新型コロナで医療需要は変わるか

 

                         神奈川県藤沢市 清郷 伸人

                          (元がん患者)

 

 筆者は、住んでいる藤沢市の自治体病院に設けられた運営協議会で市民代表の委員を務めている。先日、5か月ぶりに協議会が開催された。当病院は湘南地域の基幹医療機関だが、2月横浜に寄港したクルーズ船の新型コロナ感染症への対応では、急きょ患者十数名を受け入れ、さらにその後も指定医療機関として新型コロナ患者の診療に当たっている。しかし、そのため救急を含む一般の外来、入院患者の診療を制限せざるを得ず、またコロナ感染を怖れる患者が自発的に通院を控えるようになったことから医療収入は大幅に落ち込んだことが明らかとなった。

 

新型コロナの収束もまったく見通せず、医療収入の回復もなかなか見込めないことから病院経営には危機感をもって当たりたいという報告が病院からなされたとき、医師会関係者から次のような発言があった。入院患者には大部屋でなく、個室に入ってもらい、しっかり料金を徴収したらいい、その際個室の方が手術も早く行えるなどとして誘導したらどうかというのである。

 

任意に支払われる金銭によって提供する医療に差をつけるという考え方は珍しくないが、自治体病院においてしかも手術日を金銭で調整するというこの発言には強い違和感を禁じ得なかった。しかし、筆者は医師会幹部のこの発言はもしかすると一定の医療者の本音、真意かもしれないと考えるようになった。この自治体病院だけでなく高度医療や救急医療、重症患者を担う大規模病院はもちろん市中の病院、診療所も新型コロナによる受診抑制、収入減少の荒波を受けている。この減収や経営不振を国や自治体に補償してもらいたいというそれら医療機関の声も聞こえる。(実際、日本薬剤師会などは早々に政府に薬局経営に対する財政支援の要望書を提出した)

 

しかし、この事態は近視眼的な応急処置で済むような簡単な変化ではないかもしれない。この事態をどう見るかは、今後の医療機関の行く末に関わってくると思われる。この医療需要減少の本質は何か、一時的なものかそうではないか、患者や国民が本当に望んでいる医療とはどういうものか、ある意味で滅多にない非常事態である現在は、そういうことを考える好機ともいえる。

 

新型コロナの感染を怖れることが受診抑制の主な原因なら、短期的にはオンライン診療や電子処方せんなどで対応すればある程度解決すると考えられるし、治療薬やワクチンができれば、インフルエンザのように対面診療への影響もなくなるかもしれない。しかし、国民の医療需要への意識が今回の非常事態で変化を迫られたという可能性も考えられる。OECDのHealth Statistics 2019によると、日本の人口千人当たりの病床数は13.1床(米英2、独仏8)、入院日数は28日(他は1ケタ)、1人当たり外来回数は12.6回(他は26、独は10)となっており、先進国(もちろん世界)でも突出している。しかし、医療費は1人当たりでも対GDP比でも中位である。ちなみに臨床医は人口千人当たり2.4人で最下位となっている。ここからは少数の医師が割安な医療費で多くの患者の診療に当たっている構図が見て取れる。医療の効率はきわめて悪いが、医師の生産性は高いともいえる。診療の頻度が高いのに医療費は普通ということを裏返してみると、患者の医療費負担が少ないということであり、それが今まで患者の過剰な医療需要を招いていたかもしれない。あるいは低い診療報酬で医療側の高い収入を維持するために医師が過剰に医療需要を掘り起こし、高い頻度の受診回数や長い入院日数を作り出していたかもしれない。英国では患者の医療費が無料にもかかわらず外来回数、入院日数ともきわめて少ないことを考えると、国民性の違いはあるとしても医療側による過剰医療の可能性が高いが、今回の受診抑制は患者側の方も馴らされていた過剰医療の固定観念が解けて、そういう需要が削ぎ落ちたのではなかろうか。

 

 それが今の変化の本質であったとして、現に経営難に陥った医療機関をどうするかという問題は残されたままである。過剰な規模の供給者が淘汰されるのは自然なことなのだが、人間社会では不合理な場合がある。例えば大手航空会社や大手金融機関などは社会に不可欠の重要なインフラであるため、自然淘汰に任せるわけにはいかない。大規模病院も同様である。地域の基幹病院である自治体病院や大学病院、総合病院などは、その機能と役割を維持しなければならない。そのために普段から国や自治体により金額に多寡はあれども補助金が入っている。なぜなら全国一律の低い診療報酬で高度医療、先進医療、救急医療や重症患者治療など難しい医療を担い、効率性よりも公共性を重視した病院経営を強いられていることから赤字経営を免れないからである。このような事情を抱えた大規模病院への支援は、社会の合意を得られると思われる。

 

 一方で診療所など中小の医療機関にとって、今回の新型コロナにより医療需要に本当に変化が起きたなら極めて重大なことになる。しかし、個々の診療所などの減収を補償したり救済することに対して社会の合意を得ることは難しいだろう。なぜなら価格競争の生じない診療報酬と自由放任ともいえる強い診療の裁量権に守られた診療所の医師は、普通に高収入を保証されてきたからである。その減収に耐え切れず仮に診療所を閉じることになったら、圧倒的に不足している勤務医になるという道もある。しかし、家庭医や訪問診療、看取りなど地域に密着した医療を行っている診療所の需要などは、決して減ることはないであろう。

 

不必要な医療を再評価して排除する「Choosing Wisely」は今や世界的な潮流となっているが、これまでの日本はまだまだ遅れを取っていた。もし今回の新型コロナ禍を契機に日本の国民が賢い患者になれたとしたら、医療機関への減収補償などは焼け石に水である。受診抑制は重症化を招くとか、がん検診で早期発見、早期治療と魔法の杖のように唱えても要は程度問題である。受診回数を半分にしても海外先進国にまだ及ばないし、中高年にはがん検診は必要だが、最も医療費のかかる後期高齢者にまで網をかける必要はあるだろうか。日本でも財政破綻して医師が激減し、公立病院も縮小した夕張市の市民の健康データが予想に反して改善したという例がある。真に必要な医療を見極めるときがきている。今回の国民の行動がそのように前向きなものなら、われわれの社会はとめどなく膨れ上がる医療費による国や自治体の財政危機を回避するチャンスとしなければならない。それが将来世代への現役世代の責任である。

  (本稿はMRICからの転載です)