自己回帰 -6
東京都渋谷区 塚崎 義人
「かたよらないこころ、こだわらないこころ、とらわれないこころ、
ひろく、ひろく、もっとひろく〜〜〜」
薬師寺元管長・故高田好胤師
こころ(統覚)-6
<瞑想(無意識の意識化)>
領 域 | 構 成
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
|(色) [ 仮 装 (みせかけ、 仮象性)]
眼 |・・・・・・・・ ↑↓
|(受) [ 自 分 (わたくし、 社会性)]
・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑↓
| | |表
[ 自 我 (まわりとちがう、 個 人)]
|意 | |象
意 | |(想)|・・・・ ↑↓
|識 | |心 [ 個 性 (あらわれる、 原 像)]
| | |象
|・・・・・・・・・・・ ↑↓
識 |無 |(行) [ 人 格 (たいせつさ、 真 性)]
|意 |・・・・・・・・ ↑↓
|識 |(識) [ 自 己 (すべてあてはまる、 普 遍)]
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自灯明・法灯明
自(みずか)らを灯明とし自らをより処として、
他のものをより処としない、
法を灯明とし法をより処として、
他のものをより処とすることのないように。と
ブッダは述べられた。
<社会的心>
色 = 仮装(みせかけ)・・・・・・・・・・・・知性(求め、求められ 道理)
受 = 自分(わたくし)・・・・・・・・・・・・理性(とらわれ 理解)
↓↑
<個人的心>
想 = 自我(まわりとちがう)・・・・・・・・・感性(ものごと 感動)
個性(あらわれる )
↑↓
<深層的心>
行 = 人格(たいせつさ)・・・・・・・・・・・体性(どのような 人生)
識 = 自己(すべてあてはまる)・・・・・・・・霊性(すぐれた 聡明)
人格的整合性(知性・理性・感性・体性・霊性)の瞑想(無意識の意識化)!
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「暗示」
深層的心には、どのような可能性があるのでしょう。
それが何ものにも代えがたい究極さを指すとすれば、「自己実現」とか、「自己そのもの」になるとか、また個性化を求めることなのでしょうか。
前回、社会生活に欠かせない仮装(みせかけ)のための自己疎外や、自身の自己暗示的な意義に殉ずる自己放棄などについて述べました。
「自己」を疎外したり放棄をする。この場合「自己」は後ろの背景に退き深層的心の中に沈み込みます。そして、その行為は社会が理想とする目的にとても都合が良く大いに称賛されます。そして社会の利己的なものに誤用されたり、社会的義務とか社会的道徳とかによく利用されています。それは、これらの言葉の概念や意味の内容が明確にあまり理解されていなく、意外に個人主義とか個性化などもそうです。
個人主義というのは、心の要素は変わらず、心の機能や能力がユニークで変化に富み心の特質を際立たせることをいいます。個性化とは自身に与えられた定め(個性的存在)を実現させようと、その使命をしっかり心の世界に満たしきることをいいます。
そうすることによって、利己的になることもなく、仮装(みせかけ)の偽りからも解き放たれ、さらに深層的心のさまざまな暗示的な力からも解放されるからです。
心の世界深くには「自己」があることを意識します。
わたしたちは社会的な役割を仮装(みせかけ)で演じます。そして仮装の後ろに本音が隠れていたとしても、ある程度まで何を意味しているかは分かります。でも、深層的心となると内面を右往左往するばかりで、不思議な暗示の心的要素を説明するのは相当な努力がいります。たとえば例として、人格が大きく変化・変貌しやすい精神的な病とか創造的感性とか宗教的な改心などの人格の変化・変貌の直接の要因というのは、自身の心の中で強く確信しえたことが変化の直接の要因で、特に、宗教での改心は深層的心の中で強烈な心的葛藤ののち、人格変化の一変に至り頂点に達っしています。
社会的な環境の影響力は間接的でとても取るに足らないものです。
個人的心(自我)に圧倒的な暗示力で入ってくる不思議な心的要素は、一見、突然に入ってきたように見えますが、これは間違いです。長い年月にわたり、すこしずつ深層的心に芽生えながら、しばしば半生を通し蓄積され、ややもすると幼児期から見受けられます。それらの心的要素は、人生を過ごす合間に夢や空想や、思いや考えであったり、時に所作や行動にも表れます。
時々、自身の心の世界を自己回帰すると折に触れ見えるはずです。
深層的心(人格・自己)には、心の世界を自己調整する必要な心的要素のすべてが含まれ、それらは常に休まず活動変化して個人的心に働きかけてきます。わたしたちは時に、深層的心の性質がなんとなく推しはかられると考え、心の本質をありのままに理解できたとするのは妄想と思ってください。
心の世界「社会的心・個人的心・深層的心」は、ひとつの世界と意識します。
「実在」
瞑想(無意識の意識化)をつづけると、深層的心の表面にある自我のひと固まりは消え個人的な心の層も薄くなっていきます。
その先には、多くの人々と同じような心の世界を形作っている広い共通な領域が、多くの人々にとって、ことによるとすべての人々に当てはまる内容を含んだ課題や、誰にもある「善と悪」の葛藤などの根源的な問題が見えてきます。ただ勘違いしていけないことは、そこに立派な理想や思想や、きちっとした批判やすばらしい意見があり、深層的心の内容すべてを意識できると考えたりするのは間違いと思ってください。
なぜって、深層的心の範囲を広げていけばいくほど、そこからはさまざまな心的要素が絶え間なく送り出され、どこまで深く拡がっているのかわからない世界だからです。
心の世界(社会的心・個人的心・深層的・)が客観的にみて「実在」するという思いは目新しい考えではなく、物質世界と生物世界が実在すると同じように、遠くはるか昔から、独自の世界として実在しています。
たとえば、未開の人々は生前の魂と自然界の霊は存在するとはっきり意識をし、生前、善良であった人が、死後、亡霊となり危険な存在になるとか、精霊が人に悪さをすると信じています。
また、わたしたち現代の人々も幽霊をめぐって繰り広げるイメージのほとんどは先祖の霊に関してのもので霊界が実在するとの思いは脈々と引き継がれています。
ですが、未開人の精霊や現代人の先祖の霊(お盆のお迎えなど)も、どちらも、実際は心の世界での断片的な「心的原像(愛着・劣等感など)」の活動と考えられています。
この「心的原像(愛着・劣等感など)」は、幼い子供の頃からすこしづつ形成され、ご近所や世間との触れあいや、特にご両親からの影響が大きく、本人自身の心の世界がそれらに反応しながら生じてきます。ただ大人になる頃には「心的原像」は遠い記憶として無意識の深層的心深くに沈み込んでしまいます。
いつかご両親も亡くなり、そのまま時は過ぎていくのですが、自身の心の世界に何か強い衝動のきっかけがあると、この「心的原像」は突然、個人的心に強く投影され、それ自体、精霊であるかのように実在するイメージで作用します。
今でも、未開の人々は魂とか精霊といい、現代の人々は先祖の霊と呼んでいます。
「心的原像(愛着・劣等感など)」は実在します。