医療保険制度に求められる公共
混合診療裁判原告がん患者 清郷 伸人
1.国民皆保険の危機の本質
少し前にMRICに掲載された医療制度研究会理事長で済生会宇都宮病院院長の中澤堅次氏の論文「新後期高齢者医療保険制度中間報告案の疑問」は、その後「後期高齢者医療制度に見る保険の限界」と改稿され、JMMにも掲載されたが、示唆に富む深い考察である。それらの論文で氏は、後期高齢者医療保険を典型的な例として、現在の国民皆保険を支えている健康保険制度の宿命的な問題点をえぐり、健康弱者を包含した相互扶助制度としての医療保険制度の本質を明らかにして、改革への提言を行っている。
筆者が氏の論文を契機として、医療保険制度における求められる公共というものを考えたのが本稿である。新しい公共は最近政治家がよく唱える概念だが、定義や内容はよくわからない。ただ公共は戦後日本では忘れられていた価値だと思う。敗戦を機に日本社会は欧米型のデモクラシーへと180度価値を一変したが、それは私権と私益の解放を意味すると受け取られた。このため日本社会の政治から家庭までのいたるところで、私あるいは私たちという部分は解放され、最適化が図られたが、公共という全体の利益は忘れられ、今日の日本全体の危機を招くに至ったのである。本稿においては、健康保険という医療制度の一分野について、全体最適すなわち求められる公共の視点から考えてみたい。
中澤氏の論文を荒っぽく要約する。―健康保険は国民健康保険(国保)と被用者保険(筆者:共済保険も含む)に分かれているが、利益を追求する企業と全国民が係わる国保が同じ健康保険を担うのは矛盾している。負担能力があり、若い健康な人の多い被用者保険と所得が低く、老人や健康弱者の多い国保が同じ保険義務を負えるはずがなく、保険制度は一本化し、消費税も視野に入れて国民全員で担うべきである。
総務大臣に就任した片山善博氏も日経新聞のインタビューに「公務員は国保に入れ」と画期的な提言をしている。その原点は中澤氏と同じ「保険は老いも若きも富める人も貧しい人も一つの制度に入ってこそ安定する」という全体最適化である。
2.全体の危機をもたらした国民性
ここで保険財政の基盤というべき国家財政を考える。ご存知のように日本の国家債務は900兆円を超え、年々増え続けている。そのレベルは先進国で突出し、持続不可能、破綻寸前といわれている。しかし国民の危機意識は乏しい。
日本政府に債務900兆円という返済困難な巨額の借金を作らせたものは、端的にいって官民含めた国民のあらゆる階層、経済産業、教育、医療厚生その他もろもろの分野に蔓延するお上依存根性である。政治家の劣等、官僚の寄生は直接的な原因だが、隠れた真因は自立に欠けた国民性に尽きる。明治革新期に福沢諭吉が危惧した在野精神・自立精神の欠如は今も通じる。日本国民はお上依存の激烈な副作用を自覚すべきであった。
戦中のジャーナリスト清沢洌が「元来が、批判なしに信ずる習癖をつけてこられた日本人」(1945年4月17日)と述べたように、われわれは戦前は報国思想一辺倒、戦後は私権主張一辺倒に走ったのである。乱暴な言い方だが、国民の金融資産1400兆円は戦後、全体を顧みずに政府が国民に公共の財を配り、国民は争ってそれを奪った結果である。
個人や組織、集団にとって部分最適(私益)は快いが、その追求の行き着くところは全体(公共)の崩壊である。これは巨大な合成の誤謬というべきではないか。今ほど全体最適(公益)の価値観が求められている時代はない。求められる公共ともいえる全体最適を最優先する原則に社会が合意するのはもちろん容易なことではない。個人や組織集団は、従来のようなお上依存を抑制しなければならないし、部分最適である私益の主張を見直さなければならない。具体的にいえば、公共の財(政官の権益や税金)を強い組織集団が奪い合っていたのでは、いくら政治や行政を改革してもまた増税しても足りないということである。
3.求められる公共としての健康保険制度
日本政府が巨額の債務を抱え、国民の命に直結する公共財である医療では病院が危機に瀕し、医師たちが疲弊している今日の状況に、社会保障としての健康保険制度を公共という視点から考えてみる。
健康保険の本質は、患者(被保険者)の受ける医療への経済支援である。国家と国民が経済負担を分かち合うことによって、国民が健康弱者となったときに公共財である医療を受けやすくする相互扶助であり、医療機関など供給者も医療の必要な患者が安んじて医療を受けられることで持続・発展していけるのである。
