志ある官僚は新しい官僚文化を創れ

東京都渋谷区 岡部 俊雄


 志ある官僚は新政権の発足を機に自己改革力を磨き、新しい官僚文化を創りあげてもらいたい。

 

 官僚の腐敗、堕落、独善はかねてから指摘されていたが、旧自民党政権下ではその改革の兆しが全く見えてこなかった。そこに次第に力をつけてきた民主党がそれを厳しく追求したことによって、多くの国民が具体的に知るところとなり、それに対する怒りが大津波になって、先の総選挙で、国民はその改革を旗印にした民主党に政権を取らせたのである。

 多くの国民は、政治の中における官僚の位置づけと、その行動規範が本来あるべき姿に構築されることを強く望んでいる。

 そもそも、政権と、その中で働く官僚との関係には理論的には本来何の問題もないはずである。

 しかし、腐敗し、堕落し、独善を重ね、そして、旧自民党政権によってそれが許されてきた官僚は、その改革を旗印にして国民の負託を受けた新政権に対して、新しい対応をするすべを知らず、その改革行動に、保身のための陰湿な抵抗を繰り返してくるに違いない。

 

 なぜ、官僚の思考回路や行動がこうも国民感覚からズレてしまっているのであろうか。

 それは、やはりよく言われるTax PayerTax Eaterの感覚の違い、行動理念の違いからくる文化そのものの違いではないだろうか。

 その根源にあるのが、我々Tax Payerの世界では常識になっている、いわゆる閉じた管理のサイクルが、Tax Eaterの世界では未完成で、稚拙な状態にあり、また、それを問題視するという感覚や、文化が全くない、ということではないだろうか。

いわゆる管理のサイクルとはPDCAPlanDoCheckAction)を繰り返し回して、常に目標に向かって最適の行動をとらせようとする力を働かせることである。

 ところが、Tax Eaterの世界では、その中の最後のAAction)が決定的に欠落している。恐ろしいことに、その前段階のCCheck)すらも欠落しているように思えることがある。その結果サイクルは開いたままになっており、自分が立てた計画や行動の結果を見て、それに修正をかけようという動きが全く無視されているのである。官僚の世界では、このPDCAが全く回っていないのである。

 

 PPlan)は計画を立てることである。これは意欲があれば誰でもやっている。

DDo)はそれを実行することであり、これも、単なる評論家でなければ誰でもやっていることである。

次の、CCheck)はやったことの効果や問題点を調べ出すことである。これは、企業や我々の生活の中では、よほどの無責任体制でない限り、当たり前のようにやっている。しかし、Tax Eaterの世界ではこれすらも、やっているとは思えないような、やりっぱなしのようなことが多く見られる。

そして、最後のAAction)は調べ出した効果や問題点を見て、より良いPPlan)を立て直すべく、差し戻すことである。これがTax Eaterの世界では決定的に欠落している。

「自分が立てた計画を実行して、その結果を見て修正をかける」ということは、自分自身の行動も含めて、我々の世界では当たり前のように思える。ところが、官僚の世界では「自分の立てた計画を実行する」というところで止まってしまっているのである。この無責任さは一体どこから来ているのだろうか。やはり、Tax Eaterとしての堕落から来ているとしか思えない。

それに加えて、天下りや、官製談合などの自己利益に平気で走ってしまう官僚組織は自己改革力を失い、腐敗しきった独善的組織に成り下がっているとしか思えない。

 

同じ連合という組織に入っている労働組合でも、企業労組と官公労とではその文化が全く違う。企業労組では閉じた管理のサイクルが回っている。自分たちが所属している企業の体力ではとてもできないようなことを要求し、ストをし、無理やりそれを実行させれば、当然企業の体力は更に低下し、その結果が組合員にはね返ることがわかっているので、その要求に修正をかけようとする力が常に働く。しかし、官公労では、無理な要求をすると自分たちが所属している組織の体力が更に低下し、その結果が組合員にはね返る、という発想は全くない。サイクルが閉じていないのである。

今までの官僚文化にはなかった、このPDCAを国民の負託を受けた新政権は健全に回そうとするだろう。政治家が自ら、または、官僚を使ってCAを補い、閉じたサイクルを完成させようとするだろう。その結果、それにカルチャーショックを受けた官僚が、戸惑い、狼狽して、その動きに抵抗してくることは目に見えている。

情けないことだが、官僚は自分自身の行動をコントロールできないのである。

 

私は、若い頃、あるプロジェクトのために、短期間だが業界団体で仕事をしていたことがある。丁度土光臨調たけなわの頃であり、その関係の仕事も手伝っていた。あるパーティーの席で、何時もフランクに話をしている当時の通産省の若手官僚が、私に、主たる仕事の他に何をやっているのかと、しつこく聞いてくるので、「行革のことも手伝っている」と答えると、たちまち形相が変わり、「やれるものならやってみな」というセリフを残して私から離れていったのを、今でも鮮明に覚えている。

また、その行革に関する業界内の会議で、委員の一人が「行政改革は行政自らが行うのが当然であり、我々第三者があまり口を挟むべきことではないのではないか」と言ったことも鮮明に覚えている。これは企業人であれば当然の発想であり、官僚にも通じる発想と思ったのか、あるいは、官僚のしっぺ返しを恐れて、保身的な発言をしたのかは分からないが、まさに正論である。

それからもう30年はたっているが、官僚が自らの組織や、行動理念を自らの手で改革しようという動きに、一度も御目にかかったことがない。彼らの今までの文化の中ではそういう行動力学が働かないのである。

国家公務員倫理法の第3条2項には「職員は、常に公私の別を明らかにし、いやしくもその職務や地位を自らや自らの属する組織のための私的利益のために用いてはならない。」と書いてある。

天下りや、官製談合はこの条文に抵触しないのだろうか。

官僚に志があれば、改革は自らの手でいくらでもできたはずである。特に長く続いた旧自民党政権では、官僚が政策や、それを実行するための法律のほぼ全てを作り、自民党を使ってそれを国会で成立させてきたのである。やる気があればいくらでも改革できたはずである。

それが、今日までできなかったのは、官僚に志がなく、また、旧自民党政権がそれを是としてきたからであろう。

居心地の良い、ぬるま湯につかっているうちに、官僚は国民の公僕であり、国民の立場に立って、国民の利益のために何をなすべきか、そして、なしたことの結果を見てそれを修正する、という基本中の基本の発想すらできなくなってしまったのである。

 

今回の政権交代は、官僚が自己改革できないのであれば、そして旧自民党政権に改革する力がないのであれば、国民の力、すなわち新しい政治の力でそれを変えようという大きな力が働いたということである。

官僚はそのことを肝に銘じて、頭を切り替えて、新しい時代の流れに対応してもらいたい。

「政治家をだますのは簡単だ」、「落とし穴は掘らないが、落とし穴がある場所は教えない」などと官僚が発言していると報じられている。官僚にとってこれ程恥ずかしく、また、国民を馬鹿にした発言はない。自分たちの本分をわきまえない傲岸不遜な発言である。何かを履き違えているのではないだろうか。

しかし、全ての官僚がこうであるとは思わない。あまたの官僚の中には、志のある者はいるはずである。志のある官僚には、世の中の常識である自己改革力を磨いてもらい、新政権と力を合わせて、目を見張るような、歴史に残る、新しい持続的な官僚組織、官僚文化を創り上げてもらいたい。