「非」の哲学について

東京都文京区 松井 孝司

 

生活者通信233号掲載の「21世紀の資本主義(2)」の中で紹介した「非」の哲学について説明が不足していましたので以下に補足させていただきます。

仏教に対する理解は人により異なりますが、私は仏教の思想は「非」の哲学であり、真実を追求する科学の思考方法に酷似すると理解しています。しかし、仏教経典に説かれる「非」という否定的表現は「有」でも「無」でもない存在を肯定するもので、論理的には矛盾する意味内容を持っており現代人にとって、はなはだ理解し難いものです。

法華経の開経である無量義経では「無量義は一法より生ず」と説かれ、その一法が「妙法蓮華経」のタイトルになっています。蓮の華は花が咲くとき同時に種をもっているので因果俱時の不思議な一法を体現する譬喩とされ、維摩経ではこの不思議な法を「不二」の法門と説き、その内容を問われた維摩詰は沈黙し「無言」で答えたことを称賛しています。

 仏教の初期経典には「諸の色は、過去、未来、現在、内、外、麁、細、好、醜、遠、近を問わず、一切は我に非ず、我がものに非ず、如実に観察すれば、受想行識(=心)またかくの如し」と説かれています。これは一般に無我説として知られるものですが、否定的に表現される我という存在は色や心の仮の集合体にすぎないことを説くものであって存在そのものを「無」と否定するものではありません。我という存在は「非色」、「非心」の「色心不二」の存在であることを意味しています。

 「非」という文字で表現される弁証法的否定は「反」とは異なることが重要です。一方を否定しながら、他方も否定し、同時に対立する要素の一体性、相互依存性を直感しているのです。

 20世紀に入ると科学の理論は革命的な変化を遂げました。相対性理論によれば時間と空間は一体不可分の関係にあり、量子論によれば空間を移動するエネルギーは波動であると同時に粒子として計測される不思議な存在であることが難解な数式を用いて説明できることがわかりました。

 パリ大学で科学史研究所の所長をつとめたガストン・バシュラールは現代科学の思考方法について考察し「否定による一般化は、それが否定するものを含んでいなければならない」といっていますが、これは非の哲学の重要なポイントです。アインシュタインの相対性理論は、非ニュートン的であっても反ニュートン的ではなく、ニュートン力学の拡張であり、ニュートン力学を包含しています。

 価値観が多様化し、価値観の違いで対立することが多い現代社会では「反」ではなく「非」の哲学で行動することが望ましいと考えます。

 「非」の哲学を実践する組織、人間は執着することがないので自己改革が可能になり、環境の変化にすみやかに対応し、低次元の争いに終止符を打ち、より広い視野に立って問題解決に取り組むことができるからです。