民有国営の日本医療に未来はあるか

                       転移がん患者・混合診療裁判原告 清郷 伸人

1. 医療費と国家財政

過去、日本の国家が取ってきた医療費抑制政策は、次の点で誤っていた。

国家財政が危機にあるという認識は正しい。破綻を回避するために財政支出の強い抑制が必要という点も正しい。しかし、政官財癒着の公共事業に郵貯や国債の財政投融資特別会計や一般財源などの公金を湯水のごとく垂れ流し、官僚の天下り楽園のために年金特別会計などの公金を簒奪しておきながら、医療費亡国論を叫び、一貫して診療報酬だけをねらい打ちにしてきた財政政策は戦略的に根源から誤っていた。その甲斐あって、医療費のGDPに占める割合はOECD先進国で最低となった。この間、患者の窓口負担だけは無料から1割、2割と引き上げられ、ついに3割にまでなった。しかし、政策が根源から誤っているから、政府債務は積み上がるばかりで、ギリシャやスペインより悪く、日本人の預貯金で日本の国債が消化できなくなる財政破綻は瀬戸際まで来ている。

医療も国民も国家あっての存在である以上、この現状認識から出発しなければならぬ。しかもそういう国家をわれわれは選んできた。医療者も国民も自ら招いたこの危機の解決に真剣に対しなければならぬ。これ以上、われわれが強欲を張ったり、辛い忍耐を先送りすれば、耐え切れないほどの少子高齢化に見舞われるわれわれの後の世代が理不尽な崩壊にさらされる。

危機的な財政の現状は医療者にも国民にも尋常ならざる覚悟を突きつける。民主党政権が今年の診療報酬改定で、わずかなアップしか達成できなかったことを責めるのは間違っている。もともと目標にしていた1割アップなどないものねだりである。医療費のGDP比をOECD先進国並みに、という当然の議論も今の日本では通用しない。国家財政が他の健全なOECD先進国並みになった時に通用する論理である。現状では、多岐にわたる国民生活において医療だけを聖域視する余裕はもうない。

国民も医療費負担に自己抑制を迫られていると思わなければならぬ。保険診療を際限なく受けることは、保険財政によるさらなる国家財政の悪化につながるのである。そうはいっても精神論は空回りするから、制度を設計し直すべきである。保険というものの本質上、健康保険も大勢の罹る軽い感染症などは全額とか5割自費にして、重い疾患、難病、高額な医療に直面している少数の患者に十分な給付を行うなどといった設計が考えられる。医療を今よりも自費で賄う部分が多くなるが、個人がいくら快くても全体が倒れてしまえば終わりである。公のために個人が忍ぶべき時なのである。

そうなると少々の体調不良くらいでは国民は医療機関に行かなくなるだろう。重病化などの弊害を招くという批判も出るだろうが、そもそも日本人は先進国の中でも病院に行き過ぎているし、薬も使いすぎ、入院日数も長すぎるのである。数多くある医療機関も患者が減って淘汰されるかもしれない。しかし需要に対して供給が多すぎれば、競争が起き、敗者が生まれるのは避けられない運命である。

もちろんそれは一つの例であり、他にもさまざまな制度設計が考えられるが、完全な設計などというものはないであろう。必ず誰かの利害と衝突する。しかし、このような議論は細部でなく大局で考えるべきである。最優先の目的は、国家財政の破綻と若年世代の生活崩壊を防ぐことであり、早急に国家の将来像と戦略を構築して、破綻の臨界点に達する前に行動しなければならない。

 

2. 民有国営医療への道がもたらしたもの

大正11年、鉱山と工場労働者の「労務管理」から出発した健康保険が昭和33年の国民健康保険法の改定で強制加入の国民皆保険になった時、政府は医療の現物給付に全面的に責任を負う当事者となった。当事者といっても医療を供給する主体は医師だから、政府は保険医である医師にも経済的な保障を与えなければならない。それを達成するには医療の国営化しかありえない。しかしすべての医師を公務員にし、医療機関を公立にするわけにはいかないから、経営責任は民間に残しながら経営の自由度はまったくない民有国営という人面獣身のような奇怪な医療制度が発足した。それは官僚の狡智が編み出したトリックであったが、その健康保険制度も当初は国民大衆の医療と健康に画期的に寄与した。

しかし物事には必ず光と陰がある。日本経済が成長軌道で国家財政も安定していた時代には現れてこなかった民有国営医療を賄う健康保険制度の陰の部分が、黒々と増大してきたのである。国民の医療をすべて公的保険で賄うというこの制度のもとで、生活水準の向上、高齢化の進展、医療技術・医薬品の進歩により医療費は年々上昇せざるを得ない。今後もそのカーブは加速していくだろう。一方で、この制度の財源を支える若年世代は減少の一途で、国家の歳入は細り、国の借金は増えるばかりである。健康保険制度が日本の国民に適した優れた制度だとしても、その基本フレームを残しながら疲労・劣化した部分は革新していかなければ、フレーム自体が腐食するだろう。それは民有国営のうち国営の部分に民営を導入することにほかならない。

民有国営の医療を支える健康保険制度にはもう一つの陰の部分があった。民有国営とは、国家が医業経営に対する義務も責任も一切負わずに、医療の現物給付を管理し、医療内容に細かく口を出し、保険医の経済・経営にも介入するということである。事実、政府は医療の管理強化路線をひた走ってきたといっても過言ではない。しかし、それは大部分の国民や医師にとって決して意に反する道ではなかった。管理強化された健康保険制度に苦しめられた若干の患者や医師はいたが、制度に素直に従ってさえいれば保険医療は、大部分の国民にとって安価で安心できる身近な医療であり、大部分の医師にとっては平等に高収入が保障される約束手形であった。実際、大部分の医師の本音は、保険医療が最も居心地が良いのですべての医療を保険にすべきであるというものである。

