順法は十分条件ではない(その3)

東京都渋谷区 岡部 俊雄


 民主党の小沢幹事長の土地購入にかかわる政治資金の収支問題で国会議員や元秘書が逮捕された。この事件が法に触れているのか、政局がどうなるかで世論やマスコミ・政界が揺れている。

 私は「順法は十分条件ではない」という意見を過去に二回生活者通信に投稿している。

 一回目は20068月号で、当時の福井日銀総裁が村上ファンドで利殖行為をし、それに対して当時の小泉首相や多くの政府関係者が法に触れていないので何等問題ないと言ったとき。

 二回目は20078月号で、当時の松岡農水相や赤城農水相の政治資金団体・政治団体の事務所費の不明朗な支出に対する説明に関し、両人とも法律にのっとって適正に処理しているので何の問題もないと言い続け、当時の安倍首相もその通りだと言ったときである。松岡元農水相はそれ以上何も言わないまま自殺してしまった。

 これら二つの投稿で私が一貫して主張していることは「そもそも法とは全国民が守らなければならない最低限の定めである。指導的立場にある者が、法に触れていないから何の問題もないということは断じて許されない。」ということである。「法に触れていないから何の問題もない」と言いたいのなら指導的立場から降りてもらいたいし、降ろさなければならない。

 人間社会は法以上に多くの節度、礼儀、不文律、普通の約束事、エチケット、マナーなどの倫理観や道徳によって成り立っている。

 人々が、もし法さえ守っていれば何の問題もないということで行動すれば、この人間社会は混乱の極みに達するだろう。その混乱を法のみで規制しようとすれば、現在定められている膨大な数の法の何倍も、何十倍ものきめ細かな法が必要になってくる。

 生徒のレベルが揃っている学校では少ない校則で十分であるが、雑多なレベルの生徒が混在している学校では、一定レベルの規律を守るために、細かい多くの校則が必要になるのと同じである。

 そんな不自由な社会は誰も望まない。

 この人間社会には、指導的立場にある人や、影響力の大きい人から、社会に迷惑を及ぼす人や、危害を加える人まで幅広い多様な人々が共存している。

 その中でも特に指導的立場にいる人は、法を守ることは当然であるが、それ以上に高い倫理観を持っていなければならない。法とは低い倫理観の人でもこれだけは守れという「必要条件」に過ぎない。

 最近コンプライアンスという言葉がよく使われるようになった。

 これは企業の行動規範のことを言っているが、単に「法令遵守」だけでなく、企業が一人の個人・市民として遵守すべき「道徳規範」をも含む言葉として使われている。

我々は今回の小沢問題を法技術な視点や、大マスコミの報道姿勢などの視点に矮小化してはならない。法技術的なことは検察や弁護士に任せておけばいいし、大マスコミが官僚寄りであることは今も昔も変わらない。

言いたいことは、指導的立場にある政治家は高い倫理観を持ち、昔寺小屋でも教えていた「李下に冠を整す」ようなことや、「瓜田に履を納れる」ような行為を厳に謹んでもらいたいということである。

小沢幹事長の党大会を私物化したような言動も、真摯に政務や党務を遂行しようとしている者を無視した、度を越した、低モラルの破廉恥である。自分の見解を述べたいのなら、いくらでもそういう場をつくれるはずである。党大会という虎の威を借りたいのだろうが、KYもここに極まれりということか。

国民の多くはそういうことを問題にしているのである。