たどるべき-10
東京都渋谷区 塚崎 義人
「かたよらないこころ、こだわらないこころ、とらわれないこころ、
ひろく、ひろく、もっとひろく〜〜〜」
薬師寺元管長・故高田好胤師
物質、生命、こころ、
どの世界にも同化できる善い考え
なにを、受けつぎ 過去(祖先は)
なにを、受けつがせ 現在(家族は)
なにを、受けつぐ 未来(子孫は)
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社会的原像4・・・創(5)
「たどるべき」
*真性(ほんもの)の、なんともいえぬ魅力からも、解き放たれると、
ほんらいの社会に、もどることができるのでは。
*ほんらいの社会、それこそが、“たどるべき”ものに、ほかならず、
ぼんやりでしょうが、いっそうはっきり感じられて。
*いま、見つめている社会と違って、たどるべきものは、とても身近なもの、
社会の、ど真ん中にあるはず、わかっていながら、とらえられない。
*物質や、生命や、こころ、それぞれの世界の、ど真ん中に、
ふしぎでも、なんでもない、それが“たどるべき”もの。
*たぶん、知性・理性・感性・体性・霊性、の究極なバランス感覚、
それを、“たどるべき”ものと、いえるのかも。
*“たどるべき”もの、社会で、それそのものだと、捉えることは、
すぐには、見きわめできず、とてもむずかしいものと。
*なぜなら、どの世界(物質・生命・こころ)のだれもが、善い考えと認めるもの、
ほかに、言えるとしたら、ふしぎな力(神とか、覚りとか)のことでしょうか。
*社会での日課(食・齢・創)は、まさにこの一点への生活で、
それは、すべてのもめごとへの、解きがたい糸ぐちになるからかも。
*日課をおこたらず、社会みずから回帰(ふりかえり見つめなおす)できれば、
なぜって、“たどるべき”ものへと、行きつくことになるから。
*この“たどるべき”ものを、理解しようと、道徳論で、社会は話すのですが、
けっして、たどるべきものが、そうゆうものでは、ないということを。
*ふしぎな力(神とか、覚りとか)の本質へ、よく、達しようと試みますが、
しょせん無理なこと、“たどるべき”ものも、同じようなものと思えば。
*もめごとは、“たどるべき”そのものの糸口、さらに、それが社会だと、
社会で起こることがらを、たぶん、うまく表現できるようになれるかも。
*“たどるべき”ものを感じられたというのは、万に一つのこと、
常に日課(食・齢・創)を行うことしか、それを身につけることは。
*“たどるべき”は、こうゆうことなんだと、はっきりとは、
それは、人間だけの社会のことだけを、言っているわけでなく。
*社会を見わたして、“たどるべき”へ向かっているのではと感じられたら、
そう、善い考えが生まれるところまで、来ているのでは。
*“たどるべき”を、日課(食・齢・創)が感性的に感じられたとしても、
でも、はっきりしたことは何もなく、こうと述べることはできない。
*“たどるべき”ものを、見つけられるのは、目の前にある社会の、ど真ん中に、
もし、それが見つけられたなら、たぶん、前に進もうとう気もちに社会が。
*“たどるべき”を、ふしぎな力(神とか、覚りとか)とか、思ったとして、
理詰めのすじみちの考えをもっても、明らかに、することはできない。
*日課(食・齢・創)をつづけること、そして正面から向きあい、
社会の、もめごとのど真ん中を、じっと見つめれば、かならず。
では、ど真ん中を、見つめるには、もっとも身近で文化的なもの、
はっきりした、姿勢(考えかた)と、方法(進めかた)で。