忘却のかなたから -10

東京都渋谷区 塚崎 義人

 

「かたよらないこころ、こだわらないこころ、とらわれないこころ、

ひろく、ひろく、もっとひろく〜〜〜」

薬師寺元管長・故高田好胤師

 

“見きわめる”眼力(生物世界)

 物質世界(宇宙)は150億年前、生命(核酸)は36億年前に地球で物質の化学反応から生まれました。核酸のふしぎさは自己複製と自己増殖、核酸は細胞に、細胞はさまざまな体の各器官となる多細胞体へ、多細胞体は組み合わさり何かしらの個体へ、さらに個体は多岐に枝分かれして多種多様な生物に変化していきます。

核酸の独特な生命力は、生物を重層的で階層構造(微生物から動植物や人間など)にしています。生物世界は生命(細胞)が統合された集合体ともいえます。

生物世界に、特異点・要素・体系・展開、を当てはめると。

1、特異点(矛盾現象の発生)・・・・・・・・・核酸の偶発的生成          

2、要 素(全体構造の基本要素)・・・・・・・核酸分子          

3、体 系(全体体系を基本要素で統一)・・・・不可避性の自己複製と増殖          

4、展 開(たどるべき道は定まる)・・・・・・種の保存圧力による自然淘汰

 

 生物世界で最も進歩の著しいのが“人類”です。

人類は約240万年前ごろ現れました。多種多様な種族が現れては消えるという足跡を刻みながら、現在の現生人類(現代人)にいたっています。

人類は、大きく三つのグループ(原人・旧人・新人)に分けられています。

 *原人(240万年前に、わずかに一部が1.2万年前ごろまで生存)

人類の最初の種といわれ、まだ樹上生活が適していたようで、動物の骨から簡単な道具を作れる「器用なヒト」といわれています。その後100万年前ごろには、間違いなく直立二足歩行をし精巧な道具を作り料理に火を使用するほど進歩していました。

*旧人(30万年前ごろから、3万年前頃まで)

原人よりさらに進歩し、現生人類(現代人)により近いのですが原始的ということで旧人の段階にある種族といわれています。

*新人(25万年前ごろから、現在の現代人に至ります)

最大の特徴は、極めて少ない人口から進歩が始まったと想定され、自然の厳しい環境の中で“賢さと知的さ”を糧に繁栄を謳歌している一種族です。

 

 現在、原人と旧人は世界のどこを見わたしても影も形もありません。人々は絶滅しました。その最大の原因と考えられているのが巨大な自然災害といわれています。

 7万年前中期ごろ、インドネシア、スマトラ島のトバ火山で大噴火がおきて、この時、火山灰は成層圏近くまで舞い上がって地球全体を覆い日光を遮り気温が平均5℃以下に低下し劇的な寒冷化は約6000年間続いたとされ、この寒冷化で生き残った人類(原人・旧人・新人)はかろうじて1万人程度と推定されます。

 さらに4万年前ごろ、イタリアやコーカサス山脈に相当する地域で火山が大噴火し、その種の災害とは規模が違って複数の火山がほぼ同時期に噴火、原人や旧人の人々は、駄目押しのかたちで残念ながら約3万年前にほとんどが滅亡していきました。

 

ただ、同時期にいた現生人類(現代人)はアフリカやアジアにそれなりの人数を抱えていたため絶滅だけは避けられました。かろうじて生き残った人々はボトルネック(正常な活動ができない)の極めて少ない一種族(1000-1万組弱の夫婦)から歩み始めたといわれ、そのため現代人は血のつながりがとても濃く遺伝上均質であまり遺伝的多様性も少ないようです。生物の最大の生命力(核酸)は「多様性」なのですが、一種族だけで今や70億人の人口を超えるとは? 

4、展 開(たどるべき道は定まる)・・・・・・種の保存圧力による自然淘汰

自然の摂理では、人口がこのまま増え続けると思いもよらぬ災害(天災・人災)で、再び極端な人口減少となる可能性(ある・ない)もあるやもしれません。 

 

でも、現生人類(現代人)はかならず困難を乗りこえるはずです。なぜなら他の生物とはまったく違う能力“賢さと知的さ”を兼ね備えていますから。

別な意味で、私たち現代人は生物の世界から急速に離れつつあるのかも?

 

1.社会現象を見きわめる-4(ものさし)

 道徳的な行いは、人々との人間関係に影響を与え社会を大きく左右させるものです。

なのですが、意外と自分の振る舞いが道徳的に善かったか・悪かったかまで気にする人はそうはいません。たまに何かの機会に公の場で議論を聞いたりして、はじめて自分の行いが社会道徳とだいぶ差のあることに気づくようです。

その差とは、たとえば社会の規範にただ従い従順過ぎる自分への葛藤とか、道徳と規範のズレの矛盾とか、きまりと自身の考えがぶつかり合うストレスなどがよくあります。

道徳的な行いについて、あらためて意識し考えを整理しようと権威ある話や議論をさらに聞くのですが明確な答えが見つからず、ますます心の中は混乱するはずです。

なぜなら、人の話を聞いただけでは問題の解決にはなりません。元来、道徳的な行いは本人自身が考え決めるもの、それと人はかならず何らかの社会に帰属し属する社会の道徳的行いの善悪をも考え決めなければなりませんから。 

遠い昔から、道徳には正義・公平・尊厳・自由の理念が、道徳的な行いには自律する自由が根底に普遍なものとして伝わってはいます。しかし、今なお世界には日々の生活のきまりから自由な考えの行いまで規定し、それぞれ内容も意味合いも異なる数多くの規範があります。どうしたら道徳観の原点に立ちもどれるでしょうか?

その一つのヒントとして知られてるのが倫理的な考えの黄金律(他人がしてもらいたいと思うような行為をせよ)にもとづくことのようです。宗教的・哲学的(キリスト教・ユダヤ教・ヒンドゥー教・イスラム教・論語など)なものに多く見ることができます。とくに聖書に由来する「自分にして欲しくないことは、他人にもしてはならない」、能動的に「自分にして欲しいことは、他人にもしてあげなさい」という言葉が有名です。

ただし、この「黄金律」は道徳的な行いの手本ではありません。道徳的な行いをする時の「ものさし」で、ある行いが道徳的だと認められるには、どのような行いをしなければならないかを指します。道徳的な行いは人に言われるものでなく自身のこころの表現です。

ただ、黄金律も解決できない問題が、それは熱狂的で狂信的な行動をとる人には役に立たず「たとえ世界が滅びようとも正義はなされなければならない」などと信じ切っている人で、一見、道徳的な行いのように見えますが彼らは決して真剣な対話に参加することはありません。

「道徳」に次の本質が、

1)自然な約束ごとが代々伝わってきた社会の価値観

2)価値観は時代で変化するが、本質が求めるものは絶対変化しない

3)考えや思いを通し一つの意味にまとめられたもの

 

黄金律:(おうごんりつ)一般にはイエス・キリストの「汝よ、為せ」

論 語:「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」