電子技術という怪物―人工知能による人間社会の変容

神奈川県藤沢市 清郷 伸人

 

この原稿は、いつものように筆者の主観を述べたものである。まったく非社会科学的で主張の根拠や証拠はない。あえていえば筆者の過去のすべての見聞に立脚しているが、特定はできないということである。したがって独断と偏見のそしりは免れないと覚悟している。ただ筆者とすれば独断の仮説が将来証明されず、誤ることを祈るのみである。

 

最近のAI(人工知能)をはじめとする電子技術の進歩、発展は目覚ましい。宇宙、軍事分野や自動車などの設計・製造、シンクタンクのデータ分析、テロ犯・犯罪者の顔認識や医療への応用などから囲碁将棋や対話ロボットに至るまで今までの常識では収まらない現実が生まれている。さらにインターネットやSNSの広がりは今までは不可能だった知識や情報の共有を瞬く間に実現している。

 

しかし、筆者がここで問題にしたいのは、その科学技術が人間にもたらす価値についてである。人間社会に大きなメリットをもたらした電子技術だが、それが何を生み出し、どこに行き着くのか、それは人間にとっていかなるものであるのかということである。

 

そもそも電子技術は人間の様々な能力の補完であった。桁違いの速さ、大きさを誇る計算力、記憶力によって人間から指示された問題を解決し、人間をサポートした。しかし、電子技術の発達はその機能が人間にとって代わるところまで来た。人間は進化する電子技術を駆使し、その万能性を知悉したことから次々と技術へのニーズが高まっていった。そしてそれらがことごとく実現したことで電子技術に自らの思考や行動を依存するようになってきた。著しい進化を見せるAIはその具現化である。

 

人間の科学技術によってAIの能力は目覚ましく広がり、深まっている。AIに膨大なデータを学ばせることで人間を超える思考能力(評価や判断能力)にも達しうることがわかった。身近な例では、自動車運転や社会データの分析・評価、医療データ(CTやMRIなど)の診断、テロ犯、強盗・万引き犯の予防的顔認識、囲碁将棋対戦がある。さらに癒し系の対話ロボットも話題になっている。しかし、人間の欲求と科学技術の可能性を考えると、これで留まるとは思えない。

 

電子技術による戦争の恐ろしさは、安全で快適な部屋からコンピュータ操作だけで、ピンポイント空爆、無人機爆撃から核攻撃まで可能であり、しかも大勢の人間を殺しているという感覚はなくゲームのバーチャルリアリティに近いと思われることにある。ナチスのホロコーストも冷徹な官僚的感覚で効率よく家畜を屠殺するように為されたが、電子技術はそれ以上に無感覚である。いわば電子技術は具象の戦争行為を抽象化してしまうのである。それは事物の人間化から機械化への飛躍である。戦争そのものをなくすことは難しいとすると、このような戦争が人類に何をもたらすだろうか。可能性を広げる宇宙技術も宇宙の解明だけなら問題ないが、必ず宇宙の利用、開発まで行く。そこで何が起こるかわからない。現在の地球がたどっているような自然破壊が起こるかもしれない。

 

軍事や宇宙分野以上にわれわれの身近で進んでいる電子技術に自動車の自動操縦や対話ロボットがある。不安定な人間からAIに運転を任せれば省力化、交通安全、渋滞回避、燃費改善などメリットは多い。ただ人間は代わりに運転能力を失い、運転の醍醐味を捨てることになる。またかわいらしい対話型ロボットはさらに進化し、人間とほとんど変わらなくなるだろう。何が起こるか。独居の人はもう他人が要らなくなるだろう。煩わしく、御しがたい生身の人間より従順で安全なロボットに親しむだろう。

 

またさらに身近なわれわれの家事や通信分野にもAI化の勢いはすさまじい。われわれの便利さ、快適さへの欲求は留まることを知らず、電子技術もそれに応えているからである。その根底にあるものは労働や辛苦、困難を回避したい意思である。あるいは人生や生活を金で買えるものでもっと楽しみたい、幸福になりたいという欲求である。それは自然なものに思えるが、AIにその達成を委ねているのであり、その行き着く先は人間の退化というものではないだろうか。

 

電子技術のなかった昔の家事は多大な労働と辛苦、困難を伴ったが、不幸ではなかった。家族の幸福を喜びとする愛に貫かれていたからだ。生活を支える仕事も同じである。好きな仕事に就ける人は少数で、大部分は生活のために働いた。しかし家族を食べさせ、社会の役に立つ喜びがあった。かれらの能力も意思も健全で退化はしなかった。いつの世でも、労働、辛苦、困難の中にかけがえのない価値はあり、幸福の鍵は潜んでいる。

 

その逆説的真実が現実となった例がある。財政破綻によって大きな病院が消え、医師が激減した夕張市民の健康データが予想に反してすべて向上したのである。現在の乏しい困難な状態を受け入れ、他を頼ることなく自らの意志で自分の健康と生活を律するという健全な自然的本能が働いた結果である。

 

一方、医療の世界でもAIの導入によるパラダイムシフトが視野に入っている。例えばAIによるCTやMRIなどの医療データの診断がきわめて正確だということである。膨大な医療データと疾病の情報をAIに記憶させれば、それは当然であろう。同じ意味で、AIは医師国家試験でもほぼ満点を取るだろう。診断が正確なら、あらゆる治療情報を記憶させることで最善の治療指示も可能となる。手術もロボットのダ・ビンチが進化すれば、きわめて高難度のもの以外の手術はAIに任せられる。

