平成維新の会から四半世紀
代表 小俣 一郎
当会の前身である「平成維新の会」が産声を上げたのが平成4年11月25日。当会の活動はついに四半世紀を超えることになりました。そこで少しこれまでの歩みを振り返ってみたいと思います。
大前さんのこの指とまれで始まった平成維新の会は発足直後から旋風を巻き起こし、平成5年の細川政権の誕生にも貢献しました。総選挙では平成維新の会への推薦依頼が殺到し、会員の代表が各選挙区で推薦希望者を面接し評価するといったこともありました。その推薦議員108名の内、82人が当選し、政党の枠を超えて「生活者主権」の政策「83の法案デッサン」を実現するはずでした・・・。しかし、党議拘束の壁は厚く、平成維新の会は失速していくことになります。
その後、大前さんの都知事選立候補等もありましたが、平成7年の6月末で平成維新の会は会員活動を停止することになり、各地域組織がその会員活動を引き継ぐことになりました。当会が「平成維新を実現する都民の会」として平成維新の会・東京エリアの活動を引き継ぐことになったわけです。
平成維新を実現する都民の会は、平成7年7月9日に「設立総会」を開催。代表世話人(代表)に、東京エリアのエリアマネージャーだった江頭さんを選出して活動を開始しました。この頃の当会は東京エリアの活動を引き継ぎ、委員会を中心に活動をしていました。いろいろな委員会ができ、8月末段階でなんと24の委員会がありました。その後も新しいテーマには新しい委員会をつくることで対応し、活動を広げていきました。中でも「住専処理に反対する運動」は大いに盛り上がりました。
その後それらを絞り込み、議員候補者の推薦・支援活動や情報公開が当会のメインの活動になっていきますが、平成9年7月に治田さんが代表に選出されるとその方向性はより加速していきました。そして10年12月には「平成維新」の名前を取るか、会の名称を変更して推薦行為を継続するかの選択を迫られることになり、11年の1月7日に「生活者主権の会」に会の名称を変更して推薦行為を継続することになりました。そして、その思いが結実したのが平成12年6月の長妻さんの初当選でした。
ところがその直後当会は混乱します。12年7月に代表に選出された小枝さんが推薦行為に力を入れすぎているとこれまでの活動に異を唱え、ついには会の解散を提言するまでにエスカレート。そこで翌年2月に「臨時総会」が開催され、会の解散が否定され、活動の継続を確認しました。そしてその場で小枝代表が辞任、退会し、岡戸新代表が選出されることになりました。岡戸さんの時代には、推薦・支援活動や情報公開に加えて、道州制の実現、高速道路の無料化等をメインに活動が行われました。
当時は会則に「代表の任期は1年。原則として連続して4期以上再選されない。」との規定がありました。そこで平成16年7月の総会で私が代表に選出されることになりました。そして活動をより活性化するために、2期目の17年7月に初めて『政権交代の実現に貢献する』を会の活動方針に掲げました。より一歩踏み込んだ方針を打ち出して、新たな形での活動を開始したのです。
ところがところが、その直後の8月8日にあの「郵政解散」があり、小泉自民党が大勝。政権交代が遠のいたことに失望してそれまで当会活動の屋台骨であった杉原さんが退会してしまいました。活動方針の遂行どころか、会の活動を維持することに追われることになってしまったのです。
しかし、19年の長妻さんの「消えた年金」追及で状況はまた一変。21年の8月30日の総選挙でついに「政権交代」が実現しました。そして平成22年1月23日に「花見茶屋 あうる」で、当会が4期にわたって掲げてきた活動方針を達成することができたことを祝して『活動方針達成祝賀会』を開催したのでありました。
ただその頃にはすでに民主党政権に黄色信号が点灯し始めており、長妻さんの奮闘にもかかわらず、3年で国民の支持を失い、当会の活動も勢いを失うこととなりました。そして今日に至っています。
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これまでの25年を駆け足で振り返ってみましたが、思えば『活動方針達成祝賀会』が当会の活動の頂点であったかと思います。
しかし、平成維新の会のときを含め、当会は2度の政権交代に貢献することができました。市民運動としては「これ以上はないと言えるほどの成果を上げることができた」のではないでしょうか。