民によって選ばれた訳ではない旧来の官僚とのこの闘いは、これからの我が国の新しい健全な政治体制、本来あるべき姿の民主主義統治機構を作り上げるための闘いである。
そして、我々国民に本当に改革する意思があるのかが問われる闘いになるだろう。もし、この改革が成功しなければ、それは主権者たる国民が、公僕たるべき官僚に負けたことになり、長く歴史の汚点として残るだろう。