たどるべき-17
東京都渋谷区 塚崎 義人
「かたよらないこころ、こだわらないこころ、とらわれないこころ、
ひろく、ひろく、もっとひろく〜〜〜」
薬師寺元管長・故高田好胤師
物質、生命、こころ、
どの世界にも同化できる善い考え
なにを、受けつぎ 過去(祖先)
なにを、受けつがせ 現在(家族)
なにを、受けつぐ 未来(子孫)
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社会的観照2・・・方法(進めかた)-6
領 域 | 構 成 <家 庭 人>
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
外 |対象 (色) [
縁 故
] [
親 子
] [
血 縁
]
|・・・・・・・・ ↑↓
部 |手段 (受) [ 礼 ] [
愛 情
] [ 徳 ]
・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑↓
| | |表 [
祭 祀
] [
生 命
] [
尊 敬
]
|意 | 体 |象
内 | | (想)・・・ ↑↓
|識 | 制 |心 [ 冠・婚・葬・祭
] [ 継 承
]
| | |象
|・・・・・・・・・ ↑↓
部 |無 |要素(行) [
祖 先
] [
家 族
] [
子 孫
]
|意 |・・・・・・・・ ↑↓
|識 |基盤(識) [ 孝 ]
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(実体はなく、実体がないからこそ)
〜〜かたよらず、こだわらず、とらわれない〜〜
「 孝 」 ・識(しき):いのちの、ありがたさ(仁 義 礼 智 信)
*むかしも今も、これからも、五常(仁 義 礼 智 信)は、たいせつに、
そのような、こころ根のやさしさは、ありがたい。
*仁(じん)いたわり、義(ぎ)なすべき、礼(れい)おもんじる、
智(ち)さとる、信(しん)いつわらない、そのままに。
*生きものの世界、根本にあるのは、いのちのたいせつさ、
人も、食べ・齢とり・生きて、このことの正しさを伝えられれば。
*くらしの根っこに、食(食事訓)、齢(古訓)、創(般若心経)を、
略訳は、たどるべき11、伝えるのは、ご自身なりで。
<食事訓>
一には 功の多少を計り 彼の来処を量る
二には 己が徳行の全缺を忖って 供に応ず
三には 心を防ぎ過を離るるは 貧等を宗とす
四には 正に良薬を事とするは 形枯を療ぜんが為なり
五には 成道の為の故に 今この食を受く
(禅宗 食前の偈文(げぶん)より)
<古 訓>
一には 一生は始まることなく 終わることもなし
二には すべては心のはたらき こころのみに依存する
三には 内なる存在を知るべし
四には 罪性の根本は 認めぬところにあり
五には 寿命をまっとうし 老衰あるべし
(禅宗 修証義より)
<般若心経>
一には 色 無明
二には 受 照見
三には 想 三世
四には 行 食・齢・創
五には 識 真言
(空の無自性より)
「 親子 」 ・色(しき):生まれて、生んで、ありがとう
*気の遠くなる、いのちの流れ、運よく、いままで止まらず、
ちいさな、命のつながりが、今ここに、そのふしぎさを。
*たいせつな、いのち、明日へと、つなげていければ、
血縁であったり、縁故であったり、さまざまな因と縁でもって。
*親と子、もっともたいせつな、ささやかな関わり、
受けつぎ、受けつがせ、受けつぐ、そこにこそ、いのちのあしたが。
*親と子、むりのない五常(仁 義 礼 智 信)を、
ゆっくりと、家庭に、そして社会へと、ひろげていかせられれば。
*家庭のくらしを、日々、たいせつにできれば、
そう、食べ(食事訓)、齢とり(古訓)、生きる(般若心経)ことなのだから。
「 愛情 」 ・受(じゅ):いつくしみ・あわれみ
*愛と情、ふんわり、あたたかく、ほんわかと、
だれもが、そう感じられる、満たされたこころ、ここに。
