たどるべき-18

 

東京都渋谷区 塚崎 義人

 

「かたよらないこころ、こだわらないこころ、とらわれないこころ、

ひろく、ひろく、もっとひろく〜〜〜」

薬師寺元管長・故高田好胤師

 

物質、生命、こころ、

どの世界にも同化できる善い考え

 

なにを、受けつぎ  過去(祖先)

なにを、受けつがせ 現在(家族)

なにを、受けつぐ  未来(子孫)

                〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

社会的観照2・・・方法(進めかた)-7

 

  領 域 | 構 成             <個  人>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

外  |対象   (色)  [ 他  人 ]  [ 問  題 ]  [ 自  分 ]

     |・・・・・・・・           ↑↓

部  |手段   (受)  [ 鍛  錬 ]  [ 論  理 ]  [ 知  恵 ]

・・・・・・・・・・・・・・・・          ↑↓

      |  |   |表  [ 環  境 ]  [ 人  生 ]  [ 段  階 ]

     |意 | 体 |象

  内  |  |  (想)・・・          ↑↓

      |識 | 制 |心  [ 心 の 組立 ]   [ 心 の 制御 ]

      |  |   |象

     |・・・・・・・・・          ↑↓

  部  |無 |要素(行)  [ 食  事 ]  [ 年  齢 ]  [ 創  造 ]

      |意 |・・・・・・・・        ↑↓

      |識 |基盤(識)  [           祈り           ]

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(実体はなく、実体がないからこそ)

                     〜〜かたよらず、こだわらず、とらわれない〜〜

 

 

「 祈 り 」 ・識(しき):氣づき

 

 *日々のくらし、食べ・齢とり・生きる、

    今日のしあわせを祈り、明日のしあわせを祈る。

 *祈りは、ひととして、もっとも大切なおこないのひとつ、

    そう、人間というのは、これがすべてなのかもしれないほど。

 *それほど、ひとにとって、もととなっているもの、祈りをはっきりとかたちに、

あらわされているかた(皇室)も、おられることに、気づかれるはず。

 *食べ(食事訓)、齢とり(古訓)、生きる(般若心経)、

日々、くらしの祈りの中にこそ、そのひとのすべてがあらわれるのでは。

 

「 問 題 」 ・色(しき):問題、問題点、問題の本質

 

 *もともと時間(軸)は、ない、時のつらなる流れもない、

    瞬間に生まれ、瞬間に消える、思い(意識)も、瞬間・瞬間に生滅。

 *ひとの思い(意識)は、いつも飛躍、過去に、現在に、未来に、その逆も、

    前後・左右・上下・四囲、すべての方向へ、瞬間・瞬間に。

 *時間は、頭の中のおざっぱな観念、確かに時計は「時を告げる」、

そこにあるのは、ものの動き、現象のみ(地球の自転や公転)。

 *時間(軸)の役目は、パラメータ(さまざまな歴史的現象を並べる)、

    動き(現象)を、過去・現在・未来のどこから観察しようが、かわらない。

 *問題は、瞬間に生まれ、瞬間に消え、おなじものが連続することはないから、

    だから、問題を、正しい時間(軸)に並べなければ、解決しようがない。

 *すべての問題には、問題と、問題点と、問題の本質がふくまれていることを、

    問題   :本質を、良い・良くない、どちらかに行かせる分岐。

問題点  :本質を、もっとも強くはたらかせる要因

問題の本質:根本を、成り立たせる不可欠な特性    

 *ひとは、この世のどこかに生まれ、生涯を過ごし、死んでゆく、この一生を、

どこで見るか(過去現在未来、上下前後左右四囲)で、おおきく違いが。

 

「論 理」

 

 *論理は、さまざまな考えの、あきらかなつながり、たとえば、

    ・原因には結果が、結果は新たな原因に、そして、新たな結果へと。

    ・目的には手段が、手段は新たな目的に、そして、新たな手段へと。

 

