自己回帰 -5

東京都渋谷区 塚崎 義人

 

「かたよらないこころ、こだわらないこころ、とらわれないこころ、

ひろく、ひろく、もっとひろく〜〜〜」

薬師寺元管長・故高田好胤師

 

こころ(統覚)-5

<瞑想(無意識の意識化)>

  領 域 | 構 成 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

|(色)       [  仮 装 (みせかけ、     仮象性)]

  眼  |・・・・・・・・          ↑↓

|(受)       [  自 分 (わたくし、      社会性)]

・・・・・・・・・・・・・・・・         ↑↓

      |  |   |表   [  自 我  (まわりとちがう、    個 人)]

      |意 |   |象

  意  |  |(想)|・・・・       ↑↓ 

      |識 |   |心  [  個 性  (あらわれる、        原 像)]

      |  |   |象

      |・・・・・・・・・・・       ↑↓

   識  |無 |(行)    [  人 格 (たいせつさ、      真 性)]

      |意 |・・・・・・・・       ↑↓

      |識 |(識)    [  自 己 (すべてあてはまる、  普 遍)]

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

自灯明・法灯明

自(みずか)らを灯明とし自らをより処として、

他のものをより処としない、

       法を灯明とし法をより処として、

他のものをより処とすることのないように。と

ブッダは述べられた。

 

心の世界は、眼の領域「(色・受)」と意識の領域「意識:想(表象)・(心象)」・「無意識:(行)・(識)」です。

自己回帰(ふりかえり見つめなおす)では、眼の領域「(色・受)」を「色=仮装(みせかけ)・受=自分(わたくし)」の社会的心に、意識の領域を、意識「想(表象=自我(まわりとちがう)・(心象=個性(あらわれる)」の個人的心に、無意識「行=人格(たいせつさ)」・「識=自己(すべてあてはまる)」の深層的心に、理解します。

 

<社会的心>

色 = 仮装(みせかけ)・・・・・・・・・・・・知性(求め、求められ  道理)     

受 = 自分(わたくし)・・・・・・・・・・・・理性(とらわれ     理解)

    ↓↑

<個人的心>

想 = 自我(まわりとちがう)・・・・・・・・・感性(ものごと     感動)

    個性(あらわれる  )

    ↑↓

<深層的心>

行 = 人格(たいせつさ)・・・・・・・・・・・体性(どのような    人生)

識 = 自己(すべてあてはまる)・・・・・・・・霊性(すぐれた     聡明)

 

人格的整合性(知性・理性・感性・体性・霊性)の瞑想(無意識の意識化)を!

 

 

「自我」

 

わたしたちが、意識しているのは個人的心の「自我(個性)」です。

自我は社会的心(仮装と自分)と深層的心(人格と自己)から影響を受けています。

でも、ややもすると「自我」だけを心の世界と勘違いするきらいがあります。

自我は多少の差はありますが、深層的心の一断面を恣意的に切り取ったとても狭い範囲のものです。たまに、深層的心の中の奥から根源的特質を持つ心的要素が「自我」に浮かんできます。これが心の世界を人格的成長へと影響を与えます。

でも、わたしたちは、普段、この心的要素を意外と見過ごすことが多いようです。

 

自我となる深層的心の一断面は心理的に社会的心の仮装(みせかけ)です。

仮装(みせかけ)は、社会に「自分(わたくし:社会性)は何々です?」と表していて、少なくとも深層的心の一部分を切り取っているだけなのですが、他の人々にとってはなんとなく個性的(まわりとちがう)な人であるかのように見えることです。

個性的な装いを凝らしていますが、その役割を通して演じられているのは、実際のところ深層的心にほかならず、個人的な装いは何ら実在のものでなく、一人の人が「何者かとして現われる」かを社会との一つの約束ごとで、性別や、性格や、名前や、肩書や、職務などなどから自分(わたくし)を演じ、これこれの人物としてなりきっています。これはある意味、社会からの要請による現実で、仮装(みせかけ)は一つの仮想現実の世界といえます。自我(まわりとちがう)として社会に登場しますが、だからといって根源的な心的要素である「自己」は心の世界の中から消えているわけではありません。

 

わたしたちが仮装(みせかけ)した「自我」にもっぱら固執したままになっていると、深層的心(人格・自己)からさまざまな反応を引きおこします。

それは、深層的心の中に抑えている個人的な心(遺伝性)や、より深い深層的心(人格形成の芽)がさまざまな心的要素を伴って、今まで抑え気味だった空想や妄想や思いなどが解き放たれ、深層的心と絡み合いながら自我に浮かび上がってくることです。

あらわれる空想や妄想など夢の中の深層的心のイメージの特徴というと、宇宙的や占いの脈絡や神秘さであったり宗教モチーフなどの独特な要素で、それらにより自我はさらに肥大していきます。たしかに深層的心は豊かな可能性に満ちたものだからと、仮装(みせかけ)を自らで解どいてみると、そこには自我を混乱させ幻惑し意のままにならない空想が解き放たれ、抑えることができなくなる場合が往々にしてあります。

以前には思ってもいなかったさまざまな内容が意識にもたらされるからです。 

 

深層的心からの強烈で独特な影響力は、仮装(みせかけ)を解消し、意識する力を弱めます。そうなると、心の世界は平穏さから平衡感覚がぐらぐらと不安定になり、気持ちはだるく何ごとにも消極的に、さらには自暴自棄に直面したり、気をつけないと精神的な障害を引き起こす場合があり、一種のパニック状態が起きることがあります。

