忘却への回帰 -1

東京都渋谷区 塚崎 義人

 

「かたよらないこころ、こだわらないこころ、とらわれないこころ、

ひろく、ひろく、もっとひろく〜〜〜」

薬師寺元管長・故高田好胤師

源流-1(心の世界)

現代人に“今”があるのは“賢さと知的さ”を心の糧にしたことです。最初の原人から240万年間、気の遠くなる時間(原人→旧人→新人)をかけ“心”を磨きに磨いて “賢さと知的さ”を高めてきました。

 

以前、忘却のかなたから-8-9-10で仮説の推論から物質世界(宇宙)と生物世界(生命)は特異点の矛盾現象によって誕生したと述べました。何らかの世界の中で特異点の矛盾現象が発生(偶然か必然)するとその特異点を起点にまったく新しい異なる世界が開かれるという考えです。  

・推論(仮謬主義=不確定で不規則現象の中に何らかの秩序を見る)

・特異点(ある基準の下、その基準が適用できない点)

・矛盾現象(連続していながら、まったく断絶している)

ふたたび、この不確定な不規則現象が生物世界の中で起きてそこを起点に心の世界が開かれたと、この考えの流れから三つの異なる世界は一定のつながりを持つが相互にまったく交流しない入れ子状態の構造「物質世界>生物世界>心の世界」の関係といえます。さらに近年、注目を浴びる人工知能AIartificial intelligence人間の知能をもつ機能)も心の世界の中で新たに開かれた世界と推論しました。

・物質世界>生物世界>心の世界>人工知能世界>(新たな世界???)

 

ここで素朴な疑問を、では“心とは何でしょうか?”

あらためて自身に問いかけると、よくわからないものが私の中に棲みつき私を束縛していることに気がつきます。そして何とも言いようのないこの不思議さから決して逃れられないことも分かっています。他の身近な動物にも心はあります。ですがここでいう人と同じ意味の心ではありません。

人の心は特別でしょうか、人の行為や行動は心に責任があるでしょうか、人の心そのものは人格でしょうか。一連の疑問に宗教的な意味合いからだとすんなり答えが出るのですが、科学的で論理的な答えとなるとなかなか難しいものがあります。

 

生物世界の中に心が現れてきたそもそもの発端は?

たぶん生物の進化の過程のいづれかの段階で現れたに違いありませんが、このことに誰も不思議に思わずどうしてそうなのか誰も説明を明確にできていないのが現状です。

残念ながら人々はこのことについて正面きって向き合わずにきてしまっています。一番先に知っておかなければならないのに知らない。人が心を持ったこと自体が問題なのに見過ごされています。ここでもう一度、心に対する視点を整理しさまざまな可能性(ある・ない)について思索することも大切です。なぜなら心をさらに磨き“賢さと知的さ”を高めなければ次の人工知能世界の話に入れないからです。

 

もともと地球は物質(無機物)だけの世界、なぜかそこに生物(有機物)が誕生

生物は生物学的属性の遺伝子(DNA)を頂点とする「生命(核酸)+細胞+多細胞+個体」の構造をした集合体(生物)です。生物の世界は遺伝子(DNA)が生物の行動すべてをコントロールする閉ざされた世界でした。なのになぜか生物学的属性から離れた心が生物に生まれています。生物を支配しコントロールするには遺伝子があるのに、なぜ心までが生まれなければならなかったのか? 

まず心についてよく知ろうと、心の源流ぎりぎりの発端まで訪ねてみることにします。現代人の辿る未来はこのことを抜きに進めません。