 *原因と結果、目的と手段、時の流れのなかで、なにをどう選らべば、よいか、

    この関係こそ、ひとの人生に、もっとも必要な論理の原則なのかも。

 *また、世のなかで起こりえる、すべてのできごと「現象」には、

かならず、切っても切れない論理原則、「本質」があることを。

 *現象と本質、たとえばA氏、B氏、C氏が死んだという現象、

これらに共通なもの、それは、すべて「ひとは死ぬ」という本質。

 *現象から、本質から、どちらから見ても、同じことを、あらわしている、

    死ぬという本質は、かならず、だれもが死んでいくという現象を。

 *この現象と本質という、考えのすじ道さえ、知っていれば、

    ほとんどの、世の中の、ものごとの出来ごとが、わかるというもの。

*はっきり、ものごとを見つめるために、知っておくのは、

    ・現象という個々の事実から、共通の法則、本質を導きだす(帰納法)、

    ・本質という共通の法則から、必然の結論、現象を導きだす(演繹法)

*原因と結果・目的と手段・現象と本質、知ってさえいれば、

    まず、日々のくらしのなか、食べ、齢とり、生きることが、充実したものに。

 

「人 生」

 

 *ひとの人生で、どうしても知っておかなければならないことが、

    ひとは、三つの要素(物質と生物と心)から組まれていることを。

 *どうしても、忘れがちになってしまう、ひとにとって、もっとも大切なのに、

    なぜって、すべての問題は、この三つの要素からが、原因なのだから。

 *それと、人生には、ぜったい超えることのできないおおきな壁が、

すべてかならず訪れてくる、どうしようもないこと。

 *いつくるか、それぞれの、ひとのことなので、わかりませんが、死、

    それはとつぜん訪れる、それまでの人生、とうぜん、しあわせだったと。 

 *そのことに、わかるのが死に向きあったとき、今、生きていることや、

    それまでの人生が、どうであったか、もっと、気にしていいはず。

 

*「生死」、いまさらのように、よく知っておけばと、齢を重ねれば重ねるほど、

    <古訓>                    (禅宗、修証義より)

一には 一生は始まることなく 終わることもなし

二には すべては心のはたらき こころのみに依存する

三には 内なる存在を知るべし

四には 罪性の根本は 認めぬところにあり

五には 寿命をまっとうし 老衰あるべし

 

  「一生は始まることなく 終わることもなし          菩 薩 」

   ・菩薩、ひとりひとりのこと、迷うこころをなくし、

世の中で、人生はどうあればいいのかな、一生けんめい、はげむ。

   ・この世に、どのように生まれ、人生をすごし、死んでゆくのか、

それを明らかにするのが、人生最大のしごと。

   ・菩薩は、いつものくらしのなかで、明らかにしようと、

身と心を磨き、けんめいに励む、そのことを、菩薩行と。

   ・ひとの生き死に、ここでは一般的な生死のことをいっているわけでなく、

      ほかならぬ自身の生死、人生は長いようで短いもの、急がなくては。

   ・ただ、解明するには、とてもむずかしい、それは、心の中に、

      解明しようとする自分と、解明される自分が、いっしょにいるので。

   ・だからこそ、くらし「食(食事訓)・齢(古訓)・創(般若経)」のなかで、

      おこないを正しながら、明らかにしていけば、たぶん解明できるのでは。

  