心の世界の平衡感覚を保とうと努力を行うのですが、これらの挫折感は徐々に自我を崩し、気力はゆっくりと個人的心から消えていき、深層的心へと落ち込んでいきます。

そうゆう時に、深層的心が動き始める兆候があらわれ、個人的心から去ったエネルギーは明らかに無意識を活性化し深層的心の影響は増大し、知らず知らずに「無意識の意識化」の現象が始まります。

この平衡感覚の喪失は一種の精神的な障害に似てはいますが、精神障害の初期症状と異なるのは適切な助言や人間的な励ましなどにより気の迷いなどの障害を克服し、充実した健康を取り戻すことができることです。

 

平衡感覚の喪失は、ある意味、合目的です。

その喪失により、意識の働きは無意識の内容の活動にとって代わられ、深層的心の活動が新たな平衡感覚の組み立てを目指し、実際にそれを果たします。

ただ、新たな心の世界の平衡感覚には個人的心の自我が深層的心から生じるさまざまな内容を受け入れ理解し自分のものにできることが前提で、もし深層的心の人格(本能・DNA)の影響が強すぎると精神的な障害が生じたり、また無意識の内容の把握が中途半端で不完全で理解することが弱いと、心の世界の高揚を萎えさせるような葛藤が生じてしまいます。

深層的心への自己回帰は、慎重に瞑想(無意識の意識化)することが大切です。

 

 

「崩壊」

 

 意識(自我)が崩れるのは些細なことでなく一つの世界が没落することです。 

心の世界は無意識の影響の下に、混とんとし、方向を見失い、立ち往生し、不安定な状態に、自我の崩壊は心の世界の破局になるのかも、その逆に深層的心の奥から「内なる声」で新たな心の世界へと救われるかもしれません。

どちらにしても無意識の深層的心のさまざまな心的要素が意識(自我)に浮かびあがってくると、その強烈な説得力に、圧倒されてしまうのか? 頭から信じるのか? まったく拒否するのか? 意識(自我)は激しく動揺します。

たとえば、圧倒されると意識(自我)は妄想的もしくは分裂的になりやすく、また、そのまま信じると、おかしな言動をしたり変わり者という変人扱いや幼稚っぽい行いをしたりします。反対にまったく拒否すると、仮装(みせかけ)の退行的復元という以前のちっちゃな個人的な自我の枠内に引きこもってみたりするようです。

まずは、自身の心の世界の状態を静かに見つめてみることです。

 

 それ以外の例としては、よくあるパターンですが、無意識の深層的心(人格・自己)の扉を開け根源的特質の心的要素を探し当て同化し一体となろうとする行動です。

そうすることで、新たにさまざまな認識を得て、自分自身を変えるチャンスを発見できるかもしれず、人生の大きな転機になり心の世界は大きく拡がる可能性があります。

深層的心と同化したいと行動するのは、普通に誰しも思うことです。なぜなら、それは同化することによって、社会的心の仮装(みせかけ)を解消することができ、個人的心の記憶を消し去り、深く深層的心の中に沈みこんでいくことができ、言いかたを変えると、母なるものへの憧憬といっていいかもしれません。

このような気持ちは誰にも備わっている高い資質的なもので、自我という意識が生まれてきた源への自己回帰(ふりかえり見つめなおす)だからです。

 

ただ、深層的心との一体化しようとする行動には二つの心すべき課題が含まれます。

一つは、深い深層的心との一体化は、ある意味、無意識(人格・自己)を完全に知り尽くしたと錯覚し、高まる激情の思いに胸ふさがれ、自ら未来が予言できるとか、神の使いの預言者だとか、人々とは全く違うという思い込みの優越感に包まれて社会に登場してくることです。

確かに、人によっては預言者を具現する者として現れることに否定は致しません。でも、個々人それぞれの場合についてはちょっと批判的にならざる負えないのです。なぜなら、預言者の出現は無造作に信じるにはとても容易ならないと思えるからです。誰でも自分自身に崇高な役目が無意識のうちに課せられたと思う時などは、まず初めは謙虚に自分を見つめ、さらには身を守ろうとするものです。突然、急に現れてくる預言者の方々に関しては、むしろその方々の心の世界の平衡感覚が喪失しているのではと疑ってみたほうが、まずは賢明なようです。

 

二つ目は、預言者になるのもいいのですが、その預言者の使徒となり狡猾に見るからに理にかなった喜びに浸り、高潔な人といわれる預言者の重い責務を避け、品位のない甘っちょろい無為者となって、神妙に「師」の足元に座り、自身ではものを考えないように、それを徳と勘違いしている人々のことです。

預言者を崇高な神格化に祭り上げ、すばらしい真理を自ら発見したものでは無いにしても、少なくとも「師」自身から手に恭しく受け取り、自らは無意識の中で高邁な空想に浸り高みへと、使徒たる人々は互いに寄り添い、努力せずに楽して「師」の思いを得るための計算高い気持ちから、すべての責任は「師」に押しつけ知らん顔をしています。

 

預言者とか使徒といわれる多くのこれらの人々は、普段は見るからに控えめで、社会的心の仮装(みせかけ)に滑り込んでいます。だが、いったんそれぞれが深層的心と一体化したとたん、みるみる自我は肥大し始め、突如として社会の前に姿を現わします。

 

どちらにしても、深層的心と同一化しようとすることは、人々が、本来備えている大切な「個性」の自立性を損なう可能性があると、心しておくべきでしょう。