 

では大部分の医師は要らなくなるか。答えは否である。医学研究や予防医学、感染症パンデミックなどAIに対応できないと思われる分野もあるが、日常の臨床でも人間は医師の存在を求めていると思う。AIは病気を診ても病人は見ない。たしかにパソコンばかり見て患者を見ない医師もたくさんいるが、患者は自分の話を聞いてもらいたいのである。なぜならそこに自分にしかわからない訴えがあり、それを人間である医師に理解してもらい、診断してもらいたいからである。実際、臨床現場ではエビデンスベースだけではなく、多様で多面的な患者のナラティブをもベースとする医療が求められている。極言すれば、どれほどAIによる医療を受けても人間は老齢による衰えは防げず、いずれ死ぬ。多少の間違いはあっても最期まで医師に看取られることを人間は望むのではなかろうか。だからAIの進化によって患者の状態や情報を理解する医師が少なくなっていく将来は最悪なのである。

 

AIの進化がもたらす世界にはもっと恐ろしい可能性を予想させるものがある。生殖や育児のAI化である。それらのAI化とは、生物的自然から離れ、人工的な技術によって人間がそれらをデザインすることを指す。すべての遺伝子が解読され、神の領域だった宿命が既知化されれば、次はゲノム編集への意思がやってくる。生殖を人間の欲望や社会の要望のために人工的に操る科学技術は、黙っていれば自律的に進むであろう。人口減少対策や先天的障害防止やデザイナーベビー希求などのニーズを前に、人間の倫理的意志は科学技術への情熱に立ち向かえるだろうか。

 

生殖のAI化が始まれば、育児もAIによってデザインされるのは自然の流れである。最も優れた育児法がAIのデータ分析によって評価され、マニュアル化される。もしかするとそれは集団保育となるかもしれない。そして子供たちが成長して進学や進路を決める時もベストの判断をAIに仰ぐかもしれない。さらにはベストの配偶者もAIに選んでもらうかもしれない。今のわれわれが当たり前と思っている個々人の資質や能力からではない将来の夢や目標、自分が選んだ恋人や配偶者というものが無用になってくる。夢に向かって努力したが、打ち砕かれ挫折するという経験も、恋に悩み、配偶者に苦しむ人生もなくなる。無駄のないスムーズな世界―そのとき人間は生きることをどう考えるのだろう。

 

そのような光景はどこかで見たような気がする。1世紀近く前に作家のA・ハクスリーやG・オーウェルが描いた世界である。電子技術がついに空想の産物だったAIにたどり着いた現在、かれらの進みすぎた科学技術への怖れと警告は決して空想のものではない。

 

第2次世界大戦後コンピュータを発明した科学者は、AIの出現まで予見したそうである。しかし、それが最後にはフランケンシュタインになるかもしれないとは考えなかった。当時の科学者は、技術の可能性の追求を使命としており、その倫理的・社会的側面を考える役割はないからである。ナチスが滅びても科学者は核兵器競争に走った。その結果、核抑止力という人類滅亡の愚劣な袋小路に陥ったことが象徴している。

 

一方、れた文学者や哲学者は人間性の危機に敏感なものである。わずかな世界の変化に危機の予兆を感ずる。どんなに科学技術が進み、AIが人間社会に浸透していっても、人間であること、人間性を見つめ続ける原点に揺るぎがないため人間の危機、世界の変化を感じ取れるのである。人間性の萌芽期である乳幼児の頭脳が外的世界からの模倣・学習の過程でどんな神秘な創造の働きをするか、そして人格を形成していくかは神の領域としかいいようがない。優れた文学者や哲学者はそういう個々人の人間性への畏敬の念を決して手放さない。

 

電子技術がAIという究極の技術に到達する前に可能であったものに、情報アクセスとコミュニケーションに革命をもたらしたインターネットがある。インターネットもその万能性ゆえに増大するニーズに技術が次々に応えてきた結果、人間は座っているだけで世界と即時に大量につながることが可能となった。その利便性は多くの人にとってかけがえのない貴重なものである。しかし、それによって人間の知性が高まったと勘違いしてはならない。

 

インターネットは発信者の言葉や思想がすぐ拡散するため人々を動かし、世界を変革する強力な武器と思われている。しかし、これまで各地で見られた運動は一時的に盛り上がったが結局萎んでしまう。安易に届いた言葉では人間の魂までは動かせないからだ。これは変革を訴える政治的主張もツイッターやブログなどのSNSによる各人のコミュニケーションも同じである。その時々で大きな波紋を投げるが、泡と消えてしまう。言葉とコミュニケーションを消費しているだけである。知性とは何の縁もない。

 

人間の知性が高まるには長い時間と辛苦を要するのである。過去の革命は個人が生活も魂もすべて傾けて小さなところから始めた行動が、人々の魂を動かし時代を揺さぶったものである。コミュニケーションさえ命がけだった。また過去の学問、芸術など人間の知性の結晶はすべて手仕事である。魂が刻んだとしかいいようのない作品を遺している。だから受け手であるわれわれの魂に響くのである。

 

インターネットがもたらしたものは、自動車の出現によって人間の移動が格段に便利になったと同じ次元のことであり、道具が進化しただけで、人間の本質には関わらないのである。故郷を一歩も出ず、星をながめて思索したカントとわれわれは同じ人間である。