  「すべては心のはたらき こころのみに依存する        三 世 」 

   ・ひとは、行いと、それによる報いが、相応すると知っている、

      原因と結果、まぎれもない、あきらかなこと。

   ・時間はもともとないのに、過去・現在・未来へ流れると、ひとは思い込んで、

      因果応報、輪廻転生で、ひとを束縛し、苦しみ悩ませているよう。

   ・このながれの時間は、ある意味、虚妄性をもって、日々のくらしのなかに、

深く色濃く刻まれ、昨日・今日・明日という因果応報に慣れきって。

   ・考え、おこなったりする結果(煩悩)は、過去からの因果なんだからと、

      過去からの行いに引きずられ、新たな善い行いを、おこないそこね。

   ・過去からの因果応報なんだと、あきらめてしまい、ついそのままに、

      過去の行いを重ねてしまうのが、いつものことのように。

   ・さらに、今の自分の境遇(幸・不幸)のほんとうの原因を見つけられないので、

      過去の業(おこない)の報い、輪廻転生という時間の流れに、身をまかせ。

   ・幸・不幸の原因は、過去からの因・縁のせいなんだと決めつけがちに、

      過去からの時間のながれだからと、思うことこそ、間違っているのに。

   ・そう、発想を変え、時間のながれを、明日から今日、そして昨日へ流れると、

      すべてのものごとは、未来から自分にむかって流れてくるものだと。

・できごとは、とつぜん未来から、現在化し、過去へと流れ去っていくもの、

      いつ、何が起こるのか、終わりがあるのか、だれにもわからないのだから。

   ・ただ、刻々と、移り変わるのみ、まったく予想なんて、できるはずがない、

      予測できない、できごとが、突然、未来から現在へとあらわれるだけ。

   ・一瞬の、現在のできごとがあるのみ、はかない無常の時の流れのみ、

三世(未来→現在→過去)の、時の流れを、わきまえ生きてみれば。

   ・自身にとって、断つべきものを断ち、新たに獲得すべきものを獲得でき、

苦悩(悩ましい欲)に、振り回され(因果応報・輪廻転生)はしない。

 

「内なる存在を知るべし                   三 心 」

   ・貪り(満足しない)、怒り(報われない)、無知(知ろうとしない)、

愚かしい、それなら、そのことをさらけだし、心に聞いてみるのも。

   ・四苦(生・老・病・死)と愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦、

      これらの苦悩を合わせたものが、ひとを煩悩で四苦八苦させて。

   ・そのため、どうしようもなく、ひとは、救いを求め、さまよいつづける、

六道輪廻(地獄、飢餓、畜生、修羅、人間、天上)のなかを。     

・これらの、あいだを行ったり来たり、さまよってはいますが、

だれの心根にも、かならず、欲心と願心と仏心という三心があることを。

   ・欲心:六道輪廻の煩悩によって、良い悪い、けじめがつかず、

進退きわまり、右往左往しながら、どん底へ、苦しみ落ちていく。

   ・願心:欲心の迷いの苦しみから、逃れるには、まずはじめに、

       はっきりと願うべきものを、自身の前におくことに気がつかなければ。

   ・仏心:願心をなしとげるには、三世を見つめる見方を、心底変え、

       輪廻転生の鎖を断ち切り、あらたな自身(慈悲)をつくりあげられれば。

  

   ・あらたな自身(慈悲)へ、進ませる第一歩が、懺悔から、でも、

      懺悔は一度ではすまない、また反省では、反省ですむものでもない。

   ・懺悔には、こころからの謙虚さと、反省で済まない深く深い根が、

      まず、これを認めることからが、始まることを。

   ・その背景には、なにも絶対化しないという、般若の知恵“空”が、

      だから、道にそむいたとしても、懺悔し、あらためられるのではと。

   

・でも、すべてが空ならば、良いも悪いも、絶対ということはなく、すべてを、

あらためたとしても、終わりなく、いつまでも輪廻してしまうことが。

・なので、ひと(菩薩)は、いっとき、あらためただけに、とどまらず、

      何度でも、“空”を背景に、世のあやまちを、あらためさせようと。

・あやまちを、あらためさせるのが、ひと(菩薩)の根本的な、懺悔だから、

      なぜって、煩悩の迷路の中では、ひとは、あやまちを犯しやすいから。

・愚かさに、気づいたなら、慌てふためいて右往左往せず、心をしずめ、

      あらためて、自分を見つめ、あらたにあがってみれば、いいことだから。

   ・自身の心の正面に、こうなりたいという願いを、はっきりと置く、

      なにを、置けばよいのか、まず第一歩は、懺悔をあらわすことから。

  

