自己回帰 -8
東京都渋谷区 塚崎 義人
「かたよらないこころ、こだわらないこころ、とらわれないこころ、
ひろく、ひろく、もっとひろく〜〜〜」
薬師寺元管長・故高田好胤師
こころ(統覚)-8
<瞑想(無意識の意識化)>
領 域 | 構 成
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
|(色) [
仮 装 (みせかけ、 仮象性)]
眼 |・・・・・・・・ ↑↓
|(受) [
自 分 (わたくし、
社会性)]
・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑↓
| | |表 [
自 我
(まわりとちがう、 個 人)]
|意 | |象
意 | |(想)|・・・・ ↑↓
|識 | |心 [ 個 性
(あらわれる、 原 像)]
| | |象
|・・・・・・・・・・・ ↑↓
識 |無 |(行) [ 人 格 (たいせつさ、 真 性)]
|意 |・・・・・・・・ ↑↓
|識 |(識) [
自 己 (すべてあてはまる、
普 遍)]
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自灯明・法灯明
自(みずか)らを灯明とし自らをより処として、
他のものをより処としない、
法を灯明とし法をより処として、
他のものをより処とすることのないように。と
ブッダは述べられた。
<社会的心>
色 = 仮装(みせかけ)・・・・・・・・・・・・知性(求め、求められ 道理)
受 = 自分(わたくし)・・・・・・・・・・・・理性(とらわれ 理解)
↓↑
<個人的心>
想 = 自我(まわりとちがう)・・・・・・・・・感性(ものごと 感動)
個性(あらわれる )
↑↓
<深層的心>
行 = 人格(たいせつさ)・・・・・・・・・・・体性(どのような 人生)
識 = 自己(すべてあてはまる)・・・・・・・・霊性(すぐれた 聡明)
人格的整合性(知性・理性・感性・体性・霊性)の瞑想(無意識の意識化)!
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「機能」
心の世界(社会的心・個人的心・深層的心)は、矛盾だらけの心(心理上の一点)が複雑に集まったもの決してまとまりはありません。そのような心(一点)が集まる、さまざまな心的原像(見えない人格)に。
目の前で、自由に表現させます。
表現によっては、人は激しい感情的症状に見まわれることがあります。
それは、あまりな人格(心的原像)に出会うので、ほんとうなのかと、おどろき。
あわてて、否定したり拒絶したりすることがあります。
人は動揺し不安に、不安は仮装人格(みせかけ)の足元を崩しはじめます。
そんな人格(心的原像)と向き合うことに耐えきれず。
たぶん、逃げ出すかもしれません。
心の世界に無関心な人ほど人格的整合性(知性・理性・感性・体性・霊性)はアンバランスです。もし、整合性を高めようと思うならば、さまざまな人格にはたらきかけ、その根底にひそむものを知ることです。
そこに、何が可能か、何が不可避かが見えてきます。
じっくりした瞑想(無意識の意識化)は、見えないものに馴染む力と防ぐ力が付くようになります。多彩な心的原像のすがたは、複雑で豊かで際限のないものです。
心的原像(見えない人格)は一つの心理的機能にすぎません。
心的原像が心理的機能なのだと気がつけば、仮装人格そのものと信じ込んでいる自身の考えは見直しがはじまります。心的原像(見えない人格)に対するこだわりから離れ無意識の中へ入っていける可能性が高まります。でも、心的原像(見えない人格)が単なる心理的機能と意識できないあいだは。
見えない人格をただ見つめるだけにして、意識化することは慎むべきです。
心的原像(見えない人格)とゆっくり向き合い、その内容を見つめてみましょう。
意識が十分に無意識過程に馴染んでいくと。
心的原像が単なる一つの機能ということが実感されます。
「混交」
瞑想(無意識の意識化)は、心的原像を解釈したり理解したりすることとは。
全く別なことです。
心的原像そのものの、さまざまな姿かたちを体験することです。
ただし、意識にも確たる姿勢が必要となります。
心的原像のすがたは空想イメージ、いかにも感情を掻き立てはしますが想像するだけのもの、そこに体験はありません。
夢や想像でしかなく非現実的なものです。
瞑想(無意識の意識化)を続けると、心的原像に空想を生み、そのすがたを単に見つめるだけでなく、自ら進んで体験することから、現実味を与えます。
そこに、空想の非合理なものに妥当性を見いだすことができます。
心的原像との体験はそう生易しいのものではありません。どう見ても、意図的でしかない空想を現実なものだと。
真面目にとることができるでしょうか。
心的原像はたしかに現実ではありません。ですが、人は日ごろの社会生活の中で過ちを犯しながら、表立った場で決して過ちなど犯さないと言い放っている現実もあります。
まったく相反する行いを人は平気でする傾向があります。
現実とは、現にはたらいていること、意識も無意識もはたらいています。
疑いもなく、空想の背後に何ものかがはたらいているのも現実です。
この事実は、真面目に受け取るべきです。
空想の体験だけで十分なのですが、いざ空想の背後にあるものも理解しようとするならば、空想と背後ではたらいているものと混同しないことです。
表面の空想は単なる表れでしかありませんから。
意識の感覚(五感機能)も無意識の空想もどちらも現実なので、たえず無意識の空想をしっかりと瞑想(無意識の意識化)し続けることです。
そうすると、心の世界にある変化がはじまります。
瞑想(無意識の意識化)していると、意識の範囲が拡がり、無意識からの影響力も薄くなり、ゆっくり人格の変化が生じます。この変化は遺伝的素質の変化でなく無意識での機能変化です。
ただ、往々にして、人格の変化は遠く背景に押しやられる傾向がありますが。
さまざまな空想の体験は、当然、意識する姿勢にも影響があり、意識と無意識の混合により確実に人格変容を生じさせます。積極的な瞑想(無意識の意識化)は無意識全体の体験へと進み、それらの体験を自分のものとしていくうちに。
人格の本質的な変化が始まります。
瞑想「無意識の意識化」は、人格の新たな平衡の中心点となります。多くの心的原像の人格された形姿が消え失せ、まっさらな「意識と無意識」との関係になります。
でも、注意してよくよく無意識を理解しないと、そこから否定的な活動や人格の心的原像の強い自律性が生じ、心の異常とかあんまりな偏った感情などが。
ついには、精神的な異常に至ってしまうことに気をつけましょう。
心の世界は「個性化」されることが不可欠です。なぜなら、心的原像との混交(まじわる)は、仮装人格と不一致にし、深層的心の強烈な影響により不可解な行動をさせたりするからです。混交することは、人をあらざる状態に、あらざる行動を、それに対しては同意も責任もとれませんから。
心の世界は、不自由で非論理的にされたままになる可能性が。
このような状態は神経的に堪えがたいものです。ですので、これこそ自分だ!これが自分の行動だ!私はこうするのだ!といえて、さらに、客観的に自分を無意識の内容から区別することができるようになれば
はっきり自分の行為を見つめ、自身で責任が取れるようになります。
無意識の内容が無意識内に留まるかぎりは、自身やまわりの人々との関係をゆがめたり、非現実的にしたりする幻惑的な錯覚状態は。
心に起こさずにすみます。
「個性化(利己的でなく・仮装でなく・暗示に負けない)」は必要不可欠です。
個性化は人にとって理想、人の行いうる最善な姿、と意識します。