自己回帰 -4
東京都渋谷区 塚崎 義人
「かたよらないこころ、こだわらないこころ、とらわれないこころ、
ひろく、ひろく、もっとひろく~~~」
薬師寺元管長・故高田好胤師
こころ(統覚)-4
<心の世界の基本構造>
領 域 | 構 成
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
|(色) [ 縁 ] [ 無 明 ] [ 因 ]
眼 |・・・・・・・・ ↑↓
|(受) [ 四 諦 ] [ 照 見 ] [ 般 若 ]
・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑↓
| | |表
[ 羯 諦 ] [ 三 世 ] [ 涅 槃 ]
|意 | |象
意 | |(想)|・・・・ ↑↓
|識 | |心 [ 十 八 界 ] [ 波 羅 蜜 多 ]
| | |象
|・・・・・・・・・・・ ↑↓
識 |無 |(行) [ 創 ] [ 齢 ] [ 食 ]
|意 |・・・・・・・・ ↑↓
|識 |(識) [ 呪 ]
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「 色即是空 空即是色」。
(物質的現象には実体がない、実体がないとは物質的現象です)
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「無眼界 乃至無意識界」
(眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくありません)
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「自灯明・法灯明」
「自(みずか)らを灯明とし、
自らをより処として、他のものをより処としない。
法を灯明とし、
法をより処として、他のものをより処とすることのないように」と
ブッダは述べられた。
心の世界を知る最適な方法は、瞑想:「止観、(止は禅定・心のゆらぎをなくす。観は智慧・道理をきわめる)」、心構えは、自灯明・法灯明、といわれます。
自己回帰(ふりかえり見つめなおす)、ここでは瞑想(止観)を「無意識の意識化」と理解します。それは意識することを理解するには、無意識について理解しなければなりません。なぜなら、意識することは無意識から深く影響を受けているから、そして意識している・無意識かを選択するのは自分自身だからです。
現実、わたしたちは、普段、まわりの身近なできごと(有形・無形の物理的現象)を意識するのが精いっぱい、ましてや、自分自身について意識することはほとんどありません。ぜひ、自身の心の世界を「瞑想(無意識の意識化)」してみてください。
「領域」
心の世界の構造は二つの領域「眼と意識」で成りたちます。
眼の領域(色・受)は、人々のライフスタイル「社会現象(政治・文化・言語・芸術・精神)」から発生し起こる社会でのできごとを指します。
意識の領域(想・行・識)は、意識(想=表象・心象)と無意識(行・識)に分かれ、
ここで注意すべきは、心の世界は意識していることよりも無意識のままのものが、ほとんどを占めているということです。
社会のできごとは心の世界と表裏一体の関係です。お互い相補関係を保ち、社会で起こるすべての社会現象(政治・文化・言語・芸術・精神)は心の世界で起きていること、そのものということです。社会で起きていることを理解するには心の世界の内容を念入りに自己回帰(ふりかえり見つめなおす)することがとても大切です。
意識の領域は無意識が大半、無意識には意識(想:表象・心象)にまで達していない、とても多くの心の要素が含まれ、ある種の心的要素もあり、意識に常に影響する萌芽として心的要素は無意識の中に深く大きく潜んでいます。
無意識は静かで動かないものではなく、むしろ活発に心の世界の組み立てや再編成に取り組んでいます。社会現象(政治・文化・言語・芸術・精神)は、はっきりと眼に見え意識もできますが、なぜそうなったのか?という理由や原因は、なかなか見えず理解に苦しむことが多々あります。それは社会現象(政治・文化・言語・芸術・精神)が多くの人々の心の世界の集合されたもので、心の世界そのものだからです。
意識領域(意識と無意識)を自己回帰(ふりかえり見つめなおす)し始めると、意識している最も近い「想(表象・心象)」が見えてきます。この層には個人的な生活の心の要素や意識しようとすれば意識できる心理的要素とか、抑制している心的要因であったり、ほとんど個人的内容の心的要素・要因が見えてきます。これらは人格を形成するうえで不可欠なもので、これらの要素が意識から欠落するとさまざまな劣等性が生じます。それは身体的や生まれつきの障害がもたらす心理的なものでなく、心の世界にある良いこと・悪いことという道徳的な欠陥を引き起こす怠慢な性質をもったもので、道徳的欠陥は本来欠けてはならず、意識をしようとすればできるものです。
この欠落した道徳的な劣等感は社会での恣意的な道徳律とのぶつかりから生じるものでもなく、もともと、人が根源的に持つ心的要因「自己」とのつらい葛藤からで、心の世界の平衡を保とうとして生じてくるもので、心の世界に、このような劣等性意識が生じるのは、人が人格形成の道を進もうとするかぎり当然に伴うもので人が持つ道徳的な資質の本質です。
