国民性から解く保険外併用療養費制度

           混合診療裁判原告がん患者 清郷 伸人

1. 混合診療問題が徘徊する

いま混合診療という妖怪が日本国内を徘徊している。それは長い間日本には無いものとされてきた。医療を統制する行政からは観念すらできないとされ、医療者の団体である医師会からも世の中に出てきてはならないタブーとされてきた。当然メディアにも患者会にも識者等にも医療問題として意識されることはなかった。しかし小泉政権によって混合診療解禁が閣議決定され、2006年厚労大臣と規制改革大臣の混合診療に係る合意書が結ばれ、医療制度改革が行われたとき、タブーだったパンドラの箱はついに開けられたのである。しかしその後、歴代政権の規制改革のたびに混合診療問題は浮上することになる。なぜか。それは何度改革の俎上に上ってもこの問題が進展せず、堂々巡りを繰り返しているからである。官僚は改革をサボタージュし、医師会は反対の大合唱、メディアも患者会もそれに唱和した。さらに筆者の混合診療を求める訴訟は敗訴となり、司法からも退けられた。それにもかかわらず安部内閣によって再びこの問題が浮上している。

何度つぶされても不死鳥のように蘇ってくる。何故なのだろう。それは混合診療が死に直面するような重病や難病の患者にとって最後の希望の灯だからである。日本で認められた保険診療の効果もなく、日本の医療から見棄てられた患者が、日本では使えないが海外の先進国では認められた治療があると知ったとき、藁にもすがる思いで受けたいと思うのは当然である。もう一つ理由がある。政権がこの問題に向き合わざるを得ない理由は多分こちらである。40年後の世界を予測した『2052年』の著者ヨルゲン・ランダースが指摘しているように、国家の破綻を招くほどの世代間格差は国民全員が犠牲を分かち合って解決しなければならないが、少子高齢化が加速する今後の日本に迫る膨大な医療費を真摯に考えれば、混合診療という自発的な私費負担は国家として避けて通れない問題だからである。

 

2.      保険外併用療養費制度の本質

 政府公認の混合診療といえるこの制度は、それまで特定療養費制度といっていたものを2006年の医療制度改革で衣替えしたものである。制度の建前は、特定の保険外診療だけには保険診療との併用(混合診療)を認めるというものである。そしてその本音は、当局が特定したもの以外の一切の保険外診療(先端的・先進的自由診療、新薬等)には保険診療との併用を禁じることである。保険外診療を封じ込める当局の執念がいかに強いものか、これに違反した場合の罰則が尋常ではない。医師や病院は最大5年間の保険資格停止を受け、患者はその疾病で給付された保険分全額(通常医療費の7割)を返還しなければならない。自由診療そのものは禁止されていないし、町中のどこでも受けられる。しかし保険診療を受けていたら、どんな病状に陥っても絶対それは受けてはならないのである。

 小泉規制改革が混合診療問題の解決を両大臣の合意書において保険外併用療養費制度に求めて以来、歴代政権は混合診療については解禁ではなくその制度の充実によって規制改革を実現しようとしてきた。しかし、この問題が改革の俎上に何度も上ることが示すように制度の充実は遅々として進まなかった。そして、それはこの制度の本質がもたらす宿命なのである。この制度は、患者の求める先進医療を受けやすくし、政権の命ずる規制緩和を実行しているという行政のアリバイ作りを本質としている。混合診療への要望の受け皿として当局の努力を示すための道具である。(実際、筆者の訴訟の最高裁判決は、この制度があるから混合診療の解禁を求めることは的外れというものであった。)アリバイなら形だけあればよく中味は重要ではない。政権は政策を示し、内閣は閣議決定するが、政策は多岐にわたり多数控えているため、あとは官僚に任される。さらに政治家には任期もあり、選挙もある。一方、官僚は終身雇用で専門分野に特化し、基本的に前例主義である。その結果、この制度の7年間で認められた保険外併用療養(評価療養としての先進医療)は100件余りに過ぎない。

 保険外併用療養費制度が行政当局にとって本質的に不本意なものであるもう一つの理由は、筆者の訴訟で最高裁の寺田判事が判決の意見書において指摘しているように、医療の平等性は行政当局の伝統的な不抜の信念ということである。国民皆保険によって国民の医療に責任を負い、保険診療を監督しなければならない当局にとって、保険外診療は聖域を侵食する存在であろう。

 

