小俣さんのご回答について
東京都立川市 石川 康弘
240号の私の投稿に対する小俣さんのご回答について、コメントさせて頂きます。
1.「地球温暖化」のウソ
海面の上昇はCO2増加による「地球温暖化」が原因ではなく、地球の公転軌道の変化による海水温の上昇が原因です。「地球温暖化」も海水温の上昇が原因です。
浴室の気温が上昇しても、浴槽の水温は大して上昇しませんが、浴槽の水温が上昇すれば、浴室の気温は相当上昇します。これと同じ理屈です。
地球は長い歴史の中で、公転軌道の変化により、絶えず海水温と海面の上下動のサイクルを繰り返しています。人類の叡智をもってしても、この法則に逆らうことはできません。それにも拘わらず、「地球温暖化」の原因をCO2と決めつけ、CO2を大量に発散する化石燃料を目の敵にするのは、欺瞞という他ありません。
「地球温暖化」に対する危機感について、様々な例示を下にご説明頂きましたが、国連にせよパリ協定にせよ、その原因をCO2に求める限り、「一部の環境NGO」と同類とするしかありません。
巨大台風や大地震による水害もまた自然現象であって、人間の力で防ぐことはできません。事前に情報を察知して早期に対策を打つ、過去最大の被害を元に水路や岸壁を整備しておく等、被害を最小限に留めるべく努力するより他ないと思われます。
2.「再生可能エネルギー」の現実
前号の投稿でも言及した通り、日照時間や風に頼る発電の稼働率はとても低いのです。太陽光は13%、風力は19%でしかありません。平均すると15%程度です。
仮に太陽光と風力の発電割合を15%とすると、太陽がガンガン照りつけ、風がビュンビュン吹き荒れて、太陽光と風力の発電能力がベースロード電源とほぼ同量の100%全開になった場合は、プラス85%の電力が一気に放出されます。こんなものを電力ネットワークが吸収できるわけがなく、一発でサージしブラックアウトしてしまいます。
85%は極端だとしても、需要量を40%か50%上回るぐらいの電力が一気に放出されるリスクはあります。これだけでも明らかに非現実的です。
なぜなら、全体の需要量を上回った分だけ、火力発電や原発の稼働を止めなくてはならないからです。しかし、火力や原子力の大型発電施設は需要に合わせて操業するには適していません。また、これ程の容量を蓄電池に貯め込むことはできません。
逆に、曇天かつ無風のため、風力も太陽光も駄目という場合は、火力で追加的に15%分発電して補わなくてはなりません。これは普段から15%の余剰電力を温存しておかねばならないということであり、いかにも無駄です。
日本の太陽光と風力に、おっしゃるようなポテンシャルがあることは認めます。しかし、平均稼働率が15%ということと、巨大な余剰電力を貯蔵しておく術がないことを考えると、現状では主力な電力源とするのは不可能と判断せざるを得ません。
3.「蓄電池」の可能性
前項でも言及しましたが、「再生可能エネルギー」の鍵を握っているのは「蓄電池」です。蓄電池技術の飛躍的な発展なくして、「再生可能エネルギー」が「化石燃料」に取って代わることはあり得ません。
但し、「電気自動車の蓄電池としての可能性」は、私も認識しています。家庭用蓄電源として、もっと普及が推進されるべきと考えます。
4.「原発反対」について
こちらは更に詳しくお考えを伺ったため、理解が深まりました。「人間は間違う」とのご指摘には、異論を挟む余地もありません。福島第一原発の事故は、大地震・大津波による「天災」ではなく「人災」です。
しかし、日本の原発の危うさと原発技術自体の可能性をごっちゃに論じてはいけないと思います。別稿で松井孝司さんがコメントされていますが、福島第一原発の第1〜4号炉の爆発事故の要因は設計上のミスだからです。
福島第一原発は、電源建屋を低い場所に設置したため、津波で水没し非常用電源を失い冷温停止できず、とうとうメルトダウンしてしまいました。海水注入の判断が遅れたのもかなりの痛手でした。
その一方で、福島第一原発と同様に震源地に近く地震の揺れが大きかった、福島第二原発と女川原発は、地震に耐え全ての原子炉は安全に停止しました。
ただ、原発の可能性は信じるものの、現状では再稼働の是非に疑問を禁じ得ません。仮に完全に水没してしまっても、電源と冷却源を確保できる多重的・多様的な安全対策を施した原発でなければ、再稼働してはならないと考えます。
5.「大前氏の大切な教え」について
小俣さんのご投稿内容の一部を批判しているに過ぎず、小俣さん個人の思想や当会の理念を批判しているわけではありません。また、ご指摘の通り「大前氏の大切な教え」は飽くまで私個人の見解であって、これを当会の方々に押し付けるつもりは毛頭ございません。
ただ、当会の前身の「平成維新の会」は、大前氏の「ものの見方・考え方」を具現化するために発足した市民団体である、とは言えるのではないでしょうか。
大前氏は一時期、都政や国政の場で権力を握ることを目指していましたが、実現不可能と悟るときっぱり一線から退きました。そして、『大前研一敗戦記』を上梓し、徹底して自身の政治活動を批判しました。大前氏は自らの政治活動においても、「権力の批判」を怠らなかったわけです。そういう意味では、私の見解と矛盾はないと思われます。
大前氏が都知事選に勝利していたら、現在の都知事や府知事のように権力の虜になることもなかったでしょう。現状を思うと、かえすがえす残念でなりません。
6.「大衆迎合との指摘」について
こちらももう少し詳しくお考えを伺ってみて、飽くまで見解の相違によるものであり、ご自身でこのテーマについて深く知見を蓄積し発信もされており、無批判に「大衆に迎合」しているわけではないことを理解しました。
すべての「企業や環境運動家等」まで権力に含めるつもりはありませんが、グレタ・トゥンベリを支えるスウェーデンの環境団体やその資金をバックアップする投資家やエネルギー会社などは、「権力」と見做して差し支えないでしょう。
グレタ・トゥンベリのメディア・プロモーションを担っているのは、環境NGOで環境ベンチャーでもある「We Have No Time(我々には時間がない)」という団体です。その目的はヨーロッパ全体で原発と火力発電を止め、彼らの投資している「再生可能エネルギー」に政府の補助金を出させることです。「地球温暖化」を盾にCO2規制を仕掛けては、発展途上国の産業を圧迫しているのは、彼らのデモンストレーションの一環なのです。彼らの代表者は「グレタは道具だ」と堂々と述べています。彼女の国連への出席は、彼らにとって大勝利なのでしょう。