自己回帰 -9
東京都渋谷区 塚崎 義人
「かたよらないこころ、こだわらないこころ、とらわれないこころ、
ひろく、ひろく、もっとひろく〜〜〜」
薬師寺元管長・故高田好胤師
こころ(統覚)-9
<瞑想(無意識の意識化)>
領 域 | 構 成
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
|(色) [
仮 装 (みせかけ、 仮象性)]
眼 |・・・・・・・・ ↑↓
|(受) [
自 分 (わたくし、
社会性)]
・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑↓
| | |表 [
自 我
(まわりとちがう、 個 人)]
|意 | |象
意 | |(想)|・・・・ ↑↓
|識 | |心 [ 個 性
(あらわれる、 原 像)]
| | |象
|・・・・・・・・・・・ ↑↓
識 |無 |(行) [ 人 格 (たいせつさ、 真 性)]
|意 |・・・・・・・・ ↑↓
|識 |(識) [
自 己 (すべてあてはまる、
普 遍)]
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自灯明・法灯明
自(みずか)らを灯明とし自らをより処として、
他のものをより処としない、
法を灯明とし法をより処として、
他のものをより処とすることのないように。と
ブッダは述べられた。
<社会的心>
色 = 仮装(みせかけ)・・・・・・・・・・・・知性(求め、求められ 道理)
受 = 自分(わたくし)・・・・・・・・・・・・理性(とらわれ 理解)
↓↑
<個人的心>
想 = 自我(まわりとちがう)・・・・・・・・・感性(ものごと 感動)
個性(あらわれる )
↑↓
<深層的心>
行 = 人格(たいせつさ)・・・・・・・・・・・体性(どのような 人生)
識 = 自己(すべてあてはまる)・・・・・・・・霊性(すぐれた 聡明)
人格的整合性(知性・理性・感性・体性・霊性)の瞑想(無意識の意識化)!
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「真性」
心的原像が心理的機能と実感できれば、さまざまなしがらみから解放されます。
そして、無意識のより深い自己認識(優越的霊感)から素朴さが投影。
直観的な真性(ほんもの)を感じるようになります。
真性(ほんもの)は、優越的霊感からのもので、ある考えや望みや感情を生じ、驚く行いをさせたり、人間関係を気難しいものにさせたりします。そのことに対し、本人として、まったくなすすべがなく。
なによりも、それにほれ込み満足している自分がいることです。
真性(ほんもの)を得た歴史的な人々には、英雄や偉人や聖者、あるいは魔術師とか、精霊をあやつれるとか、神とともにあるとか、常人でない方々。
とても優れたもので、人が持ちえる根源的な力の原形ともいえます。
真性(ほんもの)を得たというなら大した人物になった、そうなんでしょう。ただ、よく観察していると、その真性(ほんもの)が他の人々を納得させているかどうか。
もしかすると、偉大になったのではなく、ある心的原像と混交しただけと。
心的原像を克服せず、ましてや真性も獲得などせず、単に新たな混交が生じたにすぎないというのが、ほんとうのところかも。
瞑想(無意識の意識化)を深くした分、心的原像の尊大さがなくなっただけ。
心的原像を超えたのは錯覚、真性の術中(まぼろし)に落ちたようです。錯覚は危うく、無意識から強烈な影響が生じます。もし、自己認識(優越的霊感)から、ひらめきを感じたというならば。
誤った真性(ほんもの)という自尊の幻想を持ったと。
ゆっくり無意識の中へ、個人的な心的原像であったものが、自己認識(優越的霊感)らしき象徴的表現を含んだ心的原像へと。
真性(ほんもの)の幻影へと自然な流れのようです。
その幻影(心的原像)は儀式とか儀礼などにみられ,現在も、人生の中で成長していく節目ごとに。
社会の中で、仮装人格を演じさせる大切な役割(儀式)として。
昔から、少年から男性へ、少女から女性へ、動物から人間へ、移るための呪術的な重要な儀式として。
