忘却のかなたから -9
東京都渋谷区 塚崎 義人
「かたよらないこころ、こだわらないこころ、とらわれないこころ、
ひろく、ひろく、もっとひろく〜〜〜」
薬師寺元管長・故高田好胤師
“見きわめる”眼力(特異点)
特異点という考え(ある基準の下、その基準が適用できない=点)があります。
物質世界(宇宙)の始まりは超高密度エネルギーのゆらぎからですが、ゆらぎの前にも世界が(仮に多宇宙とよびます)、その多宇宙で矛盾現象が起き物質世界(宇宙)が生まれたといわれます。となれば物質世界(宇宙)での矛盾現象から生物世界(生命)が生まれたのも理解はできます。矛盾現象(連続と断絶)はこの特異点かもしれません。
特異点が起こる可能性(ある・ない)は?
そのイメージは、世界をまとめている一つの体系から導かれ矛盾現象(特異点)が起こり、そこを基点にまったく新しい異なる世界体系が構成される。
現に、物質世界と生物世界が実在と知りましたので、あながち間違いではなさそうです。
ある世界が実在するとわかるのは?
いくつか、まず「特異点」、次に世界を構成する「要素」、それから世界を統一する「体系」、そして世界がたどる「展開」などで考えると判別できるかもしれません。
〜特異点・要素・体系・展開〜
1、特異点・・・・矛盾現象(連続と断絶)の発生・・・・・発生
2、要 素・・・・全体構造をなす基本要素・・・・・・・・基本
3、体 系・・・・全体体系を基本要素で統一・・・・・・・統一
4、展 開・・・・たどるべき道は定まる・・・・・・・・・終焉
これらを物質世界に当てはめてみると(今の科学的知識から)。
まず、多宇宙に突然エネルギーのゆらぎが発生し爆発的インフレーション膨張が、ゆっくりと温度低下とともにエネルギーは物質に変化を始める(物質=エネルギー)。
次に、初期物質(原子核)は電子をとらえ物質の構成要素「元素」を生成、元素の集合されたものは星々や銀河(宇宙)を形成する(物質世界の誕生)
それから物質世界(宇宙)は、エネルギーが物質に変わり、物質が再びエネルギーに変化することを繰り返している(循 環)
そして、物質はエネルギーへとすべて変わり活動が静止する(静 寂)
今のところ、物質世界はこのような世界と想像されています。
1、特異点・・・・ビッグバン(エネルギーのゆらぎ、証明はできていない)
2、要 素・・・・素粒子(素粒子を基に、世界は原子・分子・高分子の重層構造)
3、体 系・・・・物質とエネルギーの総和は不変(減りもせず増えもしない)
4、展 開・・・・エントロピー(秩序は消え無の世界へ)
さらに、物質世界(宇宙)で矛盾現象(特異点)が起き自己複製し自己増殖する生命が生まれ、人間にまで進歩している重層的な生物世界が誕生しています。
この矛盾現象は偶然、それとも必然? 興味はつきません。
1.社会現象を見きわめる-3(本性)
社会生活で道徳的行いが果たす役割は大きなものがあります。この道徳的な行いをしようとする人は社会で起こることを無批判に受け入れることはしません。いつも何を善で何が悪か、何を正しく何が誤りかと自問自答しているので、社会での振る舞いや言葉づかいや生活態度にそれなりに見識が見られます。このような人は「自律する自由」へ進む可能性を持った方です。
ここでいう自律する自由とは、自然界の本能(心)そのままの行為と同じ勝手気ままな自由とは違います。たしかに人は本能に依存しますが、むしろ精神的な本性(こころ)からの自由を基に自身を律し、それに基づき他の人の自由をも守る行いができる「自律する自由」のことをいいます。ただし自由というものは不自由へ変化してしまう危険性もあります。
自律する自由で自分を律することで、はじめて道徳的行いが内面から表われてきます。
自然界の本能(心)の自由はいかなる場合も非道徳的自由、また対極にある本性(こころ)からの行いも過剰なこうあるべきという「べき論」へ行きすぎる硬直した自由となることがありますので、人々の行いの自由に結びつく道徳性が社会生活には必要です。
道徳は社会の人々に認められたきまりや規範や価値観がまとめられたものです。それは、ある社会・ある集団だけに通用する特有なもの、道徳をどのように解釈するかでそれぞれ違った社会になるので無造作に他の社会や集団にあてはめることはできません。
世界のさまざまな道徳を普遍性ある一つのものへ集約しようとする試みがいつも挫折していますが、道徳には、正義・公平・尊厳・自由、という理念が欠けていては成り立たちません。
たしかに人の心の底に自然(本性)からの普遍的道徳をある程度持ちえていると多くの人は理解をしていますが、ただ、心の根底に等しくあるにもかかわらず地理的・歴史的・経済的など異なった背景のため、どうしても道徳観に幾つか一致しない点があるのも事実です。 道徳的な行いを「自律する自由」で自分自身を律し得えるのか?
というのが真の問題のようです。
道 徳=人間
道徳性=人間性