「罪性の根本は 認めぬところにあり              宝 」

   ・どんなひとであっても、「思いやりの心」はある、

      大人であれ、子供であれ、それを素直に認めるだけ、すばらしい。

   ・ブッダは、わたしは導師なんかではない、と言い切っていたそう。

なぜなら「仏・法・僧(ぶっぽうそう)」とよぶ、三つの宝があるからと。

   ・仏、ひとびとにとって、ブッダは偉大な先達、そうありたいものだと、

      ブッダを信じられる、努力に値する先達だと、これが尊敬の念かも。

   ・法、教えはくすり、効き目があったりなかったり、劇薬のばあいもあるので、

      教えに盲信はせず、よくよく、その使いかたを見つめていなければ。

・僧、すぐれた友人たち、それぞれ、師であり、よき助言者でもあり、

      役目がおわれば、対等な立場に、おたがい人格的なあつまりなのだから。

   ・空の教えなんかも、いっさいを空じることが目的になってしまい、

      否定するを良いのだと、虚無の姿勢に、ひとは陥ってしまうことも。

   ・無知の盲信も、この考えこそ、信じさえすればと、絶対化してしまいがちに、

      それが足かせとなり、思考は停止し、成長のさまたげとなっているひとも。

  

 「寿命をまっとうし 老衰あるべし            即身 是仏 」

  ・一回こっきりの人生、「すばらしい人生だった」と、

      身にしみ、ふかく感じられたなら、とても幸せなこと。

   ・そうはいっても、いざ、この世からはなれる段となると、あれこれ思い悩む、

      どんなに悩んだところで、過ぎさった時の流れは戻りはしない。

   ・むなしく過ぎるならば、後悔と悲哀に満ちた一生を、しみじみと、

      だから、日一日のくらし(食・齢・創)が、たいせつに。

   ・日々のくらしには、さまざまな出会いが、そのなかでも、とくに、

      自分と出会うことができたなら、人生を活かしきれるかも。

   ・ぜひ、迷わずやってみれば、うまくすれば出会うかもしれない、

      むかしから、先人たちも、同じように菩薩行をつづけてきたのだから。

   ・たしかに、多くの教訓や、古訓をまなぶことは、たいせつなのですが、

      ただ、ここでいう出会いは、学ぶだけで、自己を活かすには、ほど遠い。

   ・古訓を学んでいるひとならば、いまの問題をみつめ、未来にある、よい行いを、

      現在にもたらし、ひとびとに幸せを、もたらすことができるはず。

   ・過去のひとびとの菩薩行を慕うひとであれば、

      過去の菩薩行を超え、未来へむけた菩薩行をおこなえるのでは。

   ・むかしの菩薩行を超えるというのは、自分が自分を超えること、

      自分を超えるとは、どこまで自分を活かせることができるのか。

   ・古くさい自分の殻を脱ぎすて、願心(自覚)から、

      あたらしい自分を育てていけるのか、みつめてみれば。

   ・そして、自分と出会えたとしたら、そこに満足せず、立ち止まらず、

      あらゆる縁と出会い、たいせつにすれば、さらに自分がわかるはず。

   ・出会いというなら、善男善女には「観音さま」がおられる、

      お経を唱えながら、観音さまのまわりをぐるぐるまわれば。

   ・どんな説教や理屈も、観音さまの、お姿には、かなわない、

      ひとびとには、ちゃんと観音さまと出会い、お願いする世界が。

   ・どこにでも自分はいる、自分自身が自分になれば、そう、まちがいなく、

自分に出会う、でも自分に出会ったなど、とてもおこがましく。

   ・気づかないのかも、たぶん、ひとは、いつも自分と出会っているはず、

      もし、自分と出会ったと気づいたとしたら、そう、すばらしいこと。

   ・おおくのひとも、自分と出会っているのだと、思えれば、さらにしあわせでは、

      このひとも、あのひとも、出会っているとわかれば、すばらしい。

   ・自分をかえりみて、だれかを思い、何かを願い、ひとに手を差しのべる、

      自分の心の中に、一瞬かもしれないが、こころの感性が、よぎる。

   ・一瞬であっても、自分のこころの感性との出会いは、確かなはず、

      自身の中に、このような出会いが重ねられれば、これこそすばらしい人生。

   ・日々のくらしの中での努力を励めるのは、ほかならぬ自分しかいない、

      そのことを自覚していれば、いずれも自分自身の人生に流れ込んでくる。

  

      ひとも、実体はないのだから、実体がないからこそ、

        すばらしい“こころの感性”と出会うことが、いつでも。

    

そのための、般若の知恵“空”、

          何にたいしても、かたよらず、こだわらず、とらわれず!