自己回帰 -7
東京都渋谷区 塚崎 義人
「かたよらないこころ、こだわらないこころ、とらわれないこころ、
ひろく、ひろく、もっとひろく〜〜〜」
薬師寺元管長・故高田好胤師
こころ(統覚)-7
<瞑想(無意識の意識化)>
領 域 | 構 成
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
|(色) [
仮 装 (みせかけ、 仮象性)]
眼 |・・・・・・・・ ↑↓
|(受) [
自 分 (わたくし、
社会性)]
・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑↓
| | |表 [
自 我 (まわりとちがう、 個 人)]
|意 | |象
意 | |(想)|・・・・ ↑↓
|識 | |心 [ 個 性 (あらわれる、 原 像)]
| | |象
|・・・・・・・・・・・ ↑↓
識 |無 |(行) [ 人 格 (たいせつさ、 真 性)]
|意 |・・・・・・・・ ↑↓
|識 |(識) [ 自 己 (すべてあてはまる、 普 遍)]
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自灯明・法灯明
自(みずか)らを灯明とし自らをより処として、
他のものをより処としない、
法を灯明とし法をより処として、
他のものをより処とすることのないように。と
ブッダは述べられた。
<社会的心>
色 = 仮装(みせかけ)・・・・・・・・・・・・知性(求め、求められ 道理)
受 = 自分(わたくし)・・・・・・・・・・・・理性(とらわれ 理解)
↓↑
<個人的心>
想 = 自我(まわりとちがう)・・・・・・・・・感性(ものごと 感動)
個性(あらわれる )
↑↓
<深層的心>
行 = 人格(たいせつさ)・・・・・・・・・・・体性(どのような 人生)
識 = 自己(すべてあてはまる)・・・・・・・・霊性(すぐれた 聡明)
人格的整合性(知性・理性・感性・体性・霊性)の瞑想(無意識の意識化)!
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「原像」
さまざまな心的原像(愛着・劣等感など)の中でも、考え得る最も大切なのがご両親(複雑な潜在的感情)の影響力です。ご両親に対する心的原像は人々にとって共通な祖先崇拝(お盆など)として。
成熟した社会では道徳的な教育的な制度として根づいています。
幼い子供にとって、身近で最も影響力があるのがご両親です。
でも、子供は成長するにつれ両親の影響力もすこしづつ弱くなり、子供たちの意識から除かれていきます。ですが、ご両親の心的原像は心の世界の外側に違う形(霊的イメージ)で、時に抑圧的で否定的なものとし影響力は自身の深層的心深く沈み込みます。
そのご両親の影響力(心的原像)の代わりとなる心的原像を生みだす要因が、社会生活上のさまざまな存在(男性には女性、女性には男性、兄弟、親戚、お隣、地域、社会的地位、権威、ポジションなどなど・・・)となります。
これらの社会的な存在はご両親のように深層的心の中に沈潜せず、むしろ、個人的心(自我)と結びつき目に見える形の心的原像として姿を現わします。
人との人間関係の中で、ゆるやかな仮装(みせかけ)存在です。
仮装(みせかけ)存在はその人の性格や性質は覆い隠されていますが、ほかの人にそれなりの好印象を与えます。社会は、その仮装したままの存在を受け入れ、可能な限り社会の中で仮装を演じてくれることを期待します。現代の社会では、特に社会維持のため仮装存在を一人の人格として認め、そのまま演じることを求めそれを望みます。
人は自分の存在を社会の中で認めてほしいものです。だれもがこうした期待に沿うよう仮装存在として行動するのは不思議でもなんでもありません。
社会で仮装を装うのは社会礼儀や公序良俗のため必要不可欠なものです。
その反面、仮装(みせかけ)存在の背後に生じるのが普通にゆうところの私生活です。
人は、仮装存在と私生活の自分というふたつの人格を持つようになります。
このふたつの人格を心理的に同時に操作するとなると、自身の無意識に何らかの影響を与えずに済むはずがありません。しばしば滑稽なほど隔たりするふたつの人格が心の世界を飛び回り激しく動揺している例を飽き飽きするほど見ることができます。
人は社会的役割にうまく合うよう仮装人格を装い、社会に溶け込もうと個人的心(自我)を無理に合わせようと本来の自己を犠牲にしています。
仮装人格の役柄そのものと、人は自身に信じ込ませています。
仮装人格を自分だと無理に納得させようとすると、時々、精神的な不安や強迫観念や優柔不断など感情的反応を呼び起こします。その葛藤の原因が仮装人格だと気づかないので、深層的心の心的要素からの影響力に対しても同じような精神状態になります。
人は、社会で表面上は仮装人格で力強い姿を演じます。でも、深層的心に対しては、女々しく、よわ弱しく、だらしなく、それどころか無気力となっていることが、いかに多いかを意識します。
仮装(みせかけ)人格との同一化は、あらゆる神経症の豊かな源泉です。
「人格」
前回、述べました個性化(利己的でなく、仮装でなく、暗示力に負けない)を自身の心の世界に満遍なく満たすには、まずはじめ、仮装(みせかけ)・自我(まわりとちがう)・心的原像(あらわれ)、それぞれから「自ら」を区別できることです。
そして仮装・自我・心的原像をはっきり意識することです。
意識していないものからは区別できません。
仮装人格と私生活上(自我)の人格は別と意識するのは簡単、ふたつが別なものと理解するのも案外やさしいものです。
ただ、心的原像から「自ら」を区別するとなると深く広い深層的心の範囲のことだけに難しいものがあります。なぜか、内面から来るすべての影響力は心の内奥そのものから発しているという。
人は誤った先入観を持っています。
仮装(みせかけ)する姿、人はをさまざまな装い方をします。
自我もひとつの人格、仮装(みせかけ)も程度の差はありますが一つの人格、なぜなら心的原像というのは、そもそも人格として姿を現したり人格化されたりする性質のものだからで、人は複数の人格を持つことになります。
そのため、仮装する姿も個人的な人格としてその姿を自分自身と思い込みます。
人は人格を複数持つので、多く人格された「自我」の中でどれが自分自身の本当の人格なのかと。
しょっちゅう、惑わされています。
深層的心から神経症的な心的原像(あらわれ)がよく現れる人は、心の世界に対する適応性がすこし欠けているかもしれません。それは、仮装(みせかけ)と違うばかりでなく心的原像とも違うという認識が弱いからのようです。
というのは、仮装(みせかけ)人格をじょうずに装うことのできる人にとって深層的心が実在するということがよく理解できません。また、仮装をうまく装うことができない人にとって社会のできごとの実在性がなかなか理解できず、社会は遠くから眺め興味をそそる対象でしかありません。
こころ(統覚)は「社会的心」と「個人的心」と「深層的心」で実在します。
知的に合理的にものごとを処理する人に、深層的心から生じる神経症的な心的原像への適応能力が弱いので、自身の仮装と向き合い対話しなければといったら。
ばからしいと思われるかもしれません。
仮装(みせかけ)は心的原像のひとつの自身の姿です。その姿を一人の人格として認め、その人格に対し客観的な「人格的問い」を差し向けることが必要です。
心の世界の探求には、自己回帰「瞑想(無意識の意識化)」が最適です。