*子をおもう、親をおもう、こころ深くより湧きいでる、愛と情、
なんの迷いなく、純粋そのままに、あらわされ。
*すべての生きものにあって、こころの深きところより、
そうした愛と情は、いのちある生きものだけのものなのかも。
*ひとの社会も、まちがいなく、不可欠な、とてもたいせつなものとして、
その愛と情に、よい・わるい、そんなものが、あるのでしょうか。
*たしかに、愛情は、ひとそれぞれ、ひとつとして同じようなものはなく、
どのような、愛なのかは、その人のみの、でも、それってほんとうなの。
*それぞれの愛には、そのひとのもつ、情というものがまとわりついて、
情って、理性でなく、ものごとを感じる心もち、感情といわれ。
*感情、親の遺伝性とか、そのひとの性格や性質から、うまれるもの、
とても複雑、込み入った様相を、とくに愛と結びつけばつくほど。
*感情には、怒り・悲しみ・楽しい・愛おしい・憎しみ、などなどが、
ひとの食べ・齢とり・生きる、これが関わることで、さらに込み入って。
*愛情は、愛(つくす)と、情(なさけ)がいっしょにくっついて、だから、
愛がうまれても、それに情のどこが絡み合っているのかは、知るよしがない。
*まず、意識していなければならないのは、情より愛を、
なぜって、情を感ずるこころの、根底には、かならず愛があるので。
*じゃあ、愛ってなに、そう愛には、複雑でさまざまな情がくっついて、
愛の根底には、もととなる何かが、いつも自身を見つめていると、自然と。
*むかしから、遠く古く、いまにいたるまで、精神的な深いものが、
そう、いつくしみ・慈、あわれみ・悲、という慈悲が、だれの愛の根底にも。
*そこから、うまれる愛こそが、まことなのかも、愛が生まれたと感じたら、
自身のこころに、その愛が、慈悲からうまれたものかを、ぜひ聞いて。
「生 命」 ・想(そう):生きているの、死んでいるの
*生きている、死んでいる、このようなあらわれを生命と、ごく自然にいえば、
ただ、このあらわれを、どうとらえているかは、おおくの見方があるよう。
*たとえば、ひとって、おおくの生命があつまった、生きものだといわれたら、
そう言われても、すぐには、わかったようで、わからないような。
*すべての生きものも、ひとも、もともと同じ生命から、始まり起こり、
その生命が、さまざまに組み合わされ、さらに複雑な生きものへ。
*生きものを、生きものとする生命は、細胞といわれ、
いまのところ、生きものを構成する、唯一の生命は、細胞のみ。
*細胞による生命の生きものには、単細胞から、多細胞までの生きものが、
そこらじゅうに、たくさんいる生きものも、おなじように細胞から。
*ひとも、とうぜんのように、機能的なおおくの細胞という生命から、
複雑にあつまった多細胞の、統合された生命体ということを、ちょっと。
*すべての細胞は、生き死にが、それぞれ役割と役目が終われば、自然へ、
それが、生きものの、どうすることもない定めなのだから。
*でも、ひとは、そうは思わない生きものとして、あらわれていて、
すこし、ほかの生きものとは、ちがう生きかたをしようとしているのでは。
*ひとという、一つにまとまった生命体が、この世から去ったとしても、
からだの細胞は、移植や、培養や、復元などで、生きつづけさせることが。
*今では、あたりまえのように、生きつづけさせ、ほんにんに関わらず、
生きものという、自然の定めから、ひとは急速に離れはじめ、どこへと。
*ほかの生きものと、決定的にちがうところが、ひとに、それは、
ひとという生命体の、脳の中枢神経系内に「心の器」がうまれていること。
*他の生きものにも、たしかに「心の器」があるのですが、
ひとの「心の器」にくらべたら、微々たる、ささやかなものでしか。
*はてさて、ひとの「心の器」のなかには、何があるのでしょうか、
そうなんです、家庭って、それぞれが一緒になって、それをさがすところかも。
*だからこそ、食べ、齢とり、生きて、が、とてもだいじに、
なぜって、ひとは、おおくの生命がまとまった、微妙な生命体だから。