吉野さんのノーベル賞受賞

東京都小平市 小俣 一郎

昨年、吉野彰さんがノーベル科学賞を受賞した。ノーベル委員会は受賞の理由として、リチウムイオン電池の開発に加え、「リチウムイオン電池はあらゆるものに使われるようになっており、化石燃料が不要となる社会が実現する可能性を切り開いた」ことを挙げた。そして吉野さんもそれに応えるようにインタビューで「再生可能エネルギーで発電する社会システムを作っていかなければいけないと思います。電気自動車が普及すれば、巨大な蓄電システムが自動的にできあがることになります。そうすれば、太陽光発電や風力発電ももっと普及しやすくなります。そうしたことが実現すれば、環境問題へのいちばん大きな貢献になると思います」と話している。

日本は、化石燃料が乏しい国であるが、太陽光や風力等には恵まれている。その普及が進まないのは電力の安定供給に難があるからだが、リチウムイオン電池はそれを解消してくれるわけで、それこそ吉野さんのノーベル賞受賞を契機に、国民にも協力を求め、その方向へ大きく舵を切るべきではないのか。

昨年の12月に開催されたCOP25では、期待された小泉新環境大臣も官邸から止められて石炭火力発電抑制策を打ち出せず、環境NGOから温暖化対策に後ろ向きな国に贈られる「化石賞」という不名誉な賞を受けてしまった。現状はともかく、将来的にどのように石炭火力発電を減らし、再生可能エネルギーに切り替えていく計画なのかを表明すべきではなかったのか。吉野さんのノーベル賞受賞の直後に行われたCOP25でそのように表明すれば日本への評価は大きく上がったはずである。日本は四方を海に囲まれた島国であり、地球温暖化による海面上昇の被害を大きく受ける国である。だからこそ地球温暖化対策の先頭に立つべきではないのか。

また昨年は大型台風の被害を受けたが、そこでは太陽光発電や電気自動車が改めて新たな可能性を示した。停電した被災地に電気自動車が救援に入り電気を供給したことで、電気自動車の蓄電池としての可能性が広く国民に知れることにもなった。メーカーもそれをより前面に打ち出してきている。

地震や台風は今年も日本を苦しめるであろう。停電の発生も予想される。しかしその際も、太陽光発電と蓄電池あるいは電気自動車を備えた家は暗闇から開放される。そのような家が多くあれば多くあるほど災害からの被害を少なくすることができるのである。電気は生活の必需品であり、それがない生活は不便極まりない。ならばその普及をもっともっと国は後押しすべきではないのか。

太陽光発電や電気自動車の長所は個々人のレベルでも対応できることである。国がその普及にもっと力を入れ、普及がより進めば、価格も下がり、更に普及が進むというプラスのサイクルに入れる。国が災害対策として、地球温暖化対策としてそれを進めるという方針を、施策を打ち出せば国民の協力も得られるのではないか。

補助金等をより充実されることも必要だか、そこに回せる財源はそれほど増やせないであろう。ならば、贈与税を活用してはどうか。太陽光発電や家庭用蓄電池、電気自動車の贈与には贈与税を免除するのである。そうすれば、災害対策に相続税対策が加わりお金が動くのではないだろうか。最初はお金のある人に有利であるが、利用が進めば価格は必ず下がってくる。そうなれば多くの人が購入できるようになり、その利益は広く行き渡るはずである。太陽光発電や家庭用蓄電池は分散型エネルギー発電の可能性を広げ、また電気自動車の普及が進めば、排気ガスや騒音の問題の改善にも役立つ。

 より進化した全固体リチウムイオン電池の実用化も近いと聞く。先日は「窓ガラスで太陽光発電を行う」研究が京大で進められていて、「23年ごろまでには実用化のメドをつけたい」との新聞記事を読んだ。まさしく技術は日進月歩である。

 安倍首相は原子力発電に固執し、再生可能エネルギーには熱心でないが、吉野さんのノーベル賞受賞はそれを転換せよとの「天の声」ではないのか。国民の多くが不安を持ち、反対しているものはやめて、国民がその実現に気持ちよく協力できるものにすべきではないか。

個々人が災害対策として太陽光発電や家庭用蓄電池、電気自動車等で停電に備える。それは個々には小さいものであろうが、集まれば大きな電力にもなる。そしてそれは国民が自分の力で参加できるものでもある。いまこそラグビーワールドカップで称賛された日本のチーム力を生かして低炭素社会の実現に邁進すべきではないのか。それこそ日本が世界から期待されていることではないか。