3. 国民性による安全性・有効性の罠

先進的医療や先端的医療が保険外併用療養(評価療養)に組み入れられるには、専門家会議や審議会で保険診療ほどではないにしろ安全性や有効性が認められなければならない。しかしその場で新しい医療にお墨付きを与える専門家や委員は、ある理由から慎重にならざるを得ない。当然、評価療養の承認は遅れ、または見送られる。その理由とは、承認した評価療養で万一の事故が起こった場合の責任が厳しいことである。まず日本では一斉に世論の批判にさらされる。メディアも大衆も犯人探しが得意であり、必ずスケープゴートを探し出す。これが安全性・有効性の罠である。だから当局は先進的先端的医療も新薬もなるべく評価療養にせず自由診療のままにしておく方が、責任は負わずにすむのである。

その一方で日本人は自己判断や自己責任を回避し、公の権威によるお墨付きを欲しがる。それだけではなくこのお上頼みの国民性は、命の瀬戸際の患者が自己責任で選んだ治療に対しては無慈悲である。重篤な患者は保障された安全性より一縷の有効性に賭けるほかない。保険承認された抗がん剤でさえ死亡を含む副作用の塊である。患者を助けたい医師は治る可能性のある未承認の治療や薬を使おうとするが、日本ではこの選択は厳しい罰を伴うため実施が難しい。しかし多くの国民はこの仕組みを支持しているのである。

このような国民性を背景に当局は、国民皆保険で負っている国民の生命と健康への責任と医療の安全性・有効性に仕掛けられた罠という二律背反のはざまで保険外併用療養という難物を扱いかねているといえる。他方で政府においては規制改革としての混合診療問題は、遅々として進まない保険外併用療養費制度に矮小化されて論じられている。今まで述べたようにこの制度はその本質から停滞的であり、既得権益層にメスを入れイノベーションを起こす規制改革になじまない。当然、保険財政の建て直しにも寄与しない。

 

4. 国民性の中にある危険

最近、遺伝子検査による予防医療が話題になっている。「治療から予防へ」と医療費の効率性を向上させるために、その高額な費用に保険を適用すべきという議論がある。しかし、現状の負担のまま公的保険で何でも賄うというのは夢物語ではないだろうか。むしろ、このような予防医療こそ民間保険の出番である。民間保険には予防によって医療保険金支出を抑えたいという強いインセンティブがある。すべての国民が予防医療の恩恵に浴さないでも、可能な人だけでも受ければいいという発想は日本人には相容れないのだろうか。

日本にはiPS細胞研究のような優れた医学研究があり、医療にも世界に冠たる技術がある。戦後の日本をここまで育て上げたのは、他の産業も含めた無名の優れた技術者たちである。しかし、お上依存と付和雷同の国民性の中で、それは羊の優秀と従順に化してしまう。この優れた能力を持ちながらきわめて御しやすい国民性は、固持的な官僚と愚昧な政治家を生み、次第に日本が世界から取り残される危険を招いている。それは真面目な兵と優秀な士官を持ちながら、愚昧な将校と指導者のために無残な敗戦となった歴史を想起させる。トーマス・マンは、国民はその国民性にふさわしい政治家しか持つことはできないと述べている。

混合診療規制の本質は、国家権力による国民の権利の侵犯である。憲法13条には、公共の福祉に反しない限り、個人の自由の権利は最大限尊重されるとある。自由診療は存在する。それを受けることは自由である。しかし、保険診療を併用すると瞬時に受療の権利は剥奪される。混合診療は、それほど公共の福祉に反するものなのか。規制はさらに、保険外でも効果の期待できる医療を受けて治癒を目指す生存権、国民皆保険の被保険者として保険受給を剥奪されない平等権、永年義務として支払った保険料の対価としての財産権といった憲法で保障された基本的人権を侵すものである。

ただ権力がそのような本能を持つということは世界中の国民の共通認識である。そしてこの理不尽に対する抗議を言論や行動で示すことは民主主義の根幹であり、今トルコやブラジル、エジプトで起こっていることはその意味で健全なのである。戦中のジャーナリスト清沢洌によって「元来が、批判なしに信ずる習癖をつけてこられた日本人」(『暗黒日記』1945417日)といわれ、メディアも学界も職能団体も地域も総じて国民が権力に厳しく反抗することのなかった近代日本人の国民性は変わらないのだろうか。   

                    (蕗書房「がんの先進医療20137月号」より転載)