その健康保険制度が持続不可能の危機に近づいている。急激な高齢化と医療の高度化などで医療費が膨張し、一方で少子化と政府財務悪化により負担能力は低下している。
最も基本的な社会保障である国民皆保険制度をどうすれば持続可能なものにできるか。中澤氏や片山氏のいわれた保険制度の一元化による全体最適の実現も求められる公共という視点からは不可欠の課題であるが、他にも取り組むべき課題はある。
高齢化や医療の高度化はいやおうなしの現実で、変えることはできない。したがって医療費の膨張を防ぐことは不可能であるが、最小限にする努力は可能である。東海大名誉教授の田島知郎氏は、日本の医業の仕組みが医師=経営者なので中小医院が乱立し、利益優先となり、過剰診療となり、医療費が膨れ上がる。さらに開業医も勤務医もクローズドシステムのため専門医力が次第に落ち、医療の生産性が低くなる。生産性を高め、医療費膨張を抑えるためには、病院の大規模集約化と米国型オープンシステム導入を図り、開業医と勤務医を区分せず医療機関で協業し、ドクターズフィーを独立させることだと述べている。(『病院選びの前に知るべきこと』中央公論新社)この提言は、医療における私権を小さくし、公共性を高めるという構想にほかならない。しかしこの構想の実現には、多くの部分利害が衝突し、声の大きい組織集団が最大私益にこだわる現状の改変が不可欠で、きわめて難しいと思われる。
日本総合研究所理事の湯元健治氏は、7月30日の日経新聞「経済教室」で、高成長と高福祉を両立させているいわゆる「スウェーデン・モデル」を取り上げ、経済政策での小さな政府と社会保障政策での大きな政府がそれを可能にしたと指摘している。徹底した競争政策で強い経済を実現し、国民の大きな負担の下、築き上げられたスウェーデンの手厚い社会保障は、誰もが直面する出産、育児、病気、失業、高齢化といった人生のリスクに対応するもので、国民全体の生活保障システムとして機能している。(筆者:いわば社会保障の全体最適化に成功している)それが可能なのも強い財政と税を含む高い負担を国民が受け入れているからだが、政治・政府への国民の信頼感の差を考えれば、日本では実現は難しいと湯元氏は述べている。
このように医療費の膨張は避けられず、税や保険料などの国民負担の効果的な増加も難しいという見通しでは、仮に健康保険の一元化が実現しても、健康保険制度を維持していくのは、きわめて困難と思われる。健康保険制度は需要者(患者)が医療を受けやすくすることで供給者(医療者)も持続・発展できる経済支援装置と述べたが、現状は供給者の疲弊によって需要者も困窮しているのである。現在の医療費財源である税、健康保険、患者負担が限界に来ていることは明らかである。
健康保険には新しい公共が求められている。それは医療の自由な任意の私費負担である。長寿と健康という価値に対する自発的な消費である。その需要は決して小さくない。そのような私費負担と健康保険を並存させることによって、私費負担による支払いは容易になり、拡大する。今のままでは高齢化と高度先端医療の普及により健康保険の支出は確実に上昇する。しかし許容できる国民負担が限られている以上、当然保険対象範囲の見直しは避けられず、それは同時に保険診療と保険対象外診療との併用の拡大を意味する。
この議論は混合診療といわれ、日本では永い間忌避されてきた問題である。先進国で認められた抗がん剤や医療技術があるにもかかわらず、日本では保険で認められていないためにそれらを求める希望も能力もある患者が使えず、それは平等に反するからだといわれてきた。たしかに医療の平等性という部分最適は壊れるかもしれない。だが、その部分最適は医療の必要性、可能性という部分最適を犠牲にして成り立っているのである。さらに当然のようにいわれてきた平等性という部分最適を原理化することは、既述したように医療費財源の枯渇に至る道であり、それは国民皆保険としての健康保険制度という全体最適(公益)の崩壊にほかならない。
健康保険制度に求められる公共である本質的一元化や自発的私費負担との併存は、強力なリーダーシップによって官の規制や民の私益といった部分利害を乗り越えなければ実現しない。政府に改革への強い意志があるか否かが国の危険度を示す指標であると国際格付け機関は断言している。