菅首相の誕生を喜ぶ

東京都小平市 小俣 一郎


『KANプロジェクトの支援』

 これ何のことかわかりますか。覚えている方もいらっしゃるかと思いますが、これは当会の「第4期の活動方針」の第1番目に掲げられた活動方針です。(当時の代表は治田さんでした。)

『KANプロジェクト』とは、12年前の参議院選挙の直前に起こった『菅直人を「私たちの首相候補」に指名しよう運動』のことで、当時イタリアで、多党化の中でも「オリーブの木運動」によりプロディ首相が誕生したことにならって、日本でも、薬害エイズ事件処理で国民的な人気を得た菅さんを、市民運動から盛り上げて、政党を超えた形で首相候補にして、自民党政権に対抗しようという運動でありました。

1998年5月の新聞記事でそれを知った私は、その運動事務局にボランティアとして参加し、当会に紹介し、当会は『KANプロジェクト支援特別委員会』を作り、私が委員長として先頭に立つことになりました。治田代表の強力な支援もあり、FAX運動や、杉原さん主導での駅頭での署名活動などいろいろなことを行いました。まだ長妻さんが衆議院議員になる前のことで、当会の活動の中でも大いに盛り上がった活動でした。

当時の会報を読み返してみましたが、私は「首相は“菅”か“橋本”か」等々の投稿をしており、あの時も、政権選択選挙=政権交代を求めてそれに参加していたことを思い出しました。

KANプロジェクトは、その年7月の参議院選挙で自民党が大敗し、直後の首相指名選挙で参議院が実際に菅さんを首相に指名したこともあり、大きな盛り上がりを見せていました。しかし、残念ながら、同年11月の菅さんの愛人スキャンダルによってあっさりと葬り去られてしまったのです。短い命でした。実に残念でした。

(KANプロジェクト本部が休眠状態になった後も、当会有志で「菅直人を総理にする会」を立ち上げ、特別委員会の名称をその支援に切り替え、単独で99年6月まで運動を続けましたが、そこが限界でした。)

その菅さんが今回、遂に首相になったのです。誠に嬉しく、また感慨深いものがあります。

思えば、私が平成維新の会で行った最初の具体的な地域活動は、1993年7月の総選挙で菅さんの公営掲示板のポスターに「平成維新の会推薦」と書かれた、手のひらサイズのラグビーボール型のシールを担当した地域(武蔵村山、昭島、立川の一部)に貼って回ることでした。

菅さんは平成維新の会の舞浜での全国大会にも参加されたし、7区担当のマネージャーとして、会で推薦した菅さんを講師に招いてイベントを行ったこともありました。(当時は衆議院の中選挙区を一つの単位として活動していました。)

こうして振り返ってみますと、当会と菅さんとの関係にはなかなか深いものがあります。ぜひ、頑張って欲しいと思います。