舛添報道と甘利報道の差

東京都小平市 小俣 一郎

 

舛添東京都知事が6月21日に辞職した。

政治資金の公私混同疑惑等を追及され、マスコミ報道等の圧力の中、与党自民党まで不信任案提出を決定するに至り、ついに15日に辞職願を提出。その後は定例記者会見はキャンセル、退任会見もなく、結局、真相を語らないまま都庁を去った。

22日に参議院選挙が始まり、話題はすでにそちらに移っているが、疑惑は何ら解明されていない。舛添氏を追い詰めたマスコミには、7月14日告示の都知事選に向けて、より良い都知事を選ぶためにも、また再発を防ぐためにも、真相の追及を続け、改めて問題点を浮き彫りにして欲しいものである。

それにしてもすごい報道の量だった。一方、5月31日に甘利前経済再生相が嫌疑不十分で不起訴になったが、この報道はまた単発に終わった。この落差はどのように考えればいいのであろうか。

今回の舛添問題に関するテレビでの連日・連夜の報道は、第二次安倍内閣以前の、第一次安倍内閣を、そして民主党政権を葬り去ったマスコミ報道を思い出させるほどの量だった。それに比べ、第二次安倍内閣以降は、小渕経済産業相、松島法相、西川農林水産相、そして甘利経済再生担当相と不祥事による大臣辞任は続いているが、それに対する報道はどれも単発である。

先にある講演会で、「全体から一部を切り取ったのがメディア。うそはつかないが誘導はする・・・」といったような内容を聞き、なるほどと思ったが、この2つの問題に対する報道の、特にテレビ報道のあまりの差に、その言葉が蘇った。

ネットでは甘利氏の不起訴に対する批判等もかなり展開されているが、テレビ報道は単発の、事実報道に終わっている。同時期に、舛添問題は連日テレビ報道されていたので、そのあまりのコントラストに、内閣の中にいるのと外にいるのとではこれほどまでに違うのかと驚きを覚えた。

国際NGO「国境なき記者団」が4月20日に2016年の「報道の自由度ランキング」を発表し、日本は対象の180カ国・地域のうち、前年より順位が11下がって72位だった(2010年には11位)。国境なき記者団は、特定秘密保護法の施行から1年余りを経て、「多くのメディアが自主規制し、独立性を欠いている」と指摘、メディアが自主規制に動くのは、「とりわけ首相に対してだ」としている。

もちろんこれもある一面からの物の見方かもしれない。しかし、自主規制をしなかったと思える今回のテレビ報道を見せられると、その差を改めて考えざるをえない。今回の舛添問題も、もしテレビがこれほどまでに報道しなかったとしたら、果たして舛添氏は辞任にまで追い込まれたのであろうか。

2つの問題を疑惑の内容から比較すれば、甘利問題の方がより悪質である。これがこのまま終わっていいわけがない。舛添報道で本来の姿を取り戻した?マスコミに、改めての切り込みを期待したいものである。