たどるべき-8
東京都渋谷区 塚崎 義人
「かたよらないこころ、こだわらないこころ、とらわれないこころ、
ひろく、ひろく、もっとひろく〜〜〜」
薬師寺元管長・故高田好胤師
物質、生命、こころ、
どの世界にも同化できる善い考え
なにを、受けつぎ 過去(祖先は)
なにを、受けつがせ 現在(家族は)
なにを、受けつぐ 未来(子孫は)
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社会的原像4・・・創(3)
「機能(はたらき)」
*原像のすがた(仮装、私的、深層)が、複雑に絡みあう社会、
そこは、矛盾だらけ、決してまとまりは、ない。
*絡みあう、さまざまな原像の、それぞれのすがたに、時おり、
社会は、目の前で、自由に表現させ、自身を語らせては。
*ただし、表現によっては、社会は落ちつかなく、感情的な不安へ、
あまりな語りに、おどろき、ほんとうなのかと、あわてふためく。
*そのような不安は、今ある社会のすがたの足もとを、崩しはじめる、
そのすがたに、向きあうのに耐えきれず、逃げだしたくなるかも。
*原像に無関心な社会ほど、知性、理性、感性、体性、霊性はアンバランス、
だから、ときどき原像にはたらきかけ、その根底にひそむものに。
*いつもの日課(食・齢・創)は、そのひそむ見えないものと向きあう、
すこしづつ馴染んで そうこうして、ぼんやりと見えてくるものが。
*そこは豊かで際限のないところ、見えてくるものは、
そう、原像って、ひとつのはたらきをする機能でしかないことが。
*原像は、社会そのものと信じこんでいたのに、ひとつの機能なのだと気づくと、
すがた(仮装、私的、深層)の絡みあう社会の、見なおしがはじまるのでは
*原像(多重さ)へのとらわれから、離れられることは、まさに、
社会のより深層へと、それなりに入っていけそうな感じが。
*ただし、原像が単なる社会での機能(はたらき)なのだと、理解できないあいだは、
すがたを、ただじっと見つめるだけ、こうだと決めつけることはしないように。
*ゆっくりと原像と向き合い、その人柄をじっくりと見つめていれば、
すがた(仮装・私的、深層)が、社会とひとつにとけあっていることを。
原像(多重さ)は単なるひとつの機能(はたらき)と、そうわかれば。
「混じりあう」
*日々、日課(食・齢・創)を、こなしているからといって、
原像について、わかったなどとは、社会には別なことを。
*それは、原像のさまざまな姿かたち、そのものを体験してみる、
ただし、社会は、それなりの姿勢がひつように。
*すがた(仮装・私的、深層)は、社会に感情をかきたて、いつも思わせぶりを、
そう、すがたは仮想、そこに実体はなく、とても現実とはいえないもの。
*でも、社会は単にすがたを見つめるだけでなく、みずから体験することで、
そうすることから、はじめて原像の説明できないものにも現実味を。
*すがたとの体験はそう生易しいのものでは、どう見ても思わせぶりでしか、
仮想が現実なものと、社会はなかなか真面目にとれない。
*仮想はたしかに現実ではない、ですが、社会が過ちをしても、決して過ちなど、
していないと言い放ち、まったく逆のことも、平気ですることが。
*現に、すがたは、社会ではたらいているのは疑いないが、
原像、そのものの表側や裏側で、はたらいているものも。
*でも、社会は原像の表側で手いっぱい、さらに、原像の裏側を知ろうなどと、
仮想は単なる表れ、原像の裏側にあるものと、ごっちゃにしないように。
*どんなすがた(仮装・私的・深層)も現実、すこしづつながら、
社会は、変化の芽が生じる、日課(食・齢・創)はたゆまずに。
*日課をつづけていれば、原像からの影響もなく、気づかないまま、
ゆっくりと社会は変化していく、自身がしようと思ったわけでもないのに。
*さまざまな原像の体験は、とうぜん、仮装・私的・深層も混じりあうので、
その社会の素となる姿勢に影響を与えるので、一見、変容したように。
*日課(食・齢・創)は、さらなる深層の体験へと、深く、
それらが、すこしでもわかると、社会の「たどるべき」方向が見えるかも。
*また、ほんらいの日課(食・齢・創)の、あらたな目安にも、
すがた(仮装・私的・深層)は消え、まっさらな結びつきの社会が。
*ただ、“すがた”をよく理解しておかないと、とつぜん否定的な感情などが、
社会は、とても異なる「たどるべき」方向へ、いたることが。
*原像とのまじわりが、すぎると、仮装すがたから離れたり、
深層から強い影響をうけたりして、とても不可解な騒ぎをおこす。
*原像とのまじわりは、勝手きままに社会をあらざる行動や状態へと、
それに対し賛成したり、責任を負うこともできない。
*こんな社会には、堪えがたいもので、ほんらいの“たどるべき”方向へ、
それを理解していれば、はっきりと、何を選択すればよいのかと。
*原像のなかみが、そのまま深層内に留まるかぎり、社会での関係はゆがまず、
非現実さ、幻惑さ、錯覚などは、とりあえず社会におこさずにすむ。
社会は、重なりあう多重さでなく、ひろがりのある多様さが必要なのかも。