だが、そのように管理強化されてきた健康保険制度によりかかっているうちに、われわれは大事なものを失っていたのである。大事なものとは医療の自律性と国民の自立性である。とくに問題なのは医療の自律性の喪失である。「医療の本質が、倫理性や人間性に立脚するものであることを考えると、「医療の自由」は医療の純粋性を維持するためにも守られねばならない。それからまた、医師は自己のなした医療行為の責任を負わねばならぬことを考えると、「医師の裁量権」は医師にとって必須のものであるはずである。つまり医師の裁量権は、医師の恣意を保障するものではなくて、医師の良心を守るためのものと考えるべきなのである」(飯塚哲夫「歯科医療危機の光景」歯界展望第67巻第1号別冊昭和61115日発行6667ページ)飯塚医師は保険外診療による保険医資格取り消しの上杉事件訴訟に関わっていくうちに、行政が違法なやり方で医療の自由を否定し、医師の裁量権を侵害する姿を目の当たりにする。同時に、多くの医師がそれに無頓着、無関心であることも痛感する。

いつから飯塚氏のいう医療の本質は、医療の国家管理と引き換えに失われたのか。民有国営医療が当たり前のように進んでいく中で、医療が国営医療すなわち健康保険制度に安住して、自律性を売り渡したといわれても仕方のない歴史がある。しかしそれは歴史の一面であろう。裏面は、国家が健康保険制度という媚薬を国民や医師に注いだが、実は強制加入という縛りによって医療の主体である医師の生殺与奪の権を手に入れたということである。前述の飯塚氏は同著77ページで次のようにいう。「私は「医療国営」を必ずしも否定するものではない。しかし「民有国営の医療」は否定する。なぜなら、それは不条理で非人間的だからである。それは、国家が権利のみ主張して、それに付随する義務や責任を回避する医療制度である。医師は、当然のことながら自分のなした医療行為の責任をすべて背負い、患者に対してあらゆる医療義務を負っている。一方国には、医療行為に関するどのような義務も責任もない。それでいながら、国は医療の内容に容赦なく容喙し、医師は医療の裁量権をはなはだしく侵害されている。医師としての権利を奪われた状態で、医師の責任を全うすることができるものかどうか考えてみるがいい」。

また国民の自立性とは管理された保険医療によりかかるだけでなく、自らの命に関わる医療への自己決定権を自覚することだが、お上依存の国民性には難しいことである。しかし、たとえ国民がそうであっても、また国の管理がいかに強かろうと、医療は病を治し、命を救うことが使命である。そのためには国家管理から外れようとも自らの裁量に従う医師の良心を求めたくなるのだが、飯塚氏のいうようにそれは酷というものであろう。やはり医療の本質を回復するには、個々の医師の勇気と良心にゆだねるのではなく、そのような医療の原則と制度を勝ち取らなければならない。待っていても権力は与えてくれない。

 

3. 民有国営医療の未来

医療の民有国営の危険性と弊害を認識するのは、そのまっただ中にいる日本人には難しい。医療の安全性、有効性の判断をなぜ国が独占しなければならないかという疑問など夢にも起こらない。しかし例えば米国は医学ジャーナリズムや学会などが独自に判定したり、保険適用も国家機関のFDAとは異なる。当然、混合診療禁止という考え方など不合理で根拠がないとして拒絶される。

米国の民間保険を日本では儲け主義と悪くいうけど、大半の米国人は民間保険である。では彼らは不満だらけのはずだが、オバマの公的保険導入に反対したのは彼らである。儲け主義なら給付と負担に問題が生じるはずである。かれらは貧困者医療の救済以上に医療が国営になることの危険性と弊害を十分理解しているのである。そこには国家権力に対峙してはたらく自由で健全な自立精神、民間精神が根付いている。実際、米国の医師の自律性は高い。医療費は高いが治療だけでなく予防にも民間保険は使える。OBも含めた社員への企業のレガシー・コストは日本企業の比ではない。日本人は自分を基準にした恣意的な想像で米国を見ているのではないか。  

しかし私は米国の方がいいとか米国のようになるべきだなどといっているのではない。そこには日本人の嫌いな無保険者や医療難民があふれている。どのような医療制度にも一長一短はあり、どれを選ぶかは国民の意思である。ただ私は、ガチガチに管理された民有国営形態を続ける日本の医療に未来があるとは思えないので、患者の治療への自己決定権と医師の医療への裁量権を原則的に認めるべき時代に来ていると考えるのである。

それはたとえば、現在の民有国営の医療体制を基本的に維持しながら、自由診療との併用を原則的に容認するという民営的要素を取り入れることである。そんなことをすれば国民皆保険制度が崩壊するという行政や医師会の主張は嘘である。保険外併用療養費制度は公認の混合診療であり、歯科では混合診療が日常広範に行われているが、国民皆保険制度に何の支障もない。さらに国民皆保険制度と混合診療を両立させている先進国もある。

また重症のがん患者、難病患者など時間と戦っている命にとって、保険承認はその治療を必要とする患者にはつねに後追いで、大きなタイムラグが生じる宿命にある。医療の進歩に民有国営の今の保険医療制度がタイムリーについていくことは不可能である。その解決の手段の一つが、患者の自己決定権と医師の裁量権を解き放つ混合診療の原則解禁である。

                                 (2010/03/1