たどるべき-9

東京都渋谷区 塚崎 義人

 

「かたよらないこころ、こだわらないこころ、とらわれないこころ、

ひろく、ひろく、もっとひろく〜〜〜」

薬師寺元管長・故高田好胤師

 

物質、生命、こころ、

どの世界にも同化できる善い考え

 

なにを、受けつぎ  過去(祖先は)

なにを、受けつがせ 現在(家族は)

なにを、受けつぐ  未来(子孫は)

                〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

社会的原像4・・・創(4)

 

「真性(ほんもの)

 

 *原像が機能(はたらき)だと、わかれば、ほっとして、

    さまざまな、まとわりつくものから、社会は解き放たれ。

 

 *そうなれば、より深い社会の深層から、素朴さ(社会性)が、

    真性(ほんもの)は、ほんとうだと、社会も気づくのでは。

 

*ただ真性(ほんもの)は、もっとも気むづかしく扱いにくい、なぜって、

アンバランスのままの、ひとがら(知性、理性、感性、体性、霊性)を見れば。

 

*なので、いまのところ、まったく社会に為すすべはなく、それどころか、

そのようなアンバランスのまま、満足している社会が、いかに多いことか。 

 

 *むかしから、真性(ほんもの)を得ていると、いわれる社会は、

    とうぜんのごとく、礼儀を重んじ、尊敬をもち、豊かなバランスが見える。

 

 *そのような社会を見ると、なにごとにも、なんともうらやましいかぎり、

    たぶん、むかしから、とても大切なものを、受けついでいるから。

 

 *ここにも、真性(ほんもの)があるというなら、たしかにそうなのでしょう、

    ただ、それが社会ぜんたいに、いきわたっているかどうかが。

 

 *もしかすると、それは、真性(ほんもの)などではなく、

また、あの原像と混じりあって、いるだけなのでは、

   

 *原像の機能(はたらき)からも、まったく超えてなく、

    たぶん、あらたな交じりあいが生じているのが、ほんとうなところかも。

 

 *日課(食・齢・創)は、まじめにつづけているので、原像(仮装・私的・深層)を、

とりあえず、見くだしたり、軽んじたり、することはなくなって。

 

 *原像の機能(はたらき)の束縛から、解き放たれたといわれても、それは思いこみ、

    真性(ほんもの)ではなく、幻影(まぼろし)という。

 

 *原像のおよばない、より深い深層から、ひらめきを感じたというのも、

たぶん、それも真性(ほんもの)でなく、幻影でしょう。

 

 *でも、その幻影は、社会のさまざまな儀式・儀礼などにみられ、今も、

    すがた(仮装・私的・深層)を見れば、そのように演じさせられて。

 

 *幻影は、社会の中で精神的な意味あいが、きわめて大きいのかも、たとえば、

少年から男性へ、少女から女性へ、動物から人間へなどの儀式にみれば。

 

 *ただ残念なのは、今の社会には、このような儀式に匹敵するものが、なにも、

    あえていえば、見せかけだけで、意味のない成人式があるぐらい。

 

 *原像には、社会の成長のための、中身ある表現(通過儀礼)がふくまれ、

    実際に、よくよく見れば社会の中で、大きな影響をおよぼして。

 

 *深層には、隠れてるめざすものが、日課(食・齢・創)が深くなるほど、

    そのめざすものが、つぎつぎと浮かんでくるのを、感じるように。

 

 *仮装は仮装でなく、原像も原像でない、そう感じられるように、もしならないなら、

    原像から生じるすがた(仮装・私的・深層)は、単に社会の妨げになるだけ。

 

 *社会が、感情的な幻影に悩まされるのは、原像がもとなのだから、

    そして、単に心理的機能(はたらき)のまぼろしとわかるようになれば。

 

 *真性(ほんもの)の、まじないのようなものも消え、深層のもっと深くへ、

    原像のすがた(仮装・私的・深層)は、ここにおいて消えさる。

 

 

「とりこ」

 

 *原像はきれいに消え、何ともいえぬ真性(ほんもの)の魅力も起こらず、

    しずかな、落ちつきさに、満たされた社会が。

 

 *原像の幻影も消え、深層からの真性は、ほんらいのひとがらの姿となって、

    社会にあらわれる、このような流れは、変わらないようで。

 

 *並はずれた、英雄や、賢人や、宗教家がいた、社会は、

    いかに、真性(ほんもの)を、見抜く力を持った社会なのかと。

 

 *真性(ほんもの)のひとがらに出会えると、ほっとする気持ちが社会に、

    そのあふれる、揺るぎのないすがたに、こころが洗われます。

 

 *ただ、ふたたび、真性(ほんもの)に出会えないかと、

    素朴さ(神々しい)にかしこまり、すがりつくことは、ないように。

 

 *このきわだつ力の思いから逃れられず、素朴さ(神々しい)を、崇めつづける、

このことを、やめないかぎり、社会は同じことを、いつまでも繰りかえす。

 

*素朴さ(神々しい)に、心酔しきった社会の、せめてのささやかさは、

   すがた(仮装・私的・深層)を、演じることをやめるのが、精いっぱい。

    

*ほんとうの真性(ほんもの)と、向きあうには、

   社会が、“あるべき”すがたへと、進んでいかなければ。

 

*素朴さ(神々しい)に夢中になると、原像の機能(はたらき)も委縮し、

たぶん、真性のひとがらのとりこになる、あやうさが社会に。

 

*原像のときも、そうであったように、素朴な真性(ほんもの)そのものを、

いやでも、社会は気づかされるようになるのかも。

 

*真性(ほんもの)は、社会を個性(ほんとうの自由)へと、

すがた(仮装・私的・深層)から離れ、社会は目を覚ますように。

 

*社会が、真性(ほんもの)を得たなどと、言わないにしても、

これしかないという属性(そそられる)で、また、あがめるようになるかも。

 

 *そうなると、また原像の優位性に、あらゆる社会性はそちらにながれて、

    真性の幻影を、まちがっても素朴さ(神々しい)に祀りあげないように。

 

 *そう、祀りあげなければ、社会性という自然さは保つし、むやみな影響もない、

    社会の大切さ(重み)を、その社会が気づけるようになれれば。

 

 *そうなれば、すぐれた知性と、理性と、やさしい感性の、真の真性(ほんもの)へ、

    底流に脈々と横たわる、隠れているものを知ることができるかも。

 

 *隠れているものは、知ることが、できる・できないという、漠然としたもの、

それは、社会の“たどるべき”ものだから。

 

 *さまざまなすべての社会の、ど真ん中に、この“たどるべき”ものはあるはず、

    あらゆる社会の、もめごとの中から、“たどるべき”へ、とうぜんそのように。

 

   社会が、そのことを感じられるようになれば、さらに一歩前へ。