意識領域(意識・無意識)を自己回帰(ふりかえり見つめなおす)すればするほど、表れてくる内容は、懐かしい思いや願いや、性向や目論見などですが、でも、主に表れてくるのは不快感という感覚が多いようです。これらは不快なるがゆえに抑制されていたもので告白したり、改めようとしたり、また夢などによって意識上に表れてくるもので、ある意味、無意識の本質的な点に一つ一つ気づくことがあります。
そして、これらの心的要素すべてを意識できるようになると人格の拡大と自己回帰(ふりかえり見つめなおす)の深化をもたらすようになり、この「気づき」こそが何にもまして人を謙虚にし人間らしくさせるものです。
「深層的心」
無意識の奥底には、遺伝性(DNA)の心的要素が幅広く横たわっています。
この遺伝性の心的要素は生まれつきのものでさまざまな精神的機能として無意識の中に潜在しています。心の世界が他の人々も同じに均等で平均的ならば“普遍性の精神機能”という深層的な心の要素も同じように人々は持っているはずです。
ただ、心の世界の奥深くにある深層的心の精神機能を意識しようとする場合、細心の注意を払わなければなりません。もし方法を誤ると、誇大妄想や劣等感情という対をなす二重人格の両極端へ分離してしまう神経症の症状が生じてしまうことがあります。
例として、美徳と悪徳などが意識しやすいのですが、これらはもともと深層的心に含まれている道徳的な両極であって人為的に意識化されたにすぎず、この対立する両極の道徳という観念が深い無意識の深層的心にあることを意識しておくべきでしょう。
心の世界の深層的心から、ひとりの個人的な心の世界へと変化する過程で、個人的心の変化が初期的段階に止まっている人々、たとえば遠い昔から未開のジャングル(例、未開人)に住んでいる人々などの心の世界は実質的に深層的心の中に良いとか悪いとかの判断はありません。矛盾なく美徳と悪徳の両方を無意識の中に持っていられます。
心の世界の中で美徳と悪徳の矛盾が始まるのは子供から大人へ成長する過程で理性というものが熟成され、美徳と悪徳が両立せず対立するものと気づくとき、自身の心の世界を抑圧しているものとの向き合いが始まります。この相対する深層的心を抑制する心的要素の中には人格的成長に不可欠なものがたくさんあります。個人的心の成長が初期的段階に止まっている人々のように意識と無意識が心の世界で融合し同一な人々は、ほかの人々の個人的心を無視し抑圧したりします。
老若男女や集団や人種的等などさまざまな違いを考え認めないような社会では、徳行も悪行も個人のしるしを帯びるので、社会が成長発展すればするほど保守的な偏見による社会固有の深層的心が集積され、道徳観や精神的な個人の心は無視されるようになります。そうなると、その社会は深層的心だけになり個人的な心は無視され抑圧する対象となるので、人々は個人的心を無意識の中に滑り込ませ、社会は鬱積し閉塞感に満ちあふれ、社会にあるのは群居性のみが栄えるようになります。
そして社会固有の深層的なものが人々の心の背景にどっしりと止まり道徳的堕落の姿・形として陰に陽にあらわれます。そのような社会の人々は個人的責任からは免れるので、社会は平凡さを称賛し個人的なものはすべて壁際に押し付けられ、個人的心は抑圧され、ある意味、無意識的により劣った卑屈な人間にならざるえません。
人々は社会の環境に順応しきって、社会でのいかなる非道にも心をかき乱さないようになります。人々は社会的道徳律に無理に合わせようとするため個人的心の中に鬱積したものを抱え、本人が意識せずとも無意識の内容を詳細に見つめれば容易にわかります。社会と個人との関係でさまざまに起こるできごとは、遠い昔も現代も、はっきりと意識することができます。でも、自分の心の世界(意識と無意識との葛藤)でのできごとは本人にはよく見えません。この憂鬱な葛藤に見舞われた人々は、一般に病に侵された変人とか、さらに狂人と呼ばれても不思議でありません。
人にとって心の世界での深層的心(無意識の本能や考え)を受け入れ意識するのは極めて大変なことで相当な動揺をきたします。ですので、普段から人格的整合性(知性・理性・感性・体性・霊性)というものについて瞑想(無意識の意識化)し、自己回帰(ふりかえり見つめなおす)することが必要と考えます。
ところが、無意識は意識に付属するとか、深層的心は個人的心の中にあるとか、くっ付いているとか勘違いすると、個人の人格形成には重い負担と混乱を引きおこします。
深層的心と個人的心の中のさまざまな内容を明確に区別できるのがよいのですが、密接に相互が結びつき、個人的心は深層的心の中から育ち熟成されてくるので容易なことではありません。たとえば、夢の中の象徴的表現や本能(遺伝子)や考えや感情などは深層的であり、私たちが普段、個人的な心理だと思っているものの多くは深層的であって、あまりに多くのものが深層的なため個人的な“個性”などはその背後にかすんで消えてしまうほどです。
社会で”個性“といわれるものはほとんどすべて真似・摸倣です。社会の秩序を保っているのは法律でなく真似をする、最先端のもの、流行(はやりもの)、ネット拡散、暗示とか、精神的な感染も含んだ「社会の真似ごと」摸倣です。人々は卓越した人格や目ざましい特性や活動に接するとすぐに真似をします。それにより、たしかに外見上は身近な人々から区別されるのですが、普通“個性”といわれるものは真似による偽りで個性的分化の単なるポーズでしかありません。よく見つめると前と同じようなレベルに留まっていて、むしろ以前より不毛になったりさえしている人々もいます。
真の個性を見つけるには、より深い瞑想(無意識の意識化)と洞察が必要で、
“個性”の自己回帰(ふりかえり見つめなおす)が如何に困難を極めるものかと思い至っているところです。