きわめて大きな精神的意義を持つものです。
現代では、よく見ると歴史的な儀式に匹敵するものが、何も残らず。
あえて言えば、何の意義もなく形骸化した成人式に見ることができます。
心的原像には、儀礼や儀式などに相当する象徴的表現(通過儀礼)なるものが含まれ、ここから生じる象徴的表現は人々が成長するためのもの。
よく観察すれば、現に人の行動に多大な影響を及ぼしています。
無意識は素朴で意図を持ちません。そのかわり潜在的な志向性が、それは、心的原像と前向きに向き合い、体験すればするほど。
そのままの流れで、次に目指すべきものが生じるのを感じるようになります。
無意識は無意識でなくなり、心的原像も心的原像でなくなります。でも、もしも、そのように感じるようにならないのでしたら。
心的原像は、単に錯乱したりする精神的な障害の要因にとどまるだけです。
世の中で、あらゆるヒステリックな幻影に悩まされる原因は心的原像です。そのような心的原像を、意識の中で単なる心理的機能の幻影と意識できるようになれると。
呪術的な真性(ほんもの)も解消し、無意識の一番深い底に達するはずです。
心的原像という現象は、ここにおいて完全に終わります。
「とりこ」
心的原像もきれいに消え失せ、もはや、あの呪術的な真性(ほんもの)の何ともいえぬ魅力も、起こるはずもなく。
心の世界はゆるがず、しずかな落ちつきに満たされます。
心的原像の幻影は消え、自己認識(優越的霊感)からの真性(ほんもの)は、真性人格となって姿をあらわします。
この流れは、ほとんど法則的なのかもしれません。
真性人格という優性形質は、遠く古く、英雄や賢人や宗教家などに、並はずれた影響力の姿を見ることができます。
見抜く眼力をお持ちの方には、その姿がいかに真性人格と感じられたのでは。
真性人格の姿をした方々に接っすると感嘆せずにいられません。父性や母性あふれる揺るぎない神々しさに、ふたたび、接し触ることができないものかと。
これらの方々を、ささやかな素朴さ(神々)で祀ることを辞さないものです。
大昔から今にいたるまで、なげかわしいのですが、この圧倒的な力から逃れることなどできず、心的原像の素朴さ(神々)として祀ることをやめないかぎり。
自然な流れとして繰り返されつづけるようです。
これら心的原像の素朴さ(神々)に心酔しきった人にとって、せめてのささやかさが、社会で仮装人格を演じるのを防ぐあたりが、精いっぱい。
真の真性人格と向き合うには、自身の姿勢を変えることです。
心的原像の素朴さ(神々)に夢中になりすぎると、仮装人格の背景にある人間性は、もはや、しだいに委縮するほかなく。
真性人格の優性形姿のとりことなる危うさを、しっかり意識します。
真性人格から一歩離れてみると、心的原像でもそうであったように、真性人格の特有な無意識的内容を。
いやでも、強烈に意識させられるようになります。
真性人格の元型となる内容を観察すればするほど、たとえば、男性は父親から、女性は母親から、そして社会的心・個人的心・深層的心からの真の自由へと。
独自の個性化(真の自由)に、はじめて目覚めます。
自らを真性人格と同一視しないのはいいとして、こんどは、とても現実離れした、絶対的という属性(心をそそられる)が。
たとえば天上の父に祀り上げてしまう可能性があります。
そうなってしまうと、また心的原像に絶対的優性が与えられ、あらゆる大切な人間性はそちらに流れ去って。
真性人格の元型といわれる幻影、素朴さ(神々)を祀りあげないことです。
幻影(神々)を祀りあげさえしなければ、自身の人間的な尊厳は保ち、無意識にもむやみに影響されない。
自分の重み(大切さ)を自身で意識できるようになります。
真性人格は、すぐれた知性であり、理性であり、やさしい感性なので。
真性人格の真底に脈々と横たわる深い意味を意識しましょう。
その深い意味するものは、意識にも無意識にもありません。意識であり無意識でもあるような、意識でなく無意識でもないような、漠然とするもの。
それを“なにものか”と呼ばせてもらいます。
“なにものか”すべてのあらゆる人格の中心点、心の世界の中でのさまざまな葛藤の帰結といえます。
このことに意識できるようになると、